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if 明治興亡記  作者: 高田 昇
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第三話:二人の兒玉

 日本の新時代・明治


 月日が経つにつれ、新国家を作り上げる者、それに従う者達とそれによって身分を失った士族との溝は深まっていた。


 明治政府は新国家建設のため、これまでの士農工商の身分を無くし、名目上の四民平等を掲げ大名、武士の階級を廃止し、元あった身分を問わず華族、士族とした。その後、秩禄処分により、士族の家計を圧迫され廃刀令の施行による武士の特権を剥奪された。この事は、平清盛から七百年間も続いた武士の時代の完全な終焉を意味していた。


 文明国家は貿易によって栄える。日本も殖産興業に力を注ぐも欧州列強との対等な貿易は行えず、明治維新により西洋技術を東アジア国家で初めて導入した日本だが、列強国の視点からでは、『発展途上国の一国』に過ぎなかった。


 この事により明治政府は隣国の李氏朝鮮に目をつけた。この頃の朝鮮は、日本の江戸時代のように鎖国政策と封建的身分制度が数百年間も続いけられており、日本と朝鮮の国力の差は歴然としていた。明治政府は国力の促進のため、政府は朝鮮に開国を求めた。しかし、朝鮮側は今までの自国の文化を放棄し、西洋文化を取り入れた日本を軽蔑しはては『猿』と罵り日本の要求を退けた。


 朝鮮の対応により明治政府内はでは『征韓論』が沸き上がった。しかし、『征韓論』は朝鮮の日本に対する対応による報復措置ではなく、あくまで開国を要求する手段であり、『征韓論』を主張する主要人物は西郷隆盛、江藤新平、後藤象二郎、板垣退助、副島種臣らであり、これに異を唱えるのが欧米視察から帰国した西郷の親友の大久保利通、木戸孝允、岩倉具視や伊藤博文、大隈重信、黒田清隆等が対立し、結果、西郷、江藤、板垣等『征韓論』派六百余名は明治政府から去って行った。この一連の流れを『明治六年の政変』と言う。


 西郷隆盛が明治政府から去ったことにより、士族の不満は一層募り、さらなる追い討ちに先に記述した秩禄処分や廃刀令が重なり、反政府の気運は更に高まり、政府と士族は互いに相手を滅ぼそうという一触即発の事態に陥り、この事が後に、日本最後の内乱に発展していく。この事態が後に、日本最後の最大の内乱に発展していく。


*****


 『明治六年の政変』により下野した江藤新平は九州の旧佐賀藩で征韓党が政府に対する反乱計画の企てを阻止すべく憂国党の島義勇と共に佐賀に帰郷するも、島が政府が征韓党の反乱計画を察知し軍の出動を計画していることを知り、そのことを島が江藤に知らせたら「最早戦は避けられぬのか!」と叫び拳を床に叩いた。


 そもそも江藤は、佐賀士族の反乱計画阻止する身であったが佐賀士族達から征韓党の首領推薦されていた。江藤は政府の行動に対し、自らの運命を佐賀士族と共にすることを決意し、江藤新平は征韓党党首となり、政府に対して、初の大規模な不平士族の反乱を起こした。


 政府との直接衝突は明治七年2月15日、佐賀県権令岩村高俊とその護衛のため数百名の隠る佐賀県庁佐賀城を包囲。


 2月19日、佐賀討伐発令、前日14日に横浜を出航した内務卿大久保利通率いる鎮圧軍が博多に到着する。


 この鎮圧軍の中に一際注目を集める部隊が存在した。


 その部隊は千名にも充たない大隊弱であるが、ガトリング砲を集中配備された独立実験部隊である。


 『独立ガツトリング砲隊』それがこの部隊の名である。隊長は石本鎌九朗という陸軍大尉である。彼は北越で、ガトリング砲の威力を肌身をもって味わい、右足に三発の銃傷を受けた。また、兵学にも精通しており、そこを独立ガツトリング砲隊創設に携わった兒玉十三朗の目にとまったのであった。


 政府軍の攻勢は22日に開始された。


 独立ガツトリング砲隊は各中隊ごとに散開され、主たる場所に配置された。佐賀県鳥栖市近郊の朝日山にて、鎮圧軍に雄叫びを挙げて突進してくる佐賀士族にガツトリング砲は火を噴き、『タタタタッ』と一定の銃音が響き渡り一連射撃ち終わると突っ込んで来た佐賀士族はその全てが倒れ屍の山を築き、血の河が流れ出た。そのガトリング砲の威力を目にした鎮圧軍のガトリング隊以外の将兵達をも騒然とさせた。一挺のガトリング砲だけで鎮圧軍に対する佐賀士族の突撃が大損害のもとで断念させられ、この現象が散開していた各ガトリング隊で起こり、朝日山の土は大勢の佐賀士族の血を吸い込んだ。この数時間の戦闘で戦いの勝敗は決し、以降鎮圧軍はガトリング砲の援護のもと掃討戦に以降した。





 「今頃はガツトリング砲隊が佐賀士族をうちまかしているなら、わしの大隊を出さなくてよいのだが」 と、兒玉十三朗は一人呟いた。彼は青山練兵場の場外の練習場で青空を見上げながら佐賀の戦況を予測していた。彼の部隊近衛歩兵第2連隊第3大隊にも出動命令が下され、出動待機中であった。


 「後は、石本が戻ったら奴の報告書を見て浮かび上がった問題点の改善と新戦術を…」

 兒玉は途中で口を止めて、目を閉じて呟いた。


 「皮肉だぁ、列強から国を守るためガツトリング砲隊を作ったが、ガツトリング砲の弾を最初に喰らったのが日本人だとはな……」


 数日後、江藤新平、島義勇等が捕えられ斬首に処せられた。


 その後陸軍首脳部からガツトリング砲の威力が認証され正式に各鎮台直属のガトリング砲大隊の設置と各歩兵連隊にも数挺のガトリング砲が配備される計画が立てられ、更に国産ガトリング砲の製造にも踏み切った。


