第三十三話:外交と同盟
日本軍は目覚ましい成長を続けて行く中、日本政府では外交方針を巡ってイザコザが起きていた。
ヨーロッパの大国の一国であるイギリスと同盟を締結させるか、はたまたロシアと協商を締結させるか。ロシアの南下政策によって生じる日本の安全保障が脅かされないため、どのようにして対露外交を進展させて行くかを決める上での選択であった。
そもそも、発展途上国の日本がヨーロッパの大国イギリスとロシアが二者択一で二国間の安全保障に関する条約を締結できる事になった過程についてだ。
ロシアの南下政策の脅威は日本だけの問題では無く、イギリスも情勢を注視していた。インドの植民地化に成功した後のイギリスはアジアへの更なる進出と列強との勢力均衡に努めようとした。だが、義和団事件後のロシア軍の満州駐屯による露骨にさせた南下政策に危機感を募らせた。
満州、朝鮮、日本がロシアの影響下に陥れば東アジアはロシアの手中に収まり、太平洋や東南アジア方面への更なる進出を招きかねない可能性があった。当時、イギリスはアフリカの南端にある南アフリカの植民地化を狙った戦争を行って多くの戦力をは投入していたため、直接ロシアへ軍事的圧力をかける事が出来なかった。そこで19世紀後半から続いた非同盟政策である『栄光ある孤立』を放棄して、ロシアを敵視するドイツと日本の二カ国と軍事同盟を締結させようと模索する。
しかし、ドイツ帝国は隣り合うロシアと同盟を締結させ逆にイギリスを牽制する形をとった。そして、残った日本と同盟を締結する事でロシアの南下政策を阻止させようと接触を行ってきた。
時に西暦1901年、日本では明治34年の秋の頃であった。
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イギリスが日本との同盟を模索していた時の日本の内閣を担っていたのが、明治34年6月2日に発足した桂太郎を総理大臣とした内閣である。
桂太郎は、長州の出身で長州藩士馬廻役の家の嫡男であった。江戸幕府の第二次長州征討、長州側では四境戦争と呼ばれた戦いで長州軍に加わり初陣を飾り、続く西南戦争では官軍の一小隊長として転戦し続け、戦争終結までに軍参謀や大隊長の位に登り詰めて行った。
明治維新後の明治3年8月に、戊辰戦争の功績で得た禄を頼りに私費留学でドイツに留学する。ところが、私費での海外滞在では現地での活動に限界を来す結果となりドイツ滞在は2カ月にして終了して帰国の途に就く。
日本への帰国後は、知り合いのにして『維新の三傑』と呼ばれて政府の舵取りを担う木戸孝允を頼り、木戸が山県有朋に取り計らい大尉として陸軍に入る。そこで桂は山県の下で軍制を学び日本の新しい軍制とはどうあるべきかを進言し、兒玉十三朗とも面識を得る。その後、桂は山県の後押しを受けて行き出世をしていき、明治27年の日清戦争では第3師団長として出征する。
戦争後には、第3次伊藤博文内閣の陸軍大臣として政界入る。さて、この頃になると日本の政界である懸念が出て来た。伊藤博文や山県有朋、松方正義など明治維新の立役者は2回以上首相の座に就いた。次の世代に首相の座を譲る時期が来ているが、その時期には日本とロシアが戦争になるかもしれない。そのため、次の世代の首相を誰に継がせるかが問われた。山県をはじめとした元老は桂を推薦した。陸軍の発展と今後を桂も微力ながら提言してきた。徴兵制の導入やドイツ式の軍制の導入など。だが、山県曰わく桂は軍人としての器は備わっていても兒玉十三朗や兒玉源太郎、川上操六などと比べると劣ってしまう。それが桂の推薦理由であった。
兒玉十三朗や兒玉源太郎、川上操六ら陸軍の秀才には、できるだけ陸軍軍人の道だけを歩んでもらい、彼等に一歩及ばない桂太郎には陸軍軍人のみならず政治家としての道を歩んでもらおうとしたのだ。
かくして、桂以外に目立った候補者や擁立も無く、桂太郎は内閣総理大臣となったのだ。
桂太郎はイギリスとの同盟締結派であった。
だが、桂などのイギリス同盟派がいれば、ロシアとの協商締結派もいた。ロシアとの協商締結を伊藤博文は主張した。ロシア政府と交渉し、日本の立場を十分説明して行けば南下政策から日本の権益を保証できると言うほのかな望みを持っていた。
ロシア協商派の伊藤を桂は、自邸での茶会を開いた際にイギリス同盟派の前で『ロシアと手を組むなど、まるで隣村まで押し寄せて来た強盗団に自分の村だけには攻めてこないように頼むような事だ』と冗談半分で例えると、周囲から笑いの声が上がった。
伊藤博文を知る同郷の者は少年時代に体験した列強四カ国との下関戦争でヨーロッパ列強の力を目の当たりにして以来、外国との戦争を強く反対する傾向にある事を知っていた。事実、伊藤博文が内閣総理大臣の時に勃発した日清戦争でも当初は清国との戦争には反対していた。
