第二十九話:袁世凱
兒玉十三朗は数人の同行を連れて山東省に訪れていた。
山東省の省都は内陸側の都市済南で、清国の存亡を左右する人物となりつつある袁世凱が住まう総督邸があった。
義和団の乱の後、清国の大政治家である李鴻章が没すると、袁世凱は山東省の直隷総督と兼任して北洋通商大臣の地位に就き清国の有力な政治家となった。山東省の直隷総督とは、管轄地域の行政と軍事の権限を持つ地方長官の事を指す。
独自の軍事権を持った事で『北洋軍』と呼ばれる正規軍の指揮系統から独立した袁世凱を司令官とした軍隊を保有した。日本から軍事顧問を呼び、装備と編成を列強や日本を模して強力な軍隊へと強化させて清国正規軍を上回る軍事組織とさせた。
器のある人物である。十三朗は今後の日中外交を考えて是非とも会って見極めてみたかった。
自分は、先の戦争で満州侵攻と高額な賠償金を取るように働きかけた張本人であり、清国側からすれば憎悪の対象である筈だ。
総督邸は立派な中華風の建物である。屋敷に使える使用人たちも中華風のスタイルで身のこなしをしていた。
同行の士官たちには別室に待機してもらい、十三朗は通訳を従えて客間に案内された。
使用人が扉を開けると、一際品質の良い服装に身のこなした人物がいた。袁世凱である。
兒玉は敬礼をすると同時に、袁世凱は手を合わせて拱手をした。
「大日本帝国陸軍中将兒玉十三朗です」
「大清帝国北洋大臣の袁世凱です」
十三朗は袁世凱の顔を眺めた。なるほど。清国は続く戦乱で国内秩序が秩序が乱れ政治家や軍人には精力が見えないが袁世凱の顔は明るく晴々していた。野望を果たさんとする男の顔であった。これで清王朝の命運は尽きたと悟った。
「兒玉将軍、将軍の噂はかねがね伺っております」
二人はソファーに腰をおろして話し始めた。
「どんな風にですか?」
「類い希な戦上手であり、先見の明に優れていると。実際に先の戦争でも…」
「誇張が過ぎますな。本当は何かと苦労人です」
後頭部を撫でながら十三朗が苦笑すると袁世凱も笑い出した。
(袁世凱は何かと下手に出ている。何か要求をしてくるだろうな)
「将軍、今の清は欧州列強の侵略によって存亡の危機に瀕しております。清が落ちれば、その次は朝鮮、最後のは日本が標的となるでしょう」
日清戦争以来、清国の国際的地位は急落して列強の各勢力が我先にと権益搾取の勢いを強めて来た。果ては前年の義和団の乱以降からはその勢いはさらに強まっていた。
「つまり清国が倒れる前に我が国と組して互いに助け合い欧州列強をアジアから追い出したいと仰るのですか?」
十三朗は単刀直入に尋ねると袁世凱は首を縦に振って頷いた。因縁ある人物に要求してきたのだ。過去の恨みを水に流して将来を見通しての協力の要請である。
「今、ロシアは東北地方(満州)の支配を着々と進めています。そして朝鮮にも」
「閣下、私も閣下の御意見には賛成です。清国や朝鮮の惨状は我が国にとって決して対岸の火事ではありませんからな」
「ありがとうございます。そこで一つ将軍に協力していただきたい事があります」
袁世凱は言った。義和団の乱以降に連合国が得た天津の行政権の返還への協力であった。連合国の中には日本も含まれており、日本が持つ天津の行政権を率先して清国に返還すれば連合国も日本に習う筈である。
「確かに、清国人にしてみれば自分たちの生活を支配するのが外国人であれば不安は募りますわなぁ」
日清戦争の後、日本は清国から台湾を割譲したが台湾島民は日本支配に反発し武力闘争を行った。十三朗は初代台湾総督として反発する台湾人の感情を抑えるのに苦労をした経験がある。
「駐屯軍司令官の秋山将軍も協力を約束してくれました」
なるほど。袁世凱は連合国からの天津の行政権の返還は、さらに清国政府に対する影響力を強めるための一手だろう。
「天津の行政権の返還には連合国との協議が必要となります。今の日本の立場では各国の同意を得るのは難しいでしょうが、返還に向けて協力しましょう」
「ありがとうございます」
「ではこちらも幾つか閣下に承諾してほしい条件があります」
そう言うと笑顔であった袁世凱の顔が少しだけ引いた。
「条件の内容とは?」
「まず、第一に朝鮮の今後の近代化を日本に一任すること。第二に日本が他国と戦争状態になった際に貴国は中立を保ちつつ日本に協力すること。第三に貴国は国際社会での日本の立場に協力すること。この条件に協力してくだされば、私は清国と閣下の立場を保証することを誓います」
十三朗の出した条件の一つ目は、日清戦争で清国が日本に敗れているために朝鮮に対する影響力を失っているため容認するしかない。二つ目においても出来ない事ではない。三つ目の条件は問題があった。確かに日本は近代化を始めて僅か三十数年で力を高めて来た。列強と肩を並べるのも遠くない事だろう。しかし、それでは清国が日本の属国となってしまう可能性は否定できない事であった。
「将軍の述べた条件にそうよう努めます」
と、袁世凱は言った。今すぐ承諾できる事ではなかった。しかし、現在の国内の現状と将来を考え味方を得る事を必要とした。
*****
(一つ、袁世凱を教育してやろうか)
十三朗は考えた。
「いやしかし、支那の国とは実に羨ましい」
そう言って十三朗は窓を見上げた。
「羨ましいとは?」
袁世凱が尋ねた。
「私は小さなころから『項羽と劉邦』や『三国志』、『水滸伝』などの話を聞いて育ってきました。昔から支那の国は実力のある者が実権を握ってきています。我が国では出来ない事です。天皇陛下がおりますので」
日本には大昔から天皇が唯一国家君主として成り立ってきた。日本史に登場する多くの実力者は天皇の権威を借りて日本を統治してきた。天皇の歴史は長く日本の歴史は天皇家の歴史とも言える。そう言う訳もあり、天皇家を滅ぼそうと考えた実力者は多くない。
「私も日本の天皇陛下が羨ましく思います。我が国の歴代王朝は力なくば他勢力に滅ぼされ一族が殺されて行ってきました。しかし、日本の天皇家は常に日本民族より慕われ一系のみで今日まで続く王朝となっているではないですか」
「ですが支那の国は、権威にとらわれない実力者たちが支那全土の覇権を巡る壮大な興亡によって多くの教本が生まれています」
多少の事実無根や誇示が含まれていたが、孔子の教えや孫子の兵法など今日にも影響を与える教本の多くは中国の興亡の中で誕生している。
「私は小さい頃には実力だけで一国を支配したい。そして、民に慕われる善政をもって国を統治してみたいと夢としてきました」
敵を退ける『力』と民衆を思う『仁』の二つがあって初めて国家百年の計は成り立つ。どちらか一方を持つだけや片方にだけ傾けただけでは国は成り立たない。
「私利私欲や保身に溺れ、国家と民族の仁政と繁栄を後回しにする王や指導者などは下人以下の人間の屑だとも悟らされました」
袁世凱は、黙ったまま十三朗の持論を延々と聞いていた。
「ちと、喋りが過ぎましたかな。私はしゃべちょこぎ(お喋り)な者で」
「いえ、将軍のお話になった事は私にとって他人事ではございません。将軍、今後ともより良いお付き合いをお願いします」
そう言って、袁世凱と十三朗は最後に握手を交わした。