第三十一話:帰国
明治34年12月 天津 日本軍清国駐屯軍司令部
兒玉十三朗の日本への帰国を控え、荷物を整理などをして帰国の準備をしていた。と言っても、荷物となる道具は愛読書と雑貨が少々であるため荷物の準備はすぐに済んだ。そのため、殆どの時間を在中時の報告書の作成にまわした。後は迎えの知らせが来るま待つ事だけである。
日清戦争後、戦争前に比べて国際的地位が天と地の差の様に転落した清国の内状、天津の日本租借地の現状にロシアの情勢などを直接知る事が出来、十三朗にとっては有意義な訪中であった。
椅子に座り机の上に置かれた真っ白な紙に鉛筆で字を書き『報告書』という題名で腕を動かしていたが、本題の所で筆を止めた。
浮かばん。と、十三朗は声を漏らして椅子を揺らしながら天井を眺めた。
なぁんも浮かんでこん。と、また声を漏らし椅子から腰を挙げて窓越しから外を眺めた。
外に立ち並ぶ建物の屋根には白い雪で覆われている。
「国破れて山河在り。されど、明日きたりて必ず国起きる」
『国破れて山河在り』とは、中国の盛唐時代の詩人で詩聖と呼ばれた杜甫の有名な詩である。『国破れて』とは唐時代の都長安が戦乱によって廃墟になってしまった事を表している。十三朗は長安を今の清国に置き換え、詩に独自の続きを加えて呟いてみた。
清国は戦に敗れ、遠からず国は滅びるだろう。だが、月日が経つうちに必ず新しい中国が現れる。そう言った意味が込められていた。
「支那の国も変わってしまったな」
と、また十三朗は声をこぼす。
歴史上、日本は常に中国の下にあり、中国の文化と制度を模範として国を整えて来た。中国との戦争でも、663年の白村江の戦いで敗れ、1274年には中国を征服した元の襲来を受け、1592年の豊臣秀吉の朝鮮出兵でも日本軍は当時の中国軍に阻まれた。近代以前の日本は二度の大陸進出を中国に阻まれ、中国の侵略を受け、日本は中国の上に立つ事が出来なかった。
しかし、日本は明治維新の大改革によって中国と対等以上の実力を得て、現在では中国以上の文明と技術を持った列強諸国との対等を目指しているのだ。十三朗は、日本が欧米列強と渡り合うためには中国が必要だと考えていた。日清戦争によって日中の力関係が混沌となった今が新しい日中関係を構築すべきだと読んでいた。
そのために、十三朗は袁世凱と接触したのだ。
*****
ドアをノックする音がした。十三朗が入室の許可を出すと若い士官が入ってきた。
「閣下、お迎えの馬車が参りました」
十三朗は士官の報告に応えて荷物を手渡して部屋を出た。
出口近くまで行くと、駐屯軍司令部の幹部将校が出迎えていた。
「秋山なにかと世話になったなぁ」
「いえ、閣下がここに来たのがつい昨日のように感じられます」
と、駐屯軍司令官の秋山好好古は言った。
「日本でまた会おう。秋山、日本騎兵がんな(お前)を待っているぞ」
「はい」
それだけ話して二人の会話は終わり、十三朗は司令部を出て用意されていた馬車に乗った。短い会話であったが二人には十分な会話であった。
馬に鞭が撃たれ、馬車は雪の降る天津を走りだした。
*****
渤海に面する天津港の沖に一隻の日本海軍の軍艦があった。砲艦『赤城』である。
『赤城』には海軍少佐に昇進した兒玉十五朗が乗艦していて、『赤城』の副長の地位についていた。
時刻にして昼の十二時を過ぎた頃、港に泊まっていた内火艇が戻ってきた。『赤城』の側面には階段が設置されていて、高官がやってくる事を示していた。
正装を身にまとった数人の将兵が高官を迎えるために甲板に揃った。そして、艦首と艦尾の砲塔から空砲が鳴り渡り準備が整った。
「陸軍中将兒玉十三朗です。『赤城』への乗艦許可をいただきたい」
「『赤城』副長兒玉十五朗少佐です。『赤城』への乗艦を許可します」
水兵たちが捧げ銃をする中、敬礼し合う兄弟二人は暫し真顔で無言のまま顔を見合った。
そして、敬礼を説いて最初に口を開いたのは十五朗であった。
「こちらえ、艦長が待っております」
「うむ」
十三朗は頷き十五朗の後に続いた。
そして、船内を進んで行く途中ふと十三朗が弟に声をかけた。周りには誰もいない。
「久しぶりだなぁ」
「うん。暫く見ん内に白髪が増えてねっか、兄さぁ?」
「んなこそ、一昔前の水軍の船頭の様な面になったじゃないかや」
「わしも三十路を越えたすけなぁ」
「三十路か。そろそろんなも嫁をもらわんといかんな」
と、十三朗が言うと、十五朗は苦笑しながら言った。
「いいわね、いいわね、おらぁまだ嫁はいなねぇてば」
「なんでだば?」
「わしは、家庭と海軍を両立するほど器用に出来てねえんて」
そう言って十五朗は帽子を脱ぎ頭を掻きまわした。
「嫁の話はさておき、天津の土産話を聞かせてくなせや」
「艦長との挨拶が済んだあとでな」
「分かってるわね」
二人は艦内を進んだ。
来年の内には、日本とロシアの開戦を書いていきたいと思います。