第三十六話:陸海作戦会議
秋山真之は、明治36年10月に海軍省勤務から常備艦隊兼第1艦隊参謀の任に着いた。この常備艦隊首脳部が戦時には連合艦隊の首脳部となる。つまり、秋山は連合艦隊が戦う全ての作戦も手掛けねばならないのだ。
そして、就任から幾日も経たないうちに、秋山参謀の最初の仕事が来た。陸軍参謀本部で陸海軍合同の対露作戦計画についての会議である。
海軍側は、軍令部総長伊東祐亨中将を始めとした軍令部参謀と常備艦隊参謀長島村速雄大佐を始めとした常備艦隊参謀たちだ。陸軍側も対露作戦計画を担う参謀たちで兒玉十三朗中将もいた。
長机に陸軍と海軍が向かい合って座る。会議の議長を勤めるのが十三朗であった。彼は陸海軍による対露作戦計画の協議の必要性を陸海軍の参謀たちに説いた。
陸軍が満州の大地でロシア軍と戦うに当たって海軍による海上輸送路の安全確保も陸軍の勝利を左右する一因となる。海軍も、敵艦隊を破るために艦隊の拠点となる軍港を陸軍が叩いていく事で敵艦隊の活動範囲を縛っていき味方艦隊を助ける事になる。
陸海軍は戦う場は違えど戦争に日本が勝つために協力して行かねばならない。そのためには陸軍が海軍の作戦を知り、海軍が陸軍の作戦を知りそれぞれが出来る限り助け合わねばならないのだ。
十三朗の前置きに両参謀はただただ耳を傾けた。日本が大国ロシアに勝つも負けるも自分たちの双肩にかかっている。また、陸海軍が協力できるできないかも自分たちに任される。
前置きが終わると、陸海軍の対露作戦作成の責任者がそれぞれの軍の作戦の説明を始めた。
海軍の対露作戦計画はこうだ。まず、旅順の艦隊に対して夜間に駆逐艦部隊による奇襲攻撃を行い戦力を削減させ、翌日の艦隊決戦を持って撃破する。また、開戦同日に朝鮮に駐留しているであろロシア軍艦艇に対する各個撃破によってアジア方面のロシア艦隊を無力化させる。そして、ヨーロッパ方面から来るであろう増援艦隊を待ち受けて撃破する。
日本海軍とロシア海軍の戦力差は陸軍ほど分かり難いかもしれない。戦艦と言ってもトン数の違いもあるし艦齢による性能差もある。はっきりとした差を表すなら、日本海軍の艦艇の総数が25万トンであるのに対してロシア海軍の艦艇の総数は37万トンである。内、旅順のロシア艦隊は22万トンで日本海軍の艦隊に匹敵するものであった。海戦の主力となる戦艦だけでも日本海軍が6隻に対してロシア海軍は15隻の戦艦を有していて内7隻は旅順に配置されていた。
日本海軍がロシア海軍に勝つには開戦と同時に奇襲攻撃によって旅順のロシア海軍に手痛い打撃を与える事にかかっているのだ。
海軍の戦略は陸軍には馴染みが無く、頭を捻る者もいた。海の上の戦いに陸の上で戦う陸軍にはやはり場違いであった。だから日清戦争以来陸海軍による合同の戦略会議は多くなかった。しかし、十三朗は少なくとも海軍の戦略に十分理解していた様だった。そして尋ねた。
「旅順のロシア艦隊への奇襲攻撃後、果たしてロシア艦隊が日本艦隊との決戦に挑んで来るのか?」
この問いに対して答えたのが秋山真之だった。
「旅順のロシア艦隊の戦略は、我が方の海上輸送路を脅かす事です。そのために我が艦隊と差し違えても決戦に挑まざる負えなくなるでしょう。また、我が艦隊に被害を被れればヨーロッパの増援艦隊が我が方に対して優位に立てます」
「では、もし旅順の艦隊が出て来なかったら?」
「は?」
十三朗の新たな意外な問いに真之は言葉を詰まらせてしまった。さらに十三朗は質問を続ける。
旅順港のロシア海軍がロシア陸軍の都合に合わせず旅順に止まっていたら日本艦隊は旅順港周辺の砲台がらの攻撃を耐え凌いで旅順の艦隊を攻撃できるのかと尋ねた。この問いに対して明確な答えを言えたものは海軍側にはいなかった。
ロシア軍の戦力は日本軍の戦力を優に凌いでいる事は周知の通りだ。ロシア海軍が日本海で日本軍の輸送を脅かさなくても、満州平野の最初の決戦でロシア陸軍は日本陸軍の戦力を上回っていると新しい対露作戦計画では公算されてある。
ヨーロッパから増援艦隊が極東に来襲して旅順艦隊と合流すれば日本艦隊の敗北は必然的となり、自然と日本の制海権は失い海上輸送は壊滅して満州の日本軍は弱体化してしまう。
十三朗が述べた『旅順』の事は一つの可能性分すぎない。しかし、戦争となれば机上の策がどのような形で誤算を起こすかは未知数だ。戦争の推移を描く戦略家は起こりうる全ての可能性に対する対処を講じなければならない。だが、十三朗を除いて旅順に対する潜在的可能性の脅威を意識していた者は陸海軍に一人もいなかったようだった。無理もない。陸軍の秀才と呼ばれる川上操六と田村怡与造も旅順の脅威についての対処は欠如していたのだから。
「では海軍の要請次第で、我々陸軍は旅順攻略軍を編成する手筈はあります」
ここにいたって十三朗は合同会議で心中に秘めていた事を述べた。海軍に対して陸軍は協力は惜しまない姿勢はあるが、陸軍にも大局を決せなければならない時期がある。海軍の早期要請によって陸軍の戦局への柔軟な対応は左右される。
*****
「兒玉閣下」
「よぉ、秋山君か」
陸海軍の作戦会議は予定通りに進んで予定通り終了した。各々が席を立ち部屋を出て行く。真之は最後尾に残り、同じく最後尾にいた十三朗を呼び止めた。
「一つ質問してよろしいでしょうか?」
「あぁ、何かな?」
「閣下には、我々海軍の戦略をどう思われましたか?」
真之が尋ねた。十三朗は手で顎を擦り苦笑する。
「私は陸軍だから海軍の君が満足する答えを出しかねるがね」
「ですが閣下は旅順の脅威を我々に示したではありませんか?」
「旅順には軍港を守る砲台と防御網がある。陸の戦を仕事とする我々陸軍には見過ごせないから戦略を立てたまでだ。海軍についてはオマケみたいなものだったんだ」
「しかし、その『オマケ』が海軍戦略の見直しを促したのです」
「ふうむ、そうだなぁ…」
と、十三朗は手にしていた海軍戦略の写しに目を通した。
日本艦隊は開戦時に極東各港に分散しているだろうロシア艦隊を集結する前に一つずつ叩いて行く。弱体化した旅順艦隊との決戦とその後の本国増援艦隊との決戦。これらは敵艦隊との各海戦に挑むにあたり、前もって自軍艦隊の戦力優勢を前提で練られている。常道に適った戦略だ。
「私が海軍の軍人だったなら、これと同じ戦略を立てていただろうな」
「そうですか」
真之は思っていた程の批評が無く、少し腑に落ちないながらも胸を下ろした。
すると、十三朗が肩に軽く手を置いた。
「兵を十分訓練させ、将は理に適った作戦を練り、艦を操り続けていればロシアに負ける事はない。自信を持て。海軍将校秋山真之を兵たちは見ているんだぞ」




