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if 明治興亡記  作者: 高田 昇
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第三十七話:日露暗雲

 明治36年10月、満州駐留のロシア軍は三度目の撤兵履行期限を迎えた。これが予定通りに履行されていれば歴史は別の方向へ変わっていた可能性がある。しかし、その幾多の可能性が一握りの人間によって一つの方向に絞られてしまう。ロシア軍は満州撤兵を履行しなかった。


 この情報は瞬く間に日本国内に広まっていき、国民の対露感情が高まって行った。これは反戦論を唱える新聞社などが開戦論に転ずるきっかけともなる。いよいよ国内世論は対露開戦の勢いが絶頂に達していた。


*****


 栃木県那須野石林には乃木希典の別邸があった。明治34年5月から陸軍を休職していて、静子夫人と共に農耕に精を出して過ごしていた。


 時には東京から長男勝典と次男保典、友人の兒玉源太郎が訪ねてくる。二人の息子は陸軍軍人で士官学校を卒業した若手将校だ。兒玉と乃木は無二の親友で、時の情勢の話よりも談笑をしたり詩を作るなどして友人同士の時間を費やしていた。


 しかし、時至りて日本国中が重大な決断の時期を迎えており、乃木希典夫妻も例外なく決断を迫られる事となる。


 それを告げるように、乃木別邸に兒玉十三朗が訪れた。西南戦争以来の仲であり、乃木夫妻は快く迎え入れた。


 「軍人乃木中将も、ここでは白髪の爺さんだな」


 十三朗は質素な農作業用の身嗜みの乃木希典を見て笑みを表した。


 「お前も向こうでは相当腕を振るっておるらしいのう」


 「わしはまだ楽している方だ。クソ忙しいが体はまだ健康だ」


 屋敷の茶の間で話しを弾ませていると、静子夫人が盆に茶と羊羹を載せて持って来てくれた。


 「ところで十三朗」


 「うん?」


 十三朗は出されたお茶に口を着けていた。


 「ここに来る皆が口にしていたが、ロシアの動きに日本はどうする?」


 乃木は休職中とはいえ本職は軍人である。農耕に勤しんでいるのも、ありのまま自然の中で鍬を振っては気力と体力の鍛錬のためだ。そして兵学書を読み、近くで陸軍の演習があれば参加をして兵士と共に野営する。一朝有事への備えを怠る事はなかった。


 「うむ…」


 茶飲み茶碗を卓に置く十三朗の顔は重くなっていた。


 「早くとも来年だ。早い内に開戦せねば日本はロシアに呑み込まれる」


 「…そうか」


 陸軍の戦略は、ロシアが満州に建設中のシベリア鉄道が複線化される前に開戦に踏み切らねばならなかった。世界最大の陸軍力を有するロシア陸軍が鉄道輸送を持って戦力を満州に集めてくる筈、戦力の乏しい日本陸軍はシベリア鉄道が未完成の内に開戦に持ち込みたかった。


 「乃木さん。分かっているとは思うが、私がここに来たのは久しぶり友人の顔を拝みたかっただけではない」


 「………」


 「ロシアとの戦争の際には乃木さんにも満州で共に戦ってもらいたいんだ」


 「………」


 十三朗は乃木の返事を待った。焦ることなく茶を飲み、羊羹をつまむ。


 「十三朗…」


 「うん?」


 「わしは陸軍を休職して二年になる。中将の身にあるが、今さら師団長をするには荷が重い気がする」


 「いや、師団長は今の連中に任せる」


 「では、後備師団か?」


 「後備師団は退役将校に任せるが、あなたはまだ退役将校ではない」


 日本軍の兵役制度は、まず徴兵によって軍に数年間入営する。その兵役期間を終えれば予備役軍人となり戦時に召集されて常設師団の部隊に組み込まれる。後備役は予備役の次の兵役で高齢の兵員と将校によって構成される。後備連隊、後備旅団、後備師団が状況によって編制され、主に後方拠点や占領地の警備を行う。


 「実は、乃木さんには私が指揮するだろう軍の副軍司令官になってもらいたいんだ」


 「…副軍司令官?」


 「どうしても、乃木さんにお願いしたいんだ」


 十三朗は言った。自分が動かす軍が敵野戦軍と対決するにあたり、軍を二つに分けて行動する事があるだろう。その時、自分の代わりになる代理の軍司令官が必要となり、乃木が適任だと言う訳だった。


 「ロシアは決して油断できない大敵だ。私は全知全能の限りを尽くして戦いたい。そのためには、私が一番信頼できる右腕が必要だ」


 「その右腕に相応しいのがわしか」


 「そうだ。乃木さんを除いて他にいない。薩摩士族との大戦の際、軍旗を奪われた貴方は全ての責任を一人で背負い、腹を切って若い命を散らそうとした。その陛下と国軍への忠誠心は私がよく知っている」


 「………」


 乃木は腕を組んで考えた。組織に属する以上は上に登りたいのは人間ならば誰でも抱く。軍隊ならば何万人の兵隊から成る軍団の大将になってみたい筈だ。


 軍副司令官も立派な役職である事は間違いないが、直接軍団を動かす機会は稀にしかない。十三朗の言うように、果たして軍団の半分を指揮する事があるのかと考えてしまう。


 「まぁ、乃木さんの考えは分からん事ではないな。誰だって軍の大将になってみたいからな」


 と、十三朗が言い出した。


 「わしは、日本がロシアに勝つために恥も外聞も捨てる気でいる。何なら、乃木さんが軍の司令官となるがいい。私は副司令官か軍参謀長になって作戦を立ててても良い」


 そして、懐から懐中時計を取り出して時刻を確認した。


 「喋り過ぎたようだな。もう帰る時間だ」

 そう言って、十三朗は腰を上げて立ち上がった。


 外は陽が沈んで暗くなり始めていた。

日露開戦まで、あと僅か。

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