第十六話:朝鮮有事
明治27(1894)年
日清間の対立の要因となっている朝鮮で反乱が起きた。
朝鮮の歴史は、14世紀の末1392年、日本では将軍足利義満が半世紀に渡り国内を二分して争った南北朝の動乱を終息させた時期に、高麗の武将李成桂が国王恭譲王を廃位させ、自らが国王となり彼の子孫が朝鮮に君臨し続けた。
その後の時代の経過の中で、豊臣秀吉の朝鮮出兵で国運が尽き掛けたが、秀吉の死去と共に難を逃れた。しかし、1619年に明と朝鮮の連合軍はサルフの戦いで後の清となる後金に敗れ、明の滅亡後に城下の盟を結ばれ清の属国となる。それ以降の朝鮮は平和を保っていったが、大陸西方のヨーロッパでは各国が絶えず戦いを繰り広げて行く中で絶対主義が芽生え、大航海時代が始まり、植民地争奪の侵略政策が始まった。
19世紀には、いよいよ東アジアに及び、朝鮮の宗主国の清が最初の餌食とり、多くの権利を奪われ半植民地化が進んだ。日本は辛くも明治維新によって植民地化を免れた。しかし朝鮮は、旧態依然のまま鎖国を維持していた。
1866年8月、米英の民間企業が共同運営する武装商船ジェネラル・シャーマン号が朝鮮の平壌に不法侵入し、退去勧告を要求してきた朝鮮の使者を拉致した挙句、上陸した船員が周辺の村々を襲撃し、略奪と殺戮を行った。
この蛮行に激怒した民衆と軍はジェネラル・シャーマン号を焼き打ちし、船員を皆殺しにした。
同年10月にフランス海軍の極東艦隊が朝鮮に来襲した。これは、ジェネラル・シャーマン号の事件から遡り、この年の3月に国内のキリスト教信者を弾圧し、パリ外国宣教会のフランス人宣教師を9名含む8000人を処刑した事件がありその報復をしに来たのだ。
フランス軍は手始めに江華島を占拠した。その後、撤退を条件に賠償と責任者の引き渡しと通商条約の締結を要求した。しかし、朝鮮王朝は要求を拒絶したためフランス軍は更になる軍事行動を行い、艦隊船員から陸戦隊を組織し陸上戦を行ったが、旧式の装備でも物量で勝る朝鮮軍に苦戦を強いられた。また、戦場が朝鮮と遠方であるため補給と軍艦の整備の面においてフランス軍は日に日に苦しくなり遂には得るもねも無く撤退した。
それから5年後の1871年に、今度はアメリカのアジア艦隊がジェネラル・シャーマン号事件の報復のため来襲したが、フランス軍と同じ様に補給が滞る遠方のため朝鮮に一定の被害を与えただけで撤退した。
この時期が、朝鮮に置ける異国勢力の撃退、則ち攘夷が最盛期であった。
一方で、日朝関係は冷えきっていた。日本は近代化によって此までの古い体勢を捨て、西洋に基づいた国家運営と隣国との関係を築こうとしたが、朝鮮は日本の一連の行為を認める事ができなかった。いや、その当時はヨーロッパ列強等も日本の近代化を『猿まね』と嘲笑った。
ヨーロッパに置ける近代化の歴史は各国が数百年かけて争い蓄積していった制度と科学文化の結晶であって、それを東洋の島国が、しかもこの間まで古い封健社会だった国が西洋の様な近代化を行おうなどと、到底出来ない事だと、どの国も誰もが考えていた。
話を戻す。とにかく朝鮮は近代化した日本との国交を開きたく無かった。日本としては、朝鮮を開国させ、近代国家に必要な貿易によって得られた資本が欲しかった。
そこで日本は西洋流の砲艦外交を行う事にした。
日本と朝鮮間の航路研究と測量のため日本は軍艦を朝鮮に派遣した。当然、朝鮮には何の通達もしていない。そして、朝鮮の江華島で軍事衝突が起きた。
日朝両国は互いの行為に非難を言い合った。そこで日本は朝鮮に『戦争』という外交カードを出して来た。これには朝鮮も青ざめた。そこで宗主国の清国に外交的圧力を日本にするよう要求したが、かなわなかった。日本が先手を打って清国の大官等と接触し、日朝間の問題に干渉しないよう手を打った。頼みの綱を失った朝鮮は日本の要求案全面的に飲み、開国した。それに続き列強も日本と同様の要求を行い通商条約を締結させていった。
こうして海外の製品が朝鮮にもたらされ、国内経済は大混乱した。王朝内では各勢力が政権獲得のため互いの足を引っ張り合いこの事態を解決できる状態ではなかった。
民衆は苦しんだ。いつの時代でも政府が駄目になると、その“ツケ”を払うのは経済的弱者であった。
こうした中で反乱が起こった。朝鮮国内で『東学』という東洋の朱子学や西洋のキリスト教の思想とは異なり、朝鮮で生まれた独自の思想である。
