第二十三話:作戦
日清戦争の後、下関条約で得た賠償金と満州返還で得た膨大な金額によって日本の工業は著しい発展を進めていった。この工業の発展が日本の軍需産業にも多くの影響を及ぼした。陸軍においては新式の火砲や機関銃の開発、海軍では国産巡洋艦『秋津洲』に続く国産艦の建造と増設が行われた。
陸軍では軍備拡大が進められた。常備兵力も明治31年の時点で20万から30万へと増強されて行き、6個の師団が新設されて13個師団体制となった。さらには17個の師団が増設される予定である。
また、陸軍士官学校や陸軍大学校を出た士官らは列国の留学、駐在武官の名目で各国陸軍の情報収集に努めさせた。さらに、有能な一部参謀将校は自身の身分を隠してロシアや、その支配下や影響下にある国々に派遣され諜報活動が行われた。来る日露戦争への備である。
一方、海軍でも『六六艦隊』と言う艦隊建設が進められていた。これは攻撃力、防御力、機動力の三つの高い能力を合わせ持った戦艦と防護巡艦を六隻ずつ揃えるもので、この六六艦隊を主力として大小の各種艦艇を十年以内に百隻以上を整備すると言う大計画であった。
六六艦隊計画が完了した時には日本海軍力は世界屈指の能力を得ることとなる。
下関条約で獲得した満州地方はロシアの三国干渉によって手放さざるおえなかったが、台湾はそのまま日本の統治下となった。
当初、台湾は、下関条約によって日本の統治下に入る事に反発し『台湾民主国』を建国させて日本に対決姿勢を取ったが、5ヶ月間の日本軍との紛争で武力鎮圧された。
その後、台湾の中心都市台北に総督府を設置し、海軍大将の樺山資紀臨時総督となって統治した。そして、初代総督に陸軍中将の兒玉十三朗が就任した。兒玉が行った政策は思いきったものであった。軍事と外交以外の台湾の内政方針を全て台湾人の議会に委ねる。という大胆なものであった。
この政策が台湾人の支持を得た。何時の時代においても、他の国や民族から支配をされれば誰もが反発をするだろう。反発が武力闘争へと発展すれば鎮圧をするのに多くの時間と犠牲などを費やしてしまう。台湾を植民地とさせるのではなく、堂々たる権利を持たせた大日本帝国の一領土とさせるのが兒玉十三朗の台湾統治政策であった。
日本に関連のある海外の情勢については、明治31年3月にロシアが清国より旅順や大連の港湾都市のある遼東半島の最端に位置する関東州を租借して旅順に大艦隊を駐留させ、湾周辺に沿岸砲を並べ、旅順港外の丘に百以上の防御陣地を構築を始めた。その規模は清国の時よりも遥かに巧妙で城塞技術に長けるロシアの技術の粋が集められた。
明治28年に『極東平和』を名目に日本に干渉して、日本が極東平和と言う理想-実質は武力を背景にした干渉に屈した形である-に応じて手放した土地をロシアが居座り極東平和を脅かしてしまったのである。
同じくドイツは山東半島の南部にある膠州湾を租借し、7月にはイギリスが山東半島の先端にある港都市の威海衛を租借した。清国の弱体化は目覚ましく、列強各国が進出を始めいていた。
清国が落ちれば次は朝鮮、最後に日本である。国力の弱い国が強い国に支配される帝国主義の時代である。日本国民は心血を注いで国力向上に努めた。
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明治31年8月
太陽が照らす日本の東京。蝉が鳴き、蚊が人の生き血を吸ういまわしい時期でもある。暑さをやらげるに冷や水と団扇、蚊取り線香が必需となる季節でもある。日本陸軍の全将兵も紺色の冬着から新たに採用された茶褐色の夏着へと衣替えをしていた。
東京の三宅坂に陸軍の中枢である参謀本部が置かれていた。参謀総長は、日清戦争の発端に一役買った川上操六である。彼は日々の職務をこなす一方で、対露戦略の作戦計画を練っていた。この対露戦略構想は、川村にとって心身に圧し掛かる困難な大課題であった。
どの尺度から作戦を練ってもロシア軍との戦争に勝つ見込みが見つからなかった。
勝つ見込みがない。というのは、日本の陸軍力のみで戦争に勝つ事が出来ないという訳である。戦争の終結を外交を持って終わらせるにしても、どの時期に停戦に持ち込むかが問題であった。その停戦に持ち込むまでの間に起こる想定を分析しても日本陸軍にとって苦戦は免れないものだった。
日本がどれだけ軍拡を進めても、ロシア軍の物量には到底及ばない。
苦戦を強いられる戦いに陸軍をどのように勝っていくか。川上は常に頭を悩ませていた。
一つの失敗で全ての戦略が崩壊する。この重圧が川上の心身を蝕んみ続けた。
幾日も参謀本部の自室に川上は籠り、机の上に広げた極東の地図を数枚並べて戦略を練った。灰皿には煙草の吸殻が山になっており当番兵が常に片づけるが山はすぐに出来る有様だ。
職務を終わらせた川上はいつも通り自室に籠り極東地図を広げて椅子に座って煙草を吸った。
暫く考えていると士官が入ってきて、
