第二十四話:陸軍
日本陸軍の主要部隊の基本単位は『師団』である。
日清戦争直前の日本陸軍の師団は、
近衛師団
第1師団(東京)
第2師団(仙台)
第3師団(名古屋)
第4師団(大阪)
第5師団(広島)
第6師団(熊本)
と、七個の師団であった。
しかし日清戦争後、日本はロシアを仮想敵国と定め、世界最大規模の陸軍であるロシア陸軍に対抗するために師団の増設を始めた。
そして新たに、明治31年から32年にかけて
第7師団(旭川)
第8師団(弘前)
第9師団(金沢)
第10師団(姫路)
第11師団(善通寺)
第12師団(小倉)
第13師団(高田)
第14師団(宇都宮)
第15師団(豊橋)
第16師団(京都)
十個の常備師団を新設させて、国内一七個師団の体制で戦力を増強させた。
さらに、
第17師団(岡山)
第18師団(久留米)
台湾師団
三個の師団の新設の準備が進められた。日露開戦直前時には二十個師団の体制となる予定だ。
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師団の基幹部隊となるのが、二つの歩兵旅団である。歩兵旅団は、二つの歩兵連隊から成り、一個の師団に四つの歩兵連隊がある。
そして、歩兵部隊の戦いを助けるのが砲兵部隊である。
各師団には、野砲を装備する砲兵連隊が存在する。また、将来的には野砲の能力を上回る重砲を装備する大隊を編成させる予定ではあるが、定かではない。
歩兵や砲兵の進む道を作るのが『工兵』である。
日露戦争の地上戦の主な舞台となるのは清国東北部の満州だ。その満州で日露両軍が数十万の軍勢を率い、戦史に名を残す大会戦を繰り広げて行く事になるだろ。
日本がロシアとの戦争に、最終的な勝利を得るには全ての戦いに勝って行かねばならない。
戦いに勝つ原則の一つとして、部隊の迅速な移動は不可欠である。敵より早く機先を制する事で、戦いの主導権を奪い敵の戦略を狂わせる事に繋がる。
工兵は道無き所に道を作り、河に橋を架ける。何も無い場所に野戦築城を築くのも工兵だ。
各師団の工兵部隊は日清戦争直前まで大隊規模であった。日清戦争後の軍備拡張を得て連隊規模へと増強をされた。さらには、『工兵旅団』という、専門兵科の旅団が編成されることとなり、四つの工兵旅団が創設される。
師団の目となるのが、騎兵と気球である。
前者の日本の騎兵は歴史が短く、欧州列国のように長く華々しい戦果を挙げた例はない。
そもそも騎兵は、馬と人の一頭と一人が一組となって初めて単一の『騎兵』となる。
日本に昔から住む馬、日本馬は残念ながら世界に通用する馬ではない。日本には広大な平原はなく国土の八割以上が山岳と森林地帯である。日本馬は日本の地形に適した体をしている。そのため小柄で短足である。長距離移動も出来ない。
補足を入れるが、源平合戦や戦国時代には馬に乗った騎馬武者などはいた。だが、日本国内の限定的な場所で合戦を繰り広げていただけである。騎兵を主力として、馬の機動力を活かして西の果てから東の果てへと短期間で大移動した戦史はない。日本の戦史に登場する騎馬武者は、単に指揮官の象徴であったにすぎないのだ。
日本陸軍の騎兵運用は、偵察と各部隊との連絡に重点を置かれており、攻撃は二の次であった。
それでも騎兵の必要性を兒玉十三朗は主張し続け、日本騎兵の育成を秋山好古に一任させたのだった。
日清戦争を経て、騎兵の拡充が始まる。師団内騎兵は連隊へと増強され、騎兵を主力とする二個の旅団が創設される目途が立てられた。
そして、もう一つ師団の目の役割を果たすのが気球部隊である。気球を飛ばして高度から敵を捜索する。各師団にそれぞれ一個連隊が置かれ、軍直轄用の気球連隊も五つ分編成される予定だ。
最後に近代陸軍の作戦遂行に欠かせないのが兵站である。
陸軍で兵站を担う部隊となるのが輜重大隊、弾薬大隊、衛生隊、野戦病院である。だが、陸軍に影響のある高官や実戦をくぐり抜けた指揮官達は兵站に対する認識が甘かった。むしろ、兵站部隊を見下す輩までいた。こういった兵站意識の向上にも兒玉十三朗は力を注いだ。