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if 明治興亡記  作者: 高田 昇
19/83

第十八話:快進撃

 明治27年(1894)7月28日、混成第9旅団は朝鮮忠清道成歓で清国軍を攻撃した。


 清国兵の敗走ぶりは惨めなものであった。重い大砲や物資を放棄し、無傷の者や軽傷者は這う這うの体で我先と平壌まで逃げて行った。


 同日、兒玉十三朗は戦後処理を参謀等に任せ数名の将兵を連れて戦場跡を見に行った。地面を覆う遺体の全てが清国兵の亡骸でしか無かった。


 遺体からは異臭が放たれ、将兵等は鼻を押さえたが、十三朗だけは清国兵の遺体を見つめていた。空を見上げれば無数の鴉が旋回しながら飛び回り、彼等が去るのを待っている。生きた人間がいなくなれば、鴉達は地上に降りて清国兵の遺体をついばみ食べるのだ。


 季節は7月の末、遺体の腐敗も早い。


 「皆、覚えておけよ。戦で死んでいくのは若い兵卒達だ。将校は死地に行かせる兵卒等のためにもしっかりした策を練らんといかん」

 そう、言って十三朗は馬を歩かせた。


 (成歓の清軍などまだ序の口……平壌にいる一万の清国軍だな)

 既に十三朗は平壌に清軍の主力がある事を知っていた。


*****


 8月1日、日清両国が宣戦布告をした。


 陸軍は順次、後続の部隊を朝鮮に派遣した。その中には第5師団長の野津道貫中将がおり、14日に漢城に入り兒玉十三朗に会い報告を受けた。


 「騎兵による複数回に及ぶ北方偵察の結果をまとめたところ、平壌に約一万二千の兵が居ります」

 と、十三朗は野津に言って報告書を手渡した。


 「ご苦労だったな児玉さん」


 「いえ、働いたのは部下達です」


 「そうだったな、では後で彼等に酒でも携えて行くとしようか」


 「ありがとうございます中将」


 「ところで、平壌の敵だが……どう考えている兒玉」

 そう言って野津は机の上に朝鮮半島の地図を広げた。


 「敵は1万余と言っても装備は我々よりも劣り、第5師団のみで十分に戦えます」


 成歓の戦いの時、清国兵の装備はバラバラで旧式の火縄銃を使用する部隊もあったが、まだ良い。長槍と盾のみの部隊が多々あり、それが最前線で戦っていたのだった。


 「成歓の戦いで士気が著しく落ちています。この機を逃さず攻めるのが上策でしょう」


 「そうか、私も同じことを考えていた。それにいつまでも師団が漢城に居座っては朝鮮王朝も動揺を隠せなくなる」

 この時、漢城には第5師団司令部と歩兵第10旅団が駐留している。


 ここに、平壌攻略が決まった。


*****


 平壌攻略は9月15日に行われた。


 この時の日本軍の参加兵力は


 第5師団 師団長野津道貫中将


  混成第9旅団 旅団長兒玉十三朗少将


  歩兵第10旅団 旅団長立見尚文少将


 歩兵第18連隊 連隊長佐藤正大佐


 歩兵第18連隊は、第3師団の隷下であり、第3師団そのものも本来ならこの作戦に参加出来たはずであったが諸事情により先発隊の18連隊のみしか作戦に参加できなかった。




 戦いは日本軍の大勝に終わる。兒玉十三朗の旅団が清国軍に王手を入れたのだが、それにはこの戦いに参加した新兵科の活躍があった。


 気球部隊である。


 西南戦争後の明治11年、十三朗が山県有朋に提出した改革論(第八話:陸軍大改革論を参照)により編成された部隊で、高い高度からの偵察により、騎馬よりも広範囲での敵の行動を把握できた。さらに言えば筒抜けであった。


 第5師団隷下の気球第5連隊は、前日の14日から偵察を開始し、これにより日本軍は清国軍の清国軍よりも多くの情報を入手でき、終始清国軍の裏を突く形で戦いを進めたのだった。


