第二十五話:大砲
明治32年
蝉が高らかと鳴き、晴天の太陽が照らして緑の生い茂る大阪府の信太山に陸軍の演習場があった。
雷鳴の如く砲音が一帯に鳴り響いたとたん。周囲から虫の鳴き声がピタリと止んだ。
大砲の射撃場に一門の野砲があり、十数人の軍人達がいる。軍人たちの中に兒玉十三朗もいた。
「有坂少将、立派な大砲ばこしょい(作り)ましたな」
と、十三朗は満足のした顔で有馬と言う名の軍人に言った。
「駐退機とはすごいな。大砲の脚にずれが生じていない」
別の軍人が周りの同僚に声をかけた。彼らは皆、陸軍砲兵科の指揮官や参謀将校達である。
大砲は、砲弾を発射する砲身に砲撃時に砲を地面に固定する脚、砲を移動させる時に必要となる車輪を持って従来型の大砲となる。
従来型の大砲の弱点と言うのが、砲弾発射時に砲全体に来る反動で大砲の固定位置にずれが生じてしまう。位置がずれたまま砲撃をしても目標に当たる筈がないため、砲撃の反動によってずれが生じる度に砲兵は砲の位置修正をしなければならなかった。砲弾の命中率と速射性が近代戦争を左右する。
陸軍砲兵工廠の少将有坂成章は、長州藩の出身であり戊辰戦争で長州藩の日新隊に加わり転戦する。維新後の明治7年に陸軍兵学寮に出仕し、その後はヨーロッパに渡り各国の銃砲製造の工場を見て回り、国産銃砲製造の技術を磨いた。
そして明治30年に、それまでの主力小銃であった開発者の村田経芳に因む村田銃に換わる三十年式歩兵銃を開発する。
口径6.5mmと弾丸が軽量化された分、携帯する歩兵の負担も削減される。こうした小さな工夫が戦場で死闘を繰り広げる兵隊達の運命を大きく変えるものだ。
有坂は、歩兵銃のみでなく大砲の開発にも乗り出していた。今回、試射したのがそれである。試射した大砲には、新しい装置が組み込まれていた。駐退機と呼ばれる装置である。
大砲の砲身に設置する事によって、砲撃を行った際の反動を駐退機によって砲身のみが動じて大砲を支える脚などには影響がほぼなくなる。
「この大砲を五年以内に全砲兵連隊に配備は可能か?」
と、十三朗は一人の陸軍砲兵工廠所属の技術官に尋ねた。
標準的な砲兵連隊には、約36門の大砲が配備されている。
現在、日本陸軍には17個の師団が編成されているため、17個の砲兵連隊がある。つまり、約612門の大砲を必要となる。更には、今後新設予定の3個師団に砲兵旅団、予備役を主体とする後備師団旅団にも配備する必要があるため、約一千門程を生産する必要がある。
技術官は、首を縦に下ろして可能だと言った。
「そうか」
十三朗は期待通りの返事を聞けて気分を良くした。
「兒玉中将、続いての試作砲の試射を行います」
と、有坂が言った。
うむ。と、十三朗は頷いた。そして、近くにいる兵士に自分の馬を持って来るように命じた。
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先程試射した試作砲をも勝る砲音が響き渡り、暫くして地面にずしんとした振動が走った。試作砲の試射後、十三朗は馬に跨がり着弾地点に向かった。
「…ふうむ」
と、十三朗は試作砲の着弾地を眺めた。
すると後ろから、閣下。と、十三朗を呼ぶ声が聞こえて来た。振り返ると馬に跨る小太りの軍人が一人やってきた。
「伊地知大佐か」
伊地知、本名を伊地知幸介と言い、階級は陸軍大佐である。薩摩の出身で明治8年に陸軍士官学校に入り、砲兵科に進む。士官学校在学中の明治10年には西南戦争に出征した。卒業後にフランスとドイツに留学して列強の砲兵を学んで来た。
「お供します」
「あぁ、良かろう」
伊地知は十三朗の横に馬を並べて試作砲の着弾地を見た。
「大穴があきましたな。流石は二十八糎の沿岸砲だ」
「全くだな」
十三朗は頷いた。
二十八糎砲は、元々明治17年に陸軍がイタリアの28㎝砲を基に開発した沿岸砲である。日本の主要都市、要塞沿岸部に配備された物で、この沿岸砲を陸戦に用いる重砲として使用する事にした。しかし、問題があった。元々、二十八糎砲は沿岸砲として設計されており、26トンの重量のある巨砲をどうやって移動させるかだ。移動できないわけではないが従来の移動法では時間と労力がかかる。そして、設置の際には、地面にコンクリートを敷かなくてはならない。重砲にすりには分が悪い代物だった。しかし、十三朗が気にかける問題は別にあった。
「ロシアの兵馬をなぎ倒せても凍った地面を吹き飛ばせるがだな」
満州の冬季は日本以上に寒い。地面が氷結して砲弾を弾く程の硬さにまで固まる。逆に言えば、冬季以外の野戦に用いる事が出来れば、二十八糎砲の存在価値は十分大きい訳だ。
閣下。と、伊地知が話しかけ、二十八糎砲の弱点を指摘して何故、沿岸砲を必要とするのかを訪ねた。歩兵ならば、大きい大砲を見ればその欠点を見いださずに利点だけを挙げるだろう。しかし、砲を操り知識のある砲兵科にすれば利点よりも欠点を挙げてしまう。
「あのがん程でっかな大砲は無い」
「じぁんどん沿岸砲を野砲として使うにな勝手が悪いものござんで」
と、伊地知が言うと十三朗は高らかに笑った。
「んな(お前)はまだまだ若いな」
「は?」
「使い勝手が馬鹿悪いのは百も承知だ。しかし、この欠点を克服して利点だけを活かさなくてはロシアとの戦争なんぞには勝てん」
「言いたい事はわかいもすが」
それでも伊地知はまだ納得が出来なかった。
「伊地知、戦に勝つ大将はなぁ。出来ない事を出来るようする奴を言うものだ」
そう言って日本史に登場する二人の大将の例を挙げた。
一人は源義経である。源平合戦の一つに当たる一ノ谷の戦いで義経は、約70騎の騎馬武者を率いて断崖絶壁の一ノ谷を駆け下りて平家の本陣に奇襲を仕掛けた。まさか後方の崖から攻撃をされるなど夢にも思わなかった平家は総崩れとなって四国の屋島まで退却をした。
もう一人は織田信長である。石山本願寺との戦いで織田水軍は本願寺に味方する日本最強と呼ばれた瀬戸内海の村上水軍を破るために、水軍大将の九鬼嘉隆に命じて砲を持ち鉄線を張った大型戦闘船を作らせた。船全体が鉄線に覆われているため村上水軍の鉄砲や火矢、炮録火矢をひじき、船内に搭載した大砲によって村上上水軍を敗走させた。当時の建造技術でも鉄線張りの船を造るのは難しく、作れたとしても機動性に劣るのは明らかであった。しかし、鉄線張りの船を造らせた。そして、機動性の悪さを逆手に取り村上水軍にわざと接近包囲されて大砲の有効射程距離まで近づけたのだ。織田水軍は発想と戦術で村上水軍を破ったと言っていいだろう。
源義経と織田信長に共通する点は、敵の予想を覆す戦術を持っていたと言う事だ。
「何、ロシアとの戦争はまだまだ先の話だ。その間に大砲の改良もある」
そう言って十三朗は伊地知の肩を軽く叩いて指揮所の方へと馬を走らせて行った。