第十二話:好古 前篇
騎兵将校秋山好古がフランスに留学したのは明治20年の事であった。
安政6(1859)年に伊予国松山の下級藩士の家で生まれ、十歳の時に明治維新が起こる。松山藩は徳川方に着いた朝敵とされ朝廷に多額の賠償を支払われ土佐藩の保護下に置かれた。
鳥羽・伏見の戦いへの出兵と朝廷への賠償支払いのために松山藩の財政は危機に瀕した。この影響は藩の下級武士にも広がり、秋山家にも大きな打撃となった。好古を含め育ち盛りの四人の子どもがおり、家計を圧迫した。そこに小さな家族が明治元年に誕生した。
両親は困惑し、産婆に頼み堕ろそうと考えたが行わなかった。そこで寺に預ける事を考えたが好古は反対した。
「大きくなったら偉くなってお豆腐程のお金をこしらえるから赤ん坊を寺に預けるのはいやぞな」
と、好古はせがみ続けた。ついに両親折れ、赤ん坊を寺に預ける事も殺す事もしないで育てる事にした。
赤ん坊は淳五郎真之と名付けられ、後に兒玉十三朗の弟の十五朗とは海軍兵学校の同期なり共に精進する。
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好古は、家計と勉学に必要な道具を揃えるため風呂屋で働いた。17歳で大阪の教員を育成する師範学校に入学する。翌明治9年7月に卒業し、その後は大阪や名古屋で教員の仕事をして生計を立てた。
明治10年、19歳にして教員の仕事にようやく馴染めて来た頃、名古屋の付属小学校の主事で松山出身の和久正辰に会った。年齢は三十代後半で、明治維新を体験した和久は日頃から薩長の天下が気に入らなかった。
薩長出身者の理由だけで能力の欠片もない人間でも優遇されていた。これに不満を抱かない者はなく、和久もその一人であった。そんな時に好古が現れた。
彼は教員より軍人に向いていると和久は、好古の『鼻』を見て思った。好古の鼻は外国人のように大きかった。和久は大きな鼻の人間は根性と責任感があり、立派な人物になると聞いた事があった。
「秋山君、君は軍人になる気はないか?」
と、ある酒の席で和久は単刀直入に好古に言った。
「軍人に?」
「そうだ。今の薩長の時勢で朝敵の汚名を着せられた藩の人間は例え頭が良くても学校の教員程度にしかなれなんだが、政府は西洋の制度を加えた新しい軍隊を作っている。そのためにかつての朝敵を問わず人材を集めている」
「あしは軍人になる気はございません」
好古は最初こそ和久の誘いを一蹴したが、武士の家の生まれとして軍人という道に心が動じた。その後も和久は軍への入隊を勧められ、ついに好古は折れた。
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西南戦争の混乱の最中、明治10年5月に陸軍士官学校第3期生として127名の同期と共に入学する。修業期間が一年短い騎兵科に入ることにした。彼の他に同期で騎兵科に入ったのは他ニ名であった。
明治12年12月に卒業し陸軍騎兵少尉となる。翌年7月には東京鎮台騎兵第1大隊第の小隊長に任じられた。明治16年には騎兵中尉に昇進し、昨年創設された陸軍大学校第1期生として入学が決まった。
余談だが、同年に上京してきた弟の真之と平川町の借家で過ごした。生活そのものは将校であっても極端に質素で厳しいものだった。家の中は生きていくために必要な最低限の物しかなく、茶碗は一つしかなく好古が茶碗に注いだ酒を飲み干すと真之に渡しそれで飯を盛って食う。おかずは沢庵しかない。高い給料を貰っているが、その殆どは酒代に消える。好古の頭には騎兵と酒の事しか考えていないと言っても過言ではなく、衣食住については『生きていく』事を満たせればそれ以上の欲は出さなかった。好古が25歳のときであった。
陸軍大学校に入学して早々、軍事学を学ぶ事はなかった。まだ外国からの教官の選定作業中であり、専門外の一般知識を明治18年まで学んだ。
ドイツ帝国から来日したメッケル少佐の講義は無茶苦茶であり不満を漏らす学生が多かった。それでも実戦的であり誰もがメッケルの言葉に耳を傾けた。ある時メッケルの講義が終わり教室から出ようとした好古はメッケルに呼び止められた。
「なんでしょうか?」
メッケルは好古にドイツ語で話しかけてきたが、好古はただ呆然と知らない外国語を聞かされた。何を言っているんだと内心で思っていたら、日本人の通訳官が助け舟をよこした。通訳官はドイツ語でメッケルに何かを言うとメッケルは驚いた顔をして好古の顔を覗き直して去っていった。
「君の日本人離れした鼻を見てヨーロッパ人と間違えたんだよ」
と、通訳官は言ってメッケルの後を追った。一人残った好古は苦笑いをした。