第二話:ガツトリング砲
ケータイの方では、黒木為楨の『とも』という漢字がでません。御了承ください。パソコンの方では『とも』の漢字が出ています。
明治ニ年
山県狂介は『有朋』と改名し、国軍建設のため欧州へ渡り、各列強国の軍事制度や軍隊を視察し、翌年の8月に帰国の途に就いた。
渡欧中、常に山県の側に兒玉十三朗の姿があった。
山県は部下の案に横槍をいれる事で有名であるが、兒玉の横槍はそれ以上であった。そして今日は、徴兵制について話し合っていた。
「山県さん、私はこの徴兵案には賛同できません」
と兒玉は山県に言った。
何故だ。と山県は不満げに尋ねた。
「いえ、徴兵案自体には問題ありませんが、付け加えです」
「付け加え?」
兒玉が言うには陸軍の兵卒の多くは徴兵によって初めて銃を握る百姓が主で、3年間兵役を送り、有事の際は彼等を軍主力として戦場に送ることになる。彼等の中には兵役を1年も満たさない新兵も居り彼等も戦場に投入することになるが、新兵は決して戦場では華華しい活躍は期待出来ず、むしろ足手まといの鳥合の衆と断言した。
つまり、兵役を1年も満たさない兵は『兵』としての即応力に劣ると言う。
そこで、兒玉は新兵の即応力を養うため5日に1度、18歳の徴兵対象者を部落の神社や寺等に集め、銃訓練、部隊訓練を行わせるべきと述べたう。
兒玉はこの案の採用を強く勧めた。先の北越戦争の際、兒玉は新政府軍と戦うため私軍を編成した。兵の主体は百姓であり、彼等を二ヶ月間訓練させて戦場に臨んだが、本格的に『兵』として動き出したのは長岡藩軍が越後を撤退した後だった。この間に兒玉は自軍の3分の2の兵を失っていた。
山県は兒玉の付け加え案に難色した。予算がかかるからである。明治初期の新政府は予算歳入の宛てが乏しく、軍事以外に教育、交通網の整備等にも膨大な予算を注ぎ込んでいた。
しかし、大きな息を吐いて山県は「善く、わかった」と言って兒玉の案を採用させた。
兒玉は山県の渡欧に同行し、欧州の軍事学を寝る間を惜しんで学び、結果、一を知り十を知る勢いだった。また、欧州の軍学と自分の用兵術を加えた新しい兵術を思案し、それを聞いた山県や欧州の高級参謀は舌を巻くほどだった。
*****
明治初期の日本政府には政府直属の『国軍』が存在せず『廃藩置県』まで存在した各藩が保有した藩軍しかなかった。明治元年、『天皇及び御所の警護』のため、薩摩、長州、土佐の藩軍を政府に献兵し、政府直属の『御親兵(後の近衛師団)』を創設し、御親兵を軸に明治四年『鎮台』を設置した。
鎮台とは、外征を目的とせず明治維新により混乱した社会の治安維持を重点に置き、明治四年6月に東北地方に東山道鎮台、九州地方に西海道鎮台の二個鎮台を設置。
同年10月には、『廃藩置県』の施行により先の二個鎮台を廃止し再編。鎮台の数も増やし、東北鎮台、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台の四個鎮台が設置された。明治六年、さらに、名古屋鎮台、広島鎮台の二個を増やし、六個軍管区、十四個師管区(連隊)体制に増強された。しかし、あくまで『鎮台』は国内の治安維持を重視されており、規模や質では欧州列強の軍とでは、赤ん坊と大人の様な差であった。
明治五年、御親兵は『近衛』に、鎮西鎮台は『熊本鎮台』と改称された。
*****
明治六年、兒玉十三朗は兵部省、陸軍省におり、部隊勤務ではなく事務官として日々の職務に勤めていた。
「部隊勤務ばしたいのぉ」
彼は陸軍省近くの平川町五丁目の一軒屋に婆やを一人雇って住んでいた。
休日になると、兒玉は飼い犬を連れて歩きながら、愛読書の『北越軍談』や『太平記』などの軍記物語を好んで読んでいた。
そんなある休日、兒玉はいつも通り、犬を連れて歩きながら読書して帰宅した。
「帰ったぞ」
と兒玉が玄関口で叫ぶと婆やの返事がくるが、
「おお、帰ってきたか」
と婆やではなく他の聞き覚えのある返事が返ってきた。
「山県さん、来てたのですか」
兒玉は山県の声が聞こえた茶の間の方に行った。
茶の間には山県が座っており、その膝の上に5、6才の男の子が座っていた。
「この子はお主の倅か?」山県は尋ねた。
「いや、私のおんづ(弟)です。」