*****


 兒玉十五朗は、海軍少尉砲術士官として砲艦『赤城』に乗艦していた。


 赤城は、明治23年(1900)に小野浜造船所で竣工した摩耶型砲艦の4番艦である。


 常備排水量622t、12cm単装砲2基を主砲とする砲10門と、戦艦や巡洋艦の相手には遠く及ばないが日本海軍の貴重な戦力を担っている。


 現在、赤城は朝鮮半島と中国大陸の間に位置する黄海を哨戒している。


 そして十五朗は、艦内の食堂で食事をとっていた。すると、前の席に食膳を置き、士官が一人座った。


 「やぁ、佐藤さん」

 十五朗は、佐藤という士官に親しげに声をかけた。


 「兒玉、君の(あん)ちゃはただ者じゃないな」

 佐藤は、そう言って味噌汁をすすった。


 本名を佐藤鉄太郎と言い、階級は少尉。十五朗の一期上の先輩で赤城の航海長を務めている。


 「そうですか?」


 「わしは陸軍には疎いが、お前の兄ちゃが気球部隊の創設を山県閣下に要望した話は聞いている。今回の平壌攻略で大活躍したじゃないか」

 鉄太郎は副菜を口に入れ、白米を食べる。


 「まぁ、それでだ兒玉、わしの勘じゃぁ、明日か明後日には北洋艦隊が動くとみるな」


 「えっ?」


 「平壌の戦いに敗れた清軍は朝鮮から退却か、更に精鋭の増援を送るかだ。だから、兵隊を短期間で運ぶのに便利な海上輸送をするとみれば、北洋艦隊が動く筈さ」

 鉄太郎は再び箸を取り食事に専念した。




 9月16日、北洋艦隊は朝鮮に向かう陸軍部隊の海上輸送の護衛のため出動した。翌17日、丁度周辺海域の哨戒をしていた日本海軍の主力艦艇から成る連合艦隊の本隊と偶然遭遇した。


 連合艦隊は、旗艦の巡洋艦「松島」を筆頭に排水量4,217tを有する「橋立」、「厳島」の3隻を主力とし、定遠・鎮遠と言う『熊』を倒すために建造された世界最速の23ノットを誇る防護巡洋艦「吉野」と第1遊撃隊として日清開戦の発端となった豊島沖海戦に参加した「秋津洲」と「浪速」、防護巡洋艦「高千穂」と「千代田」、そして艦齢が20年強の旧型軍艦の「扶桑」と「比叡」、かつて西南戦争で兒玉十三朗と共に熊本城籠城で奮戦し、後に海軍に転移して海軍軍令部長となった樺山資紀が乗る仮装巡洋艦「西京丸」、その護衛を行う砲艦「赤城」であった。


 一方で北洋艦隊は、戦艦「定遠」、「鎮遠」は元より、巡洋艦を8隻従えていた。


 当時の海戦は、軍艦に積まれた大口径の砲の搭載数で雌雄が決し、そのため艦を守るために纏う装甲は分厚くならなくてはいけない。そのため、軍艦は必然的に巨艦となり、「戦艦」と言う分類の軍艦が誕生し、列強は競って戦艦の建造に着手した。


 清国海軍の「定遠」、「鎮遠」は『堅艦巨砲主義』の先駆けであった。


 明治20年代の日本は、『帝国』と名乗っていながら、未だ発展途上国に過ぎず、「秋津洲」程の軍艦を数隻造るので手一杯であった。


 とにかくも、戦艦2隻が今海戦に出てくる以上、日本海軍には分がない様に見える。


 しかし、将兵の質や士気には日本海軍と雲泥の差があった。


 例えば、銃を持つ人が経験と知識が豊富にある名手であれば、飛ぶ鳥を落とす事が出来るであろう。だが、銃を持つのが子供であり、銃を持つのも初めてであれば、飛ぶ鳥は落とせず、発砲の振動で尻餅をつくだろう。