*****


 佐賀の乱に熊本鎮台兒玉源太郎大尉が従軍していた。彼もガツトリング砲に魅せられた一人だった。


 「ガツトリング砲、確かに凄い兵器だ」


兒玉源太郎には並外れた才能がある。佐賀の乱の後、23の年齢で熊本鎮台准官参謀となり、二年後の明治九年、神風連の乱が起こり、鎮圧後上層部から『兒玉少佐ハ無事ナルヤ』という連絡が届いた程であった。


 彼は昔から特別な教育を受けてきた訳でなく、むしろ、生活が辛く苦しい少年時代を送っていた。嘉永五年周防国都濃群徳山村の中級武士兒玉半九朗の長男として産まれた。源太郎が5歳の頃父と死別する。幼少の身であり家督を継げず、姉壻の次郎彦のもとで養育を受ける。源太郎は次郎彦を本当の兄や父と思い慕うも13歳の時に次郎彦は左幕派により殺害され、兒玉家の家録が失われ一家は困窮のの淵に立たされた。


 4年後、明治維新が起きた。彼は、献効隊半隊士令として従軍これが縁で源太郎はその後新設された陸軍に入り今日にいたる。


*****


 『西郷が兵を挙げる』この噂が九州、東京と広がっていった。


 陸軍内部では特に薩摩士族との戦いが起こると高い確率で予想されていた。


 『兒玉十三朗が熊本鎮台に来ると言うことは、薩摩との戦に備えるためだ』と多くの将校が囁いていた。この頃、兒玉十三朗は陸軍での評価が急上昇しており、各連隊対抗の模擬演習でも最高の負け無しの成績を残し戦略、戦術にかけても申し分なく『今正成』と言うあだ名がつけられていた。


 『正成』とは鎌倉時代末期に活躍した楠木正成のことで後醍醐天皇の下で鎌倉幕府と戦い、千名にも満たない軍で幕府の大軍に互角以上の戦いを繰り広げ後醍醐天皇方の勝利に大きく貢献した。また、兒玉十三朗の愛読書が『太平記』と言うこともありそのあだ名がつけられた。



明治十年1月13日


 「十三朗少佐、お主とは6年前東京で顔を少し会わせただけで話しをするのはこれが初めてだがところでお主、今年でいくつになるか」

 と、熊本鎮台指令官谷干城少将が尋ねた。


 「今年の9日で30になりました」

 兒玉十三朗は言った。彼はこの日に熊本鎮台に着任して、鎮台指令官の谷に挨拶しに訪れていた。


 「30?にしてもお主の面構えはどうみても30には思えんぞ」

 谷は言う。谷だけではなく兒玉十三朗と初対面する者は皆口を揃えて谷と同じことを言った。


 兒玉十三朗の顔立ちは幼さが残る十代の少年顔をしており、そのことについて当の本人は「毎日が忙しい過ぎて老ける暇がない」

 と、軽く流すだけであった。


 「まぁ、よい、ところで少佐、お主の考えを聞きたい。西郷さんは動くか」

 谷は兒玉に聞いた。


 「そうですなぁ、西郷さんの人柄を考えれば『動く』のではなく、『動かれざるおえない』のではないでしょう。佐賀、萩、神風連、秋月等の士族反乱には西郷さんは加わりませんでした。あの人も日本人同士の戦争は望んでおらんのでしょう。しかし、薩摩士族は必然的に兵を挙げましょう。その際、御一新で苦楽を共にしてきた西郷さんも、侍として立ち上がるのではないでしょうか」


 「ふうむ、そうか。」

 谷は眉をひそめた。


 「上は西郷さんが兵をあげた際の対抗策として私を第13歩兵連隊連隊長として熊本鎮台によこしたのは感ずいています。そこで谷少将、西郷さんの挙兵の際の私個人としての対策ですが…」兒玉が言いかけようとしたが谷が「そのことについては山県さんから連絡が届いとる。『兒玉十三朗の進言は聞くように』と言われておる」といった。


 「そうですか、さすがは山県さんだ、わかっている。それで私の13連隊に第6砲兵大隊から1個小隊を私の指揮下に置かせてもらえんでしょうか」


 「それだけか、お主の進言で山県さんを散々泣かしたと聞くがなぁ」と谷は兒玉を皮肉った。


 「まぁ、時間が余りありませんからな」


 兒玉はそう言ってこれからのこれから起こる戦争についての予測を話した。


 少なくとも、薩摩の兵隊は3万、対し熊本鎮台は1万、しかも、鎮台部隊は各駐屯地に点在しており、いざ戦争になれば、鎮台指令部を中心に援軍到着まで第13歩兵連隊を主力に防衛戦を展開せねばならず、その兵力は約4千前後、しかも兵の主体は農民出身の徴集兵で勇猛果敢に攻め込む日本最強の薩摩士族を相手にするので当然士気の低下は免れない。


 そこで、歩兵連隊に直接の野戦砲兵を入れることで兵の士気向上を計るというのが、兒玉十三朗の考えであった。


 兒玉十三朗の案はそのまま採用され、第13歩兵連隊に選抜された優秀な砲兵1個小隊が配属された。


*****


 兒玉十三朗が歩兵第13連隊の置かれている熊本に来て数日が過ぎた頃、兒玉源太郎と彼の親友である小倉の第14歩兵連隊長乃木希典少佐が訪れた。


 次話から西南戦争の話しに入ります。

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