「兒玉十三朗中将が参謀総長殿にお会いしたいと言って参りました」
と言った。
「兒玉が」
川上は呟き、通すように士官に命じた。そして数分で兒玉が現れた。
「やぁ、兒玉さぁ」
「久しいなぁ、川上。対露作戦のあんばい(状況)はどうだ」
と、兒玉は単刀直入に尋ねた。
「書いたり消したりの繰り返しだ」
そう言って川上は一枚の紙を兒玉に手渡した。作戦計画書である。
「どれどれ……成程な」
兒玉は川上が考案した作戦計画に目を通した。
「良い作戦じゃないか」
作戦書を川上に返した。
「とこいが、そこらじゅうがボロだらけさ」
「ボロだらけ?」
「完璧な作戦なんて、こん世に存在せん。実戦では一つや二つは重大な『ボロ』がでう」
「それが悩みの種か」
「あぁ。そうだ」
「そうやって頭を抱えるなや。気晴らしに、わしの考えた作戦を見てみった」
兒玉は上着の懐から何重に折り重ねた紙を取り出して川上に渡した。
紙を広げて川上は中の文章を読み始めた。
・開戦時期を明治37年頃とする。
・戦争初動期に四つの「軍」を編成する。
・初期攻略目標を遼陽と定める。
一、開戦第一作戦で第一軍を持って朝鮮半島に上陸し、ロシア軍を撃破して北上する。
二、第二軍を持って遼東半島に上陸して南山を攻略して北上する。
三、第三軍を持って旅順を攻略する。もし、旅順攻略が長期化した場合、予備の第四軍を派遣して遼陽決戦に投入する。
四、翌38年3月を目途に奉天で再度決戦を行う。
五、長春またはハルピンを最終攻略目標とする。
六、三の段階後に戦力的余裕が生じれば、新たに第五軍を編成して樺太、ウラジオストクを攻略して北上する。
その他には、一から六段階の作戦における砲弾使用量、総動員兵力も詳細に書かれていた。
「わしの考えた作戦はどんなもんだ?」
「一会戦でん使う砲弾の使用量がやけに多いな」
と、川上は指摘した。
一会戦での一個軍が消費する弾薬は約5万発以上と書かれていた。これは日清戦争で消費した弾薬量を遥かに上回っている。
「清国陸軍とロシア陸軍の実力は違いすぎる」
というのが兒玉の考えだった。
ロシア陸軍は300万の兵力だけも圧倒的な威圧を感じてしまう。そして、兵卒の勇気と服従心も命令を絶対的なものとして銃弾や砲弾の降り注ぐ中を突き進む日本兵に負けないものがある。
士官の能力も、ロシア帝国の歴史中で歩んできた諸外国との戦争で培ってきた知識と栄知が備えられている。
ロシア陸軍の戦術もロシアの歴史や国柄が良く反映されていた。重火砲の運用を重視し、『拠点防御』という戦術を採り、攻め込む敵を拠点に居座りながら防戦しては次の防御陣地に下がって行き、敵を疲弊させつつ補給線を伸ばして行く。そして、伸びきった補給線をロシア騎兵が強襲をかけて突き崩して、敵主力に狭撃を加えて敵戦力を無力化させる。ロシアが最も得意とする戦略であった。
日露戦争が起きれば、ロシア陸軍は満州の平野で上記の戦略を用いて来るだろう。
日本陸軍がロシア陸軍を撃ち破るには、各会戦の初戦でロシア軍に痛烈な一撃を与える。これが兒玉の出した結論であり、砲弾使用量が結論の表れであった。
「後の課題は兵站だな」
と、兒玉は指摘した。
20万発以上の砲弾を輸送するには、海上輸送を最小に行う必要がある。問題は陸揚げした後だ。陸軍の輸送部隊である輜重兵の規模だけでは限界がある。そして、最大の問題が満州の道路網である。雨期に入れば路面が凹凸の悪路となり、輸送の支障をきたすことは免れない。
「軍直轄の兵站、輜重兵の大統合部隊を作らないといけないと考えている。それと、道路を整備する旅団規模の工兵部隊も欲しいな」
「…次に旅順攻略とあるが?」
川上は尋ねた。
陸軍からみて旅順は、ロシア海軍の旅順艦隊が居座る軍港であり、戦争になれば日本海軍が旅順艦隊と対決して撃破する事となっており、陸軍の作戦を考案する川上は旅順の攻略を見当していなかった。
「わしは、旅順が千早城に見える」
「まさか」
川上は耳を疑った。
千早城とは、鎌倉時代末期の武将である楠木正成が河内(大阪)の金剛山付近に築いた城で、数万の鎌倉幕府の軍勢を僅か千人弱の兵で幕府滅亡まで守り通した難攻不落の城塞の事である。
「海軍ではロシアの旅順艦隊を叩けんと言うのか?」
「あぁ、叩けんよ」
海軍の戦略とは裏腹にロシアの旅順艦隊は旅順港の堅い守りの中に籠り、日本海軍の主力艦隊の行動を牽制させて、ウラジオストクの艦隊が日本の海上輸送路を脅かす。と言うのが兒玉の推測であった。
「そいどん、兒玉さぁ。旅順が難攻不落だと言うが、陸軍で落とせうのか?」
「わからん。だすけ、わしが一軍を束めて旅順を落とす」
「兒玉さぁが?」
「ほかに適任者が見当たらん」
川上は頷きながら改めて兒玉の作戦書に目を通し続けた。
「こよ参考にしてよかか?」
「あぁ、こつけがん(物)でよけりゃいいよ。さてと、長居したな」
「もう行くのか」
「色々と行って回る所がだっつりあるんだよ」
そう言って兒玉は参謀本部を後にした。