 日本海軍は創設の時より、とにかく出来る事からした。高い軍艦が買えなければ、人員の質向上に徹した。将校は海戦術を、兵士には艦の操作を各々に徹しさせた。


 日清開戦前に、日本海軍の艦隊運動を見たイギリス海軍のある大佐は、ヨーロッパの水準に達している。と評価したのだが、一大佐の言葉を誰もが鵜呑みにした。


 しかし、今、黄海で行われようとしている海戦で、大佐の言った事が事実であったと実証されようとしていた。


 北洋艦隊は、横列陣をもって前方の連合艦隊に進んだ。敵弾の命中を受けにくい利点があるが、攻撃の際には、前部主砲のみしか射てない欠点がある。


 連合艦隊は、単縦陣をもって北洋艦隊に艦の横っ腹を見せる形で、吉野を先頭にかつての第1遊撃隊の面子であった艦隊が連合艦隊からみて最左翼の巡洋艦「揚威」に向かって進んだ。艦の側面であるため、敵弾の命中率は高いが、前後主砲と側面に備え付けられた副砲を射つ事が出来る。そう言う意味で現時点で発射できる大砲の総数では、連合艦隊が優勢であった。


 そして、吉野と揚威の距離が3000mに達した時、吉野は敵に向けてある砲を一斉に射ち始めた。吉野に続く高千穂と秋津洲も発砲した。砲弾は揚威と隣の超勇に降り注いだが、致命傷にはならなかった。豊島冲海戦の時にも述べたが、吉野は速度はあるが小口径の砲しか積んでいない。それは、高千穂や秋津洲にも言えた。


 揚威と超勇に致命傷を与えられなかった。つまり、初戦で沈める事はできなかったが、艦上は悲惨であった。至る所に大小の穴が開き、逃げる事ができない多くの将兵が負傷した。その悲痛の声と姿を聞い見てしまえば、生涯忘れはしないだろう。


 連合艦隊全艦も発砲した。


 北洋艦隊も負けじと応戦する。


 激しい砲撃戦が繰り広がるにつれて、両艦隊の指揮系統や艦隊運動は乱れていく。


 西京丸と赤城は戦闘区域から離脱するよう指示があり、それに従った。しかし、離脱したつもりが激戦の真っ只中に入ってしまった。しかも、定遠と鎮遠に睨まれたのだから堪らない。


 主砲こそは撃って来なかったが副砲をバンバン射ってきた。


 西京丸には軍令部の所要人等が乗艦していた。赤城は定遠、鎮遠の注意を引き付けるため、砲をめっぱら撃った。


 それによって、西京丸は一応の危機は脱したが、今度は赤城が集中砲火を浴びる事となる。


 十五朗はとにかく叫んだ。砲音に負けないくらいの声を腹の底から出した。そうでなければ部下に声が届かない。


 「・・・・・!」

 部下が十五朗に何か告げたが聞こえない。


 「まっと(もっと)、でっかな声で言えや!」

 と、十五朗が怒鳴る。


 「向こうの方で隊が沈んでます!」


 「何ぃ!?」


 十五朗は示された方角を向くと、交戦する敵艦の奥の方で確かに艦が沈んでいく。敵か味方か確認するため、首にぶら下げていた望遠鏡で確認した。


 「ありゃぁ、清軍の艦だわね!」

 声を聞いた兵達は喜び湧いた。


 (これだったら、何隻かの艦が助けにくる都合がつくかもしれ…)

 十五朗がそう考えている時だった。


 赤城に数発の砲弾が続け様に直撃して爆発した。これにより、十五朗を含む将兵数十名が薙ぎ倒された。


 赤城艦橋にも砲弾が当たり、艦長の坂本八郎太が戦死した。代わりに自身も負傷しながらも、佐藤鉄太郎が指揮をとった。


 その後、コルベット艦の比叡が助太刀に入り、赤城は絶体絶命の危機から脱した。




 黄海での海戦は日本海軍の勝利に終わる。


 北洋艦隊は「経遠」、「致遠」、「揚威」、「超勇」、「広甲」の5隻を損失し、他の艦も大きな被害を被った。


 連合艦隊には沈没艦は無かったが、旗艦「松島」、「比叡」、「西京丸」、「赤城」が大破した。日本側の戦死者299名で、内赤城からは90名の戦死者を出し、船員の殆んどが負傷した。兒玉十五朗もこの海戦で左手の小指と中指を失い、左目を失明する重傷を負った。

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