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if 明治興亡記  作者: 高田 昇
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第三十二話:海軍

明治34年12月

 渤海を出て数日の後、日本海軍の砲艦『赤城』は横須賀の軍港に帰港しようとしていた。港の周辺には、大小の艦船が行き来している。


 横須賀は江戸時代までは漁村であったが、1853年にアメリカ海軍のマシュー・ペリー東インド艦隊司令官率いる軍艦4隻が日本への開国を求めて浦賀に来て以来、交易都市としての道を歩み始めた。


 維新後の1884年には海軍の地上基地である鎮守府が設置され、官民ともに横須賀を重要拠点として重宝された。


 兒玉十三朗は、『赤城』の甲板から見える横須賀の風景を眺めていた。その横には弟の兒玉十五朗がいる。


 すると、ふと十三朗が十五朗に話しかけて来た。


 「いま海軍にはどの位軍艦がある?」


 「主戦力の戦艦が6隻と装甲巡洋艦が6隻に、巡洋艦が16隻ほどと補助戦力の砲艦や駆逐艦が多数だな」


 「日清の戦の時とは偉い違いだな」


 と、十三朗が言った。


 海軍は陸軍以上に国家の国力と文明が絡まないと成り立たない軍種であるだろう。強い軍艦を作るには技術力が必要である。強い軍艦を揃えるためには大きな国力が必要となる。そして、軍艦を操るためには教養ある将校と水兵が必要となる。


 そして、明治維新の後に創設された日本海軍は同時期に創設された日本陸軍に比べて海軍その物の運用のノウハウが無きに等しかった。陸軍は、日本の軍事史より陸戦のノウハウがあった。だが、海軍の場合は違っていた。


 日本の海軍史を挙げれば水軍を言う言葉が浮かんでくるだろう。戦国時代に瀬戸内海を活動範囲とした村上水軍、鉄甲船を用いた織田水軍が有名である。だが、徳川幕府による天下太平の世となってからは鎖国政策や水軍を運用した著名な大名も内陸部に移動されて、水軍は自然消滅してしまった。後に残ったのは水軍の用兵術を記された軍学書だけである。


 そう言ったわけで、明治維新後に誕生した日本海軍を海軍に縁もゆかりも無く知識の浅い人間達が背負った訳だ。


 そして、海軍の重要な手足である軍艦に至っても貧弱であった。日清戦争の時点で日本艦隊の主戦力は13隻の巡洋艦で新式と旧式を足した数である。


 当時の列強国と比べれば弱小海軍と呼ばれて不思議で無い。


 だが、日清戦争における主要海戦を日本艦隊が制する事が出来た。二つの要因が日本海軍に味方をしたからである。


 一つは、海軍大臣西郷従道と海軍省官房主事山本権兵衛のコンビによる日本海軍のテコ入れである。


 西郷従道は西郷隆盛の弟で、兄が征韓論を巡る対立の末に明治政府を去ってからも東京に残り九州で西南戦争が勃発した際には出征して行く将に代わり東京の守りに着いた。そして、軍人だけでなく政治家としての顔も持っていた。


 未開の北海道開拓政策を担う開拓長官、文部省の長である文部卿、陸軍の長である陸軍卿、国内の農産業政策を担う農商務省の農商務卿、そして明治18年に海軍省の初代海軍大臣に任命され就任した。


 だが、西郷従道の海軍大臣前の役職は陸軍を束ねる陸軍卿であり、軍人であっても海軍については素人であった。海軍省の人間にしてみれば陸軍上がりの西郷は邪魔者であった。船を降り海軍省勤務に就いていた山本権兵衛もその一人だった。


 西郷従道と山本権兵衛が凡人だったなら話はここで終わる事になるだろうが、凡人でないから話が続いていく。


 西郷従道の優れた所は、行うべき肝心の政策を適任の部下に全て一任させ、任せた以上は自分は一切口出しをせず部下の働きやすい環境を整える事をするだけであった。そして西郷従道は、海軍の政策を山本権兵衛に全て一任させた。


 一方の山本権兵衛は合理的に物事を見極めて手段を問わず行動をとる実行力に優れていた。彼は人事の一新を行った。海軍の将校でありながら海軍の知識が無く軍艦の知識無く、明治維新以来の軍功で昇進した者の殆どを予備役に編入した。その人数は、将官8名、尉佐官89名の計97名に及び、その殆どが山本権兵衛と同郷者で親しい友人や先輩も含まれていた。