兒玉は山県の膝に座っている弟を自分の所に寄せた。
「しかし、どうしたのですか。山県さんが私の家に来るとは」
「わしも暇をしとってな」
と言って、山県は懐から一通の封筒を出して兒玉に渡した。
兒玉は封筒の中身を覗いた。そこで、一番に目にとまったのが、
『…兒玉十三朗少佐…近衛第3番大隊長ニ任ズル…』と書いてあった。
*****
皇居の側に近衛の駐屯地があり、そこに近衛第3番大隊が駐屯していた。
ここで兒玉は、生涯の友となる同部隊第1番大隊長少佐、黒木為楨に出会う。
黒木は薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬小路、薩摩藩士帖為右衛門の三男として産まれる。
先の戊辰戦争の際は薩摩軍4番少隊長を勤め鳥羽・伏見の戦いで鳥羽街道で新式銃装備の幕府軍に対し、黒木率いる部隊は旧式の銃で戦い、的確な指揮により見事幕府軍部隊に集中射撃を喰らわせ幕府軍部隊を退かせた。その後、宇都宮城攻防戦の際は官軍(薩長軍)の事前射撃をしないうちに黒木は自分の部隊を先導し堂々と城壁にとりつくという無鉄砲な行動をとり、結果的には、数で勝る幕府軍を敗走においやった。
黒木と兒玉には一つにして大きな共通点が存在した。少数の部隊で大多数の敵を打ち破るという事だった。
日本史の例をあげると、源平合戦の一つ、一ノ谷の戦いで源義経率いる少数の騎馬武者による鵯越の逆落としによる奇襲攻撃や、鎌倉幕府末期に登場した楠木正成の奇襲戦法のように、日本の古典的英雄の様な戦いを行った事だった。
二人はよく酒を酌み交わしながら、これからの日本の軍隊について、新しい戦術について自分達の知識の限り話し合った。
一つ例を出すと、ある日、
「のう黒木、ガツトリング砲を知っとるか?」
と兒玉は黒木に言った。
「あぁ、連発式の銃の事か」
と黒木は言って兒玉の杯に酒を注いだ。
ガツトリング砲とはガトリング砲の事で当時の日本ではそう呼称していた。
「あれを各歩兵連隊の各部隊に配備して、さらに鎮台直轄の独立連隊を創れれば良いと考えとるんだ」
兒玉はそう言って杯に酌まれた酒をなめた。
「しかし、ガツトリング砲とはなぁ」
黒木はガトリング砲の威力について実感が湧かなかった。黒木だけでなく日本軍全体はガトリング砲の評価が低かった。北越戦争の際、長岡藩家老河井継之助はニ挺のガトリング砲を購入し山県率いる官軍兵士を大勢薙ぎ倒した。しかし、山県はガトリング砲の威力を肌身を持って感じたが、その後のガトリング砲の軍で有効活用しようと考えず、陸軍卿となった今も考えてはいない。
「惜しいんだよなぁ。ガツトリング砲はわしも長岡で戦ってたときにちょした(さわる)ことがあったが、ありゃぁ、ばかにひどい兵器だった。鉄砲玉がどっとでてなぁ、そのとたん、突撃してきた敵兵共が全員死んでしまったよ」
と兒玉はかつての体験を語りガトリング砲の威力を語った。
ほう、と黒木は頷いて酒を飲みつつもその目は真剣そのものだった。
「ガツトリング砲を1個鎮台や近衛に少なくとも100挺は欲しいのぉ」
兒玉はそう言って酒をなめた。
「つまり訓練などを加えて約800挺は必要か、多すぎるのぉ」
と黒木は言った。
「しかしのぉ、黒木ぃ、信長が長篠の合戦で武田騎馬軍団を破ったのは当時の新兵器鉄砲を金も惜しまずに3000丁揃えたからではないか、戦に勝つには新兵器をどっと揃え、新戦術を駆使しなければいけんぞ。本当は2000挺と言いたいんだがなぁ」
兒玉は酒の肴を箸でつまんで口に運んだ。
「それになぁ黒木、今の軍の目的は国内の治安が目的だがいずれは清国や欧州列強国と戦うことになるはずだ。まぁ、いずれはだが、今のうちから世界の新兵器を購入し、それに合う新戦術を練らねばならん。ガツトリングについてはもう、わしの頭にその運用法が練ってある」
と言って、黒木に戦術案を話した。
「…確かに、後は実戦で試すのみだな」
「まぁ、そういうわけだ、よし!明日にでも山県さんにこのガツトリング砲の意見書を携えて来るか。」
と、いう具合に兒玉と黒木がそれぞれ考えた案を山県に提出し予算の面で彼を困らせたが、兒玉の強い影響もありそのことごとが無理を押して採用されていった。