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政府や元老内がイギリスとの同盟締結の方向に意見が傾きつつある中、伊藤博文は9月18日に外遊と称し単身でロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクに向かった。目的は、ロシア政府首脳と会談し日露協商締結に向けた足場を固めるためであった。
ロシア政府は伊藤博文の訪露を盛大に歓迎して元首なみにもてなした。そして、9月28日にはロシア帝国皇帝ニコライ2世との謁見をした。この時、ニコライ2世は伊藤に『ロシアと日本との協調は不可能では無い』と述べた。日露協商締結の糸口ともなる発言である。
翌日、ロシア帝国政府の大蔵大臣セルゲイ・ウィッテと会談した。ロシアの財政を司り政治的発言力を有するヴィッテは、ロシアの大事業である南下政策によりも貧困層への救済策を常に提言する数少ない良識派である。この事情を知った伊藤は、ヴィッテに日露外交を掛けた提言を出した。『満韓交換論』である。ロシアの満州権益を日本が認め干渉をせず、ロシアが日本の朝鮮権益を認め干渉をしない妥協案であった。ウィッテは、伊藤の妥協案に賛同した。
また翌日、訪露外遊最終日に今度は外務大臣ウラジーミル・ラムスドルフとも会談を行った。だが、ラムスドルフはヴィッテほど穏便に極東平和についての話しが進まなかったものの、日露協調に向けた進展を期待できる旨を得た。
伊藤にとって訪露外遊で極東平和の道筋を得たと確信してロシアからドイツに向かった。そして、ドイツの首都ベルリンで日本の桂宛てに電報を送った。『日露協商の可能性があり』と。
また、伊藤博文の訪露外遊におけるロシア首脳との交渉はイギリス政府の知るところとなっていた。そのため、在英日本公使館の公使にして日英同盟の交渉を進めていた林董へイギリス政府から遺憾の意が表明された。
数日が過ぎ、在独ロシア大使館を通して伊藤博文宛にロシアからの返答が来た。伊藤にとって待ちに待った朗報のはずであった。しかし、封を開け紙に書いてある文章を読みとおし愕然とした。伊藤が会談で示した満韓交換論において、満州におけるロシアの権益は全て認められるとして、朝鮮における日本の権益は限定的なものにしてロシアへの譲歩を要求するものであったのだ。当然、伊藤博文もロシアの要求は受けかねるものであった。
伊藤博文は知らなかったのだ。ロシア政府における良識派のウィッテが政敵の内務大臣ヴャチェスラフ・プレーヴェや強硬派のベゾブラーゾフらによって有名無実の立場にあり、外務大臣ウラジーミル・ラムスドルフも強硬派の一人であった。ロシア皇帝ニコライ2世も側近や強硬派の占める軍部らの策動によって南下政策の促進を目指していた。こんな時に極東平和のために訪れた伊藤は格好の駒であった。
ロシア軍部は日本との戦争を視野に入れていた。戦争の舞台は満州であると認識しており、本国から離れた満州への補給路として建設中のシベリア鉄道の複線化まで戦争の先送りを必要としていた。
ロシアの南下政策で、勢力圏を南に広げて行くと同時に支配地域からロシア本国南部から満州と沿海州のウラジオストクまでを繋ぐ約9,297kmまでの世界最長の鉄道を設置した。それがシベリア鉄道である。そして現在、シベリア鉄道には一本の路線しかない。そのため列車の往復に困難を極めているが、複線化すれば往復の困難は解消され交通の便は向上する。つまりロシア軍はシベリア鉄道を使用して満州に大量の兵力や物資を輸送するのであるが、路線が一本の為に軍が目指す程の戦力輸送は進んでいない。
そこで、訪露外遊に訪れた伊藤博文に強硬派を通させて甘い言葉、この場合は極東平和を促して伊藤をその気にさせ日本の外交方針を狂わせようとしたのだ。
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かくして、伊藤博文のロシアとの外交交渉は失敗した。
だが、塞翁が馬。はたまた、災い転じて福となる言った具合に後に残った日本の外交方針がうまく進んで行ったのだ。
イギリスは、桂内閣が進める同盟交渉と同時の伊藤博文の独断で行ったロシア交渉に対する日本の二股外交を批判した。だが、イギリスの情勢的立場が変わる筈はない。現時点でロシアに対抗しうる国は日本しかないのだから。
そのためイギリスは日本がロシアに心変わりしないうちに日英同盟を締結させようと日本への外交的譲歩を示し、日本とイギリスが対等の立場で同盟を締結させようと働きかけたのだ。しかも日露協商案が消失した今、伊藤博文を始め日英同盟に異を唱える人物もいなくなった。
日英の交渉は順調に進み、明治35(1902)年1月30日にイギリスのロンドンで日英同盟が調印された。中国朝鮮での相互権益の尊重、戦争時の相互協力が同盟の主な内容である。
各国での日英同盟についての論評はほぼ異口同音であった。日本がロシアとの対決路線に踏み切ったと。
ロシアでも、セルゲイ・ウィッテは左遷され政府内では強硬派が台頭して行き日露両国の利害関係の衝突が激しさを増す形となった。