 当然、その過程で海軍内から反発が起きた。当時、一大佐にすぎない者によって予備役にまわされるのだから。正に前代未聞の人事であり政策を任せた西郷従道も戸惑ったが、山本権兵衛は考えを変えようとしなかった。私情に囚われるならば必ず後の禍根を残す事となる。国家と海軍の大事を一私情に代える事は出来ない。


 山本権兵衛による非情な人事の一新は国家と海軍に尽くす現れの裏返しでもあった。そして、いなくなった将校達の後任は海軍知識を学んだ後輩達が継ぐ事となり、日本海軍が初めて海外の海軍と戦える体制になったきっかけと言える。


 もう一つの理由は、清国軍の人材にあった。


 日清戦争当時の清国海軍は、日本海軍に無い戦艦を2隻有し戦力の差は大きかった。しかし、将兵の士気と錬度に大きな差があった。


 清国は、19世紀における列強勢力との戦いに負け続け政府内の腐敗が進んだ。しかし、清国は敗れはしたものの国力は大きく列強を模した軍備の改編と小規模な制度の導入をすすめて来た。だが、日本の急速な国内改革と朝鮮進出に危機感を募らせ日清の対立関係を構築させた。


 日清戦争は朝鮮半島西岸の豊島沖の開戦から端を発した。戦闘時の双方の戦力は日本海軍が巡洋艦が3隻、清国海軍は巡洋艦が2隻と砲艦が1隻だった。数的には互角である。海戦は清国海軍の攻撃から始まったが、瞬く間に日本海軍の反撃を受け巡洋艦2隻を喪失し砲艦1隻が拿捕される惨敗に終わった。


 そして、日清戦争最大の海戦となった黄海海戦でも清国海軍は敗走した。この海戦で清国艦隊は海軍戦術において行ってはいけない陣形とった。日本艦隊は艦隊を一つの縦列させて進行してくるのに対し、清国艦隊は艦隊を一つの横列となって進行してきた。敵の攻撃にさらされた時に中央の艦は左右に移動して回避行動が撮る事が出来ない。下手に前後に移動すれば艦隊の陣形を崩しかねない欠点だらけの陣形が横列である。


 なるほど、清国海軍は新式の軍艦を導入する事は出来たが、軍艦を巧みに扱える人材が不足していた。そして、清国艦隊は日本艦隊に打ち負かされ日本海軍から制海権を奪う事に失敗した。


 日清戦争は兵器の優劣の差では無く、戦った将兵あるいは関わった人間の優劣の差が日本にあり、国力で劣る日本が勝利できたと言えるだろう。


 だが、日本海軍は清国海軍に勝つ事が出来ても、列強国の海軍に勝つだけの実力が無かった。


 日清戦争の直後、ロシアは日本が清国より割譲した台湾以外の領土を返還するように圧力をかけて来た。その一環として、ウラジオストクに留まる太平洋艦隊の全力を演習と称して山東半島沖で軍事演習を行った。


 ロシア海軍の実力は清国海軍と比べ物に成らないほど高い。そして、外交においてもロシアにはフランスとドイツの同盟国があり、対等な戦争を演じる程の余裕が日本には無かった。


 かくして、日本はロシアの要求に屈する事となった。


 さて、日清戦争の後に日本陸軍は戦力を増強させて来た事について過去の話の中で述べて来た。そして、日本海軍の戦力の拡張も著しいものであった。


 ロシア海軍を仮想敵と定めた日本海軍の企てた艦隊整備計画は、戦艦6隻と装甲巡洋艦6隻を主力として補助艦艇を合わせ106隻を導入する世界海軍史でも類をみない大計画であった。世に言う『六六艦隊』である。


 日本は大小の島々から形成された国家である。海軍は常に日本の周辺海域の制海権を維持する宿命にある。そして、南下政策を推進させアジアに進出したロシアは、領土だけに止まらず海上の支配権をも獲得しようと強力な艦隊を配置した。


 日本と海軍の宿命は、周辺国海軍が強大であればそれに対抗しうる海軍を造らねばならなかった。軍事力と外交は表裏一体である。軍事力のない外交で国家安泰が成る道理は存在しない。それは歴史が証明していて例外は無い。


 日本もロシアによる三国干渉によって軍事力の無い外交が如何に無力かを味わった。


 1896年から1900年にかけて進水した6隻の戦艦は『富士』、『八島』、『敷島』、『朝日』、『初瀬』、『三笠』と命名され日本海軍の参列に加わった。


 そして、同時期に進水した装甲巡洋艦も同様である。6隻の装甲巡洋艦は『浅間』、『常盤』、『八雲』、『吾妻』、『出雲』、『磐手』と命名され新しい艦隊の主力に組み込まれた。

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