第十四話:大津事件
明治の時代が20年経っても、国民達の日本の近代化への努力は驚く程続いていた。
明治22(1889)年2月11日に『大日本帝国憲法』が発布された。
12月の末には、山県有朋を総理大臣とする内閣が誕生した。とはいえ、山県内閣の政策の裏には常に十三朗の知恵が働いていた。
大日本帝国憲法は、アジアの国の中でも長い歴史と文化を持つオスマン帝国が1876年に公布したオスマン帝国憲法に次いで2番目である。しかし、オスマン帝国憲法は1877年の露土戦争の敗北により政治は皇帝による専制に移行してしまい、1878年にオスマン帝国憲法はその機能を停止してしまう。
日本の大日本帝国憲法は翌年の明治23年、憲法の公布後から安定的な継続を続いていく事となり、実質アジアで最初の憲法に基づいた国家運営がなされていった。
同年に第一回の衆議院選挙と帝国議会が行われた。
日本の近代化もようやく、その地盤が固まりつつあった中、明治24年に日本の存亡に関わる重大な事件が発生した。
5月も中旬に入った頃になる。政府内には重苦しい空気が漂っていた。軍部も同様である。
東京 陸軍省
一室に山県有朋と彼の片腕の兒玉十三朗がいた。
「まったくもって、ひどい事になりましたな」 十三朗は言った。
山県は眉間に皺を寄せ、手に持つ煙草を灰皿に捨てた。灰皿は山県が捨てた煙草の山となっている。山県内閣は5月6日に総辞職しており、今回の『事件』責任は松方正義内閣が負っていた。
「全くその通りじゃ……兒玉、日本はロシアと戦になると思うか?」
「現状からでは予想出来ません。しばらく様子を見守らねばならんでしょう」
「ふぅむ、たかが青二才一人のために日本が潰れるかもしれんとは」
山県は煙草を灰皿に捨てた。
事の発端はこうなる。
ユーラシア大陸の半分を侵略によって領土を拡大してきたくロシア帝国は、ヨーロッパへの勢力の拡大を図るために政治腐心が浸透するオスマン帝国に目をつけた。
中世の時代、ヨーロッパ諸国と争った西アジアに君臨する大国としての面影などは今は無く、ロシアとのギリシア独立戦争・クリミア戦争・露土戦争の三つの戦争により、オスマン帝国の領土を徐々に削られていった。このロシアの行為に横槍を入れて来たのがドイツ帝国とイギリスである。
誕生間もないドイツ帝国は自国権益保護ために列強諸国の勢力均衡を計るため、宰相ビスマルクはイギリスを用いて巧みな外交力により、ベルリン会議を開催し、ロシア帝国が獲得したオスマン帝国の権益の放棄させる事に成功した。
こうして、ロシア帝国はヨーロッパでの勢力拡大に失敗した。そこで次に目をつけたのが、貧しく未開拓の多いアジアであった。
ロシアはヨーロッパ進出と並行してアジアで一大事業を進めている。モスクワから極東のウラジオストクまで全長9,794km、ロシア国内東西を横断する世界最長の鉄道『シベリア鉄道』の建設であった。
このシベリア鉄道の建設の視察のため皇太子ニコライは艦隊を引き連れてウラジオストクに向かった。その途中に日本を観光目的で訪れた。
日本政府としては、日露関係の向上への絶好の機会と捉え、国をあげてニコライを歓迎した。国民達も歓迎を尽した。しかしこれは、日露友好を期待するもの出はなく、超大国ロシアへの恐怖心が根底にあった。また、一部では艦隊を引き連れてきたニコライ皇太子を『日本を征服するための下見に来たのではないか』との噂が囁かれた。
ニコライを乗せた軍艦アゾフ号は4月27日に長崎に寄港した。ニコライは5月4日に政府公式の記録では初めて日本の地に降りたとされているが、実際はお忍びでチョクチョク長崎の街に行っていた。
九州は長崎、鹿児島を観光し、次に京都を周り季節外れの五山送り火を観覧した。そして、5月11日に琵琶湖への日帰り観光を済ませ、ニコライ一行を乗せた人力車は大津市に入った。
大津市の街中には多くのロシア国旗と日の丸国旗がなびき、ニコライを一目見ようと民衆が集まり、彼等を監視するために滋賀県警の警察官が警備にあたった。
警備にあたる警察官の中に守山署に所属する巡査の津田三蔵がいた。西南戦争に官軍として従軍して各地を転戦していき、功績から勲七等を授与され、国家に対する忠誠心の厚い男であった。しかし、この厚い忠誠心によって彼の運命は最悪の方向に向かって。
ニコライを乗せた人力車が津田の前を通りかかった時に事件は起きた。
