第四十三話:閉塞作戦
明治37(1904)年2月10日、日本軍の軍事行動が開始されてから2日後に日本政府はロシア帝国に宣戦布告し、ロシア政府も大日本帝国に宣戦布告をした。
日露両国は世界に対し、日露戦争の開戦を宣言したのだ。
翌11日には宮中に戦時下の陸海軍の最高司令部となる大本営が設置され、日本国内の戦時体制は完成しつつあった。
しかし、戦争が始まってから暫くは陸海軍に大きな戦闘が起こらなかった。陸軍は、先方となる第1軍の第12師団が朝鮮に上陸したばかりであり海軍は主力の第1艦隊が遼東半島の旅順港に引きこもったロシア艦隊を相手に待ち伏せ状態が続いままで、第2艦隊の担当する対馬海峡の警備は脅威となるウラジオストクの艦隊が現れる事なく陸軍を積んだ輸送船の安全を守っていた。
ロシア海軍の極東方面艦隊の主力は陸上砲台が無数に守る旅順口の奥に籠もったままで、第1艦隊は旅順艦隊が出撃して艦隊決戦に臨む事を今か今かと待ち構えていた。
第1艦隊が旅順口の外で網を張る事によって旅順艦隊による輸送船への通称破壊を阻止するのには成功しているが、逆に第1艦隊の戦略的な行動も縛られている事にもなる。
洋上に長期間も止まれば兵員の負担も積もるばかりで、艦艇の底に牡蠣が張り付いて艦の航行速度に支障が生じてしまう。
とは言え、ロシア艦隊の籠城に日本側は何も手を加えなかった訳ではない。第1回目の旅順夜襲の日の9日の昼間、主力の第1戦隊、第2艦隊から第2戦隊、第1艦隊の第3戦隊が旅順口に接近して旅順艦隊の出撃を誘った。だが、夜襲の混乱と被害により日本艦隊と決戦に挑む戦意は無く、旅順港を守る周辺の陸上砲台に阻まれ戦果は出ずに終わった。
そして、12日には再び夜襲作戦を実施したが悪天候により部隊行動がバラバラになりロシア艦隊への攻撃が失敗となる。
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「閉塞作戦だと!?馬鹿な、旅順口周辺の陸上砲台の数を分からんのか!!」
と、兒玉十五朗は戦艦『三笠』の艦上で声を上げた。彼は最初の旅順口夜襲から数度、旅順近海まで接近する任務に着いてきただけに旅順周辺の陸上砲台の威力を肌身を持って知る一人だ。
「既に長官や参謀長が作戦の許可を下した」
秋山真之が話す。
「秋山、お前も賛成なのか?」
「賛成などできるか!あしも旅順口のロシア軍の砲台の守りがサンチャゴ湾の比で無い事が百も承知だ!」
秋山は、明治31(1898)年にアメリカに留学して海軍戦術について学んでいた。そして時同じくしてアメリカとスペインは、西インド諸島のキューバの独立を巡って戦争が勃発した。米西戦争である。
この戦争でアメリカ艦隊はキューバのサンチャゴ湾のスペイン艦隊を無力化するために海軍史上初の閉塞作戦を実行した。旅順の地形に似たサンチャゴ湾の狭い港口に大型船舶を自沈させてスペイン艦隊の出航を阻止させようとしたのだが、結局はスペイン軍に発見され陸上砲台の攻撃により失敗した。
そして、サンチャゴ湾のスペイン軍の要塞を上陸したアメリカの地上軍が制圧してスペイン艦隊はアメリカ艦隊との海戦で壊滅した。
この一連の戦闘を秋山は日本の観戦武官として一部始終を観察して軍令部に提出した。日本海軍はこれを『極秘諜報第108号』として日露戦争への応用作戦として研究された。
旅順港での閉塞作戦を立案したのは連合艦隊参謀で秋山たちより海軍兵学校5期先輩の有馬良橘中佐だ。彼も対露開戦以前からロシア極東艦隊の撃滅の作戦を練ってきた。その作戦の一つが閉塞作戦だった。
旅順口に数隻の閉塞用の大型船舶を横隊に並べて自沈させる案を連合艦隊指令長官の東郷平八郎に提出した。
東郷も有効的な作戦がでない中で多少の危険と犠牲を払っても事態打開に繋がるならと閉塞作戦実行の許可を下ろしたのだった。
因みに秋山も旅順口への閉塞作戦を研究していたが、閉塞船に用いる船舶は清国から接収した『鎮遠』型戦艦ほどの大型艦でなければ効率的な作戦遂行ができない上、自沈後の乗組員の生存性を考慮した結果に挫折している。
「陸軍に陸上から旅順艦隊に圧力を加えて洋上に追い出すのが一番の方法だろう。何故それをちゃっちゃっとやらん?」
十五朗の問いに秋山は首を横に振りながら応えた。
「あしら海軍の作戦に陸軍が首を突っ込む事を拒む連中がいる。彼らが考えを改めるのに時間がかかる」
「馬鹿な!んげな石頭共のために有能な将兵を死地に追い立てるんか!?」
十五朗は絶句して海の先に見える旅順を睨んだ。
閉塞作戦は半ば決死作戦だとも言える。砲台が多数設置された港口に閉塞船を進入させれば集中砲火は明らかだ。軍艦のように分厚い装甲は無く、自沈用の火薬に至近弾を受ければ船員諸共に轟沈は免れない。仮に閉塞船から脱出できてもロシア軍の陸上砲台の射程外までカッターを漕いで逃走しなければならないが、ロシア軍が逃げる丸腰の敵を見逃さずに砲火を加えてくるだろう。ましてや、今度のロシア軍は警戒を厳格にしている筈だ。
「…はあ閉塞船の船員は決まったんか?」
「あぁ、志願を募ったらぎょうさん集まった」
「そいで、誰が行くんがね?」
「広瀬さんが名簿に入っとる」
「広瀬さんが!?」
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広瀬武夫は海軍少佐で、戦艦『朝日』の水雷長であった。
日清戦争の後、日露開戦を見据えてロシア語を学び明治30(1897)年にロシアに留学する。明治35(1902)年の帰国の間には駐在武官としてロシア帝国の政界に顔を通して交流を深め、ロシア各地の軍事施設を見学する機会などを設けた。
ロシア在住の間、ロシア海軍大佐の娘アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと出会い文通の仲となった。
彼女とは日露開戦となった今でも、国境や人種を乗り越えて手紙のやり取りが続いていた。
広瀬にとってやりきれない気持ちがあるだろう。敵を知るためにロシアに入りながら、そこで育まれた交流がロシアと言う敵国への敬愛となり、一人の女性への情が出来てしまったのだから。
今回の閉塞作戦は広瀬のロシアに対する自身へのけじめをつけるためだったのかもしれない。
大国ロシアとの戦争に勝つため自分に何ができるのか。それを精一杯にやる事で祖国日本のために役立つのだと。
だが、運命とは無情なものだ。それは時により場所により状況による。戦争に無情は当たり前だ。
これから起こる一つの悲劇は日露戦争の中で起きる悲劇のほんの一部に過ぎないかもしれない。しかし、一つの悲劇が多くの人間に大きな影響を及ぼす事になるのだと十五朗たちは思い知らされる。