この東学党が民衆を先導し、全羅道を占拠し、討伐に来た国軍を撃退した。これに合わせ、全国で民衆が武装蜂起した。
朝鮮王朝内では事態打開のため清に救援を要請する事に決まった。
清国は直に軍艦5隻と5000名の派兵を決定した。この決定は1885年に日本と結んだ天津条約に基づいて日本に通達した。
天津条約―日清両国がこの条約を結んだ前年、朝鮮で甲申政変と呼ばれる日清両軍の衝突事件が起きた。そのため今後、日清両国が朝鮮を巡る紛争を防止するため締結した条約である。
そして、この条約の中に朝鮮で有事が発生した場合、日清両国のいずれかの軍のみが朝鮮に派兵し、その際、日清どちらかの派兵国が派兵の件を通達する取り決めが合った。
*****
日本
清国の朝鮮派兵は清国が通達する以前から朝鮮と清国の公使館を通じて情報を得ていた。
この時の内閣は第2次伊藤博文内閣で、外務大臣は陸奥宗光で、陸奥は情報を獲ると直ぐに陸軍から参謀次長の川上操六を私邸に招き協議した。協議の内容は日本の朝鮮出兵である。
「陸軍の方では派兵の準備は整っのております」
と、川上は言った。
陸軍はかつて来日したドイツ将校メッケルの指導の基でプロイセン式陸軍となっていた。
宣戦布告と同時に軍を動員するのでは無く、布告前から事前の情報収集に基づき軍を動員し、敵より優勢な位置から宣戦と同時に相手の出鼻を打つのであった。
川上自身も昔プロイセンへ留学しており、プロイセン式の熱心な信者であった。
そのため、彼の部下で特に優秀な者を清国や朝鮮に派遣し国情を探っていた。
「で、派兵の規模は?」
「一個旅団を考えています」
「一個旅団だと?」
当時の旅団の規模は約2000人で清国の派兵規模に較べ劣勢であった。
「閣下、一個旅団は戦時ならば各兵種を旅団の直轄となり規模は八千となります」
それを聞き、陸奥は安堵した。
「後は、伊藤さんだな」
「はい」
後日、陸奥は川上を連れて報告のため伊藤のいる首相官邸を訪ねた。
「清国が朝鮮に派兵するだと!?」
伊藤博文はこの事実を陸奥の口から初めて聞いた。
「我が国も急ぎ派兵せねば朝鮮は清国の属国となります!」
と、陸奥は力強い口調で伊藤に説いた。
「派兵だと!?陸奥、それでは清との天津条約を違反する事になるぞ!」
「閣下、この派兵は(明治)15年に朝鮮と結んだ済物浦条約に基づくもので派兵の大義名分です!」
済物浦条約とは、1882年に起きた朝鮮兵士反乱(壬午事変)によって日本人が多数殺害され、日本は朝鮮にて、再度事変が発生した場合には邦人保護のため軍を派兵する取り決めを結んだ。
「……では派兵の規模は」
伊藤は妥協した。陸奥は合図で後ろに控えていた川上が前に出て説明を始めた。
「一個旅団を派遣します」
「一個旅団でも多くはないか?」
伊藤の問かけに川上は返した。
「では閣下はもう一度、壬午事変の時の様に同胞の命を危険にさらしてよいのですか?」
「そんな事を言っているのではない!」
「数個大隊や一個連隊では十分な保護は出来ません。一個旅団が一番妥当な規模です」
もはや、この議論の主導権は陸奥と川上が握った。
「……仕方がない、一個旅団の派兵を閣議で決議する」
この時、一個旅団の規模が二千程と伊藤は思っていた。
(これで良し)
川上は心中で微笑んだ。
「川上参謀次長、一つ訪ねるが」
と、伊藤は言った。
「何でしょう?」
「派兵する旅団の団長に誰を行かせる?」
「少将の兒玉十三朗を行かせよと思っております」
「兒玉十三朗……」
伊藤は呟いた。
*****
官邸を出た川上は兒玉十三朗に会い派兵の事情を説明した。
「よし分かった、派兵の件は承知した」
十三朗は二つ返事で承認した。
「頼みます、兒玉さぁ」
「だが川上や、一つこの派兵規模に付け足しが欲しいのだが…」
「付け足し?」
「あぁ、医者に支援物資を沢山よこして欲しい」
「何故だ?旅団の兵站に不備があったか?」
「いや、旅団の兵站は十分だ。しかし、朝鮮の民衆を助ける事を考えると少なすぎるなぁ」
「?」
「蜀漢の玄徳は常に民衆を第一と考えていたから国を持たない時から民衆の支持が高かった。これに習って日本が内乱で苦しんでる朝鮮の民衆を助ければ、民衆は少なからず日本を支持するはずだ」
ふぅむ、と息を吐いた川上は後ろ頭を掻き回し考え込んだ後承認した。