津田は突然、腰に吊してあるサーベルを抜きニコライに斬りかかったのである。右側頭部を斬られ傷の深さは9cm程に達していた。津田はニコライに止めを刺す前に捕まった。
この事件が世に言う『大津事件』である。
日本に暗雲が漂った。
事態を知った明治天皇は自らニコライが療養している京都の常盤ホテルに出向き、見舞いに伺った。
政府は『ロシアの報復』を危惧し、津田三蔵の死刑を司法に要求したが、就任したばかりの大審院(最高裁判所)院長児島惟謙は行政による司法への干渉は日本の法治国家への威信に関わり、後々の外交交渉に悪影響を及ぼすとして、あくまで法に基づく裁判を行うべきと主張して一歩も譲らなかった。
「山県さん、政府としては津田を死刑にしたいようですな」
「うむ、伊藤(博文・現貴族院長)さんに青木(周蔵・現外務大臣)君に西郷(従道・現内務大臣兼陸軍中将)君が主な面子だ」
山県は少し間を置き、十三朗の表情を伺ってみた。彼の表情はいたって変わる事は無かったが、山県は長い付き合いから十三朗の考えを把握した。
「児玉は津田の死刑には反対か?」
「いえ、津田を殺してやりたいと思っておりますが私としては……」
*****
後日、児玉十三朗は西郷従道を訪ねた。ロシアについての報告書を提出した。
今回の事件を口実にロシアは、北海道と千島列島の割譲。また、対馬と佐世保の租借の可能性は有るとするも実行に移る可能性は低いとしていた。
領土割譲を足掛かりに、段階的に日本圧力をかけ植民地化にすることは火を見るより明らかな事であり、そうなれば極東の勢力図はロシアに一気に傾く事は明白である。そうなれば、インドに権益があるイギリスにとって『目の上のたんこぶ』であり、イギリスは自国の権益保護のため、外交力を駆使してロシアに横槍を入れて来るとしている。
次に、ロシアの武力行使の可能性も極めて低いとしている。極東方面でのロシア陸軍の兵士を万単位で輸送するだけの船の数がない。
海軍としても標的となる日本海軍の艦を安全地帯に一時的待避を行わせる事とすれば問題はない。また、ロシア海軍が日本国土に艦砲射撃してくる可能性も杞憂に過ぎず、仮に行ってきたとしても国際世論がロシアを批判し、日本の味方となる。と、分析と詳細が詳しく書かれていた。
「児玉さぁ、これに書かれている事を信じてようごわすか?」
西郷は声こそはおっとりとしているが、その目付きは鋭く、威圧を放っていた。
彼は若き日の頃、薩英戦争に従軍し列強の圧倒的な技術力と沿岸の村々に対する艦砲射撃による非道行為(国際法に違反していたためイギリス本国は艦隊司令官を批判した)を間のあたりにしており、当時を知る者は列強に対する恐怖心と警戒心がとても強い。
「はい、児玉源太郎や川上操六らと検証し合って出した結果です。ロシアは攻めては来ません。閣下、日本はやっと憲法や議会が出来て、列強と同じやり方で政治が出来るようになりましたが、今回の事件で政府が司法に干渉してしまえば、法を尊守するイギリスが我が国の法制度を厳しく評価して、列強との対等な外交交渉が出来なくなります。そうなればこれまでの苦労がことごとく水の泡となり、血を流して倒れていった多くの同胞達も報えません」
西郷はしばらく無言でうつ向いた。彼の中で二つの感情が衝突し合っていると十三朗は思った。
「よか分かった。……しかし、万が一ロシアと戦になったら腹を切らねばならんぞ」
と、西郷はうつ向いたまま言った。
「わかっております。ロシア軍を退けた日には、この腹をかっさばきます。介錯はいりません」
「それならよか。伊藤さん達には、おいが話しをつけておきましょう」
西郷は顔を上げて普段のおっとりした口調と表情をして言った。
「閣下、ありがとさんございます」
十三朗は西郷に対して深く頭を下げた。
*****
5月24日に裁判が始まり、午後に判決が下された。
謀殺未遂ノ犯罪ニシテ被告三蔵ヲ無期徒刑ニ処スルモノ也
6月3日にはロシアから『貴国の法規に基づくものとせば満足するの外なし』という返事が届き、領土割譲や賠償金の要求はなかった。
この裁判の結果は海外から法治国家として日本の評価が高く、後の不平等条約解消に大きく影響する事となる。
児玉十三朗が裁判の結果を知ったのは25日の事で、前日の24日に児島から児玉宛ての電報が届いていた。
電報には『カッカ ノ ゴシエンニ カンシャイタシマス』と、書かれていた。