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if 明治興亡記  作者: 高田 昇
11/83

第十話:メッケル


 兒玉十三朗が陸軍省に提出した『陸軍大改革論』はそのまま陸軍の政策とされ、明治15年に陸軍大学校は創設された。


 兵学教官を外国から招く事となり、その対象国がドイツとなった。


 陸軍は創設当初フランス陸軍式の訓練を採用していたが、話を遡る事12年前の明治3(1871)年にヨーロッパで列強の勢力図が変換する事態が発生した。


 フランスとプロイセン王国の戦争-普仏戦争(1870~1871)-である。

 プロイセン王国とは、かつてドイツ諸候連合国家であった神聖ローマ帝国(962~1806)の一公領であったが、19世紀の初めにフランス皇帝ナポレオンによって締結されたライン同盟によって844年の歴史に幕を閉じた。

 新たに『ドイツ連邦』が誕生したが連邦国家としてまとまる事はなく、その中でプロイセン王国は1862年、国王ヴィルヘルム1世の時に首相のオットー・フォン・ビスマルクはプロイセン中心によるドイツ統一のため富国強兵と外交強硬策が主軸の『鉄血政策』を掲げ、国王がこれを採用して近代化に励んだ。


 そして、1866年に南の隣国で列強のオーストリア帝国と戦争-普墺戦争(1866)-が勃発した。

 現在のオーストリアの国土は北海道とほぼ同じ(若干北海道が小さい)だが、帝国時代から第一次世界大戦の終結まで国土はその4倍で、西はイタリアのベネツィアを、アドリア海に面したリエーカ、スプリット-現クロアチアの地方都市-を、東を現ウクライナ西部を、北は現チェコを、南はハンガリーからルーマニアのトランシルバニア地方を有する帝国であったが、プロイセンはこれを破った。


 普墺戦争の勝利を機に、ドイツ連邦を解体再編し、新たにプロイセン中心の『北ドイツ連邦』を誕生させた。


 ドイツ情勢に危機を抱いたのがフランスで1870年に戦争が勃発した。

 戦争はプロイセン側が有利に進め、9月のセダンの戦いでは10万人のフランス軍が降伏し、自ら陣頭指揮に立っていたフランス皇帝ナポレオン3世も捕虜となった。翌年1月にはパリを占領し、フランスは降伏した。

 対仏戦の勝利によりプロイセン国王ヴィルヘルム1世は占領下のヴェルサイユ宮殿で載冠式を行い、プロイセン王国を中心としたドイツ諸国統一国家『ドイツ帝国』の皇帝となり、列強の仲間入りを果たした。


 普仏戦争中に、一人の日本人青年がロンドンで困り果てていた。

 名を桂太郎という。

 彼は、山県有朋の直系で維新後にフランスに留学しようと意気込んで渡欧したが、上記の通りフランスは戦争中でしかも劣勢であった。桂は落胆した。

 そんな桂に声をかけたのがイギリス公使館に勤めていた桂と同じ長州出身の青木周蔵という男だった。


 「ドイツに行ってはどうだ?」

 と、青木は桂に言った。


 桂は半分やけくそでこれに従った。

 フランス語しか習わなかった桂にとってドイツの生活は大変なものとなった。しかも、官費留学ではなく私費留学だった。それでも彼はくじける事なく、ドイツ語を学び、ドイツの文化に触れ、ドイツ軍事を吸収していき、次第にドイツ式の軍事鍛練が日本に必要だと悟るようになった。 帰国後、陸軍軍人となった桂は山県にドイツ式陸軍を採用するよう説いたが、山県は難色を示し難航した。そこで桂は兒玉十三朗に目をつけ、山県を説得するよう働きかけた。

 兒玉と桂は関係が殆んどなく親しくは無かったが、知人ではあった。

 兒玉は桂から話を持ち掛けられ、二つ返事で承諾した。

 兒玉も独自の情報網から戦争の情報を入手しており、その情報量は日本にいながら普仏の情勢が手に取るように分かる程に膨大で正確だった。

 しかも兒玉は、これからの日本陸軍はドイツから倣うべきと記したレポートを作成しており、これを見た桂は驚愕した。様々な尺度から見た他国とドイツ式陸軍の比較と利点、将来の展望等と詳細な内容が盛り込まれており、桂の持つドイツの軍事知識を遥かに上回っていた。

 「お前はドイツに滞在していた事があるのか?」

 桂はこう言わざるおえなかった。


 「明治の2年の時に数日だけいた」

 と言って、全て独自のルートと独学で学んだことを話した。


 桂は、他人の意見に横槍を入れる山県が兒玉十三朗の意見だけは何の口出しもしないでそのまま受け入れる理由を少しは理解したような気がし、敵に回したら確実に負けると思い背筋が冷たくなるの感じた。


 しかし、桂のもくろみ通り、兒玉は山県の説得に成功した。だが、日本陸軍をフランス式からいきなりドイツ式に変えては日仏関係に悪影響を与える事から段階的にドイツ式に転換していく事でまとまった。

 ちなみに、桂が山県の後継者なら、兒玉十三朗は陰の黒幕という形だった。


 明治17年、山県は陸軍卿大山巌と協議し、陸軍大学校の外国人教官をドイツから招聘する事を決定し、翌18年ドイツに打診し陸軍大臣とドイツが誇る参謀本部長モルトケは人選を彼の愛弟子で参謀少佐メッケルに決定した。


 しかし、当の本人は困惑した。十数年前に自称近代化と唱える極東の片田舎の島国までわざわざ出向く必要あるのかと、その事についてモルトケは、


 「極東の片田舎まで行ってドイツ技術を示す良い機会ではないか。それに、アジア人の国とは言え優秀な人材は揃っているし、君の優遇も保証してくれる」

 と、メッケルを説得した。


 「一日だけ時間を下さい」

 と、メッケルは言って参謀本部を後にし、日本についてある事を調べた。


 モーゼルワインが日本で飲めるかどうかである。彼は、大のワイン好きでワインさえあれば何もいらないと考える程であった。折しも横浜でモーゼルワインが入手できる事をしり日本行きを決意した。


*****


 ドイツ帝国陸軍少佐のクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケルが来日したのは明治18年のことであった。

 彼が日本に来て初めに行ったことは陸軍の軍事制度を笑う事であった。


 陸軍の大部隊『鎮台』について、海外遠征能力を持たず、兵站を重視しない部隊をヨーロッパの諸国陸軍の標準部隊Division-師団-のように扱う事について、陸軍の直轄の城をヨーロッパの要塞のようにしている事について笑った。


 日本陸軍側はメッケルの意見を親身に受け入れ『臨時陸軍制度審査委員会』を組織し、陸軍改革に努た。


 陸軍を笑うメッケルであったが、一目を置く物もあった。


 『陸軍大改革論』であった。

 ある日、兒玉十三朗は山県有朋に兒玉源太郎、桂太郎、川上操六に連れられ三宅坂に立てられたヨーロッパ風のメッケルの住宅に入った。


 メッケルと兒玉十三朗は初対面するが、例によって、君が兒玉かね?と、年と顔、体格が矛盾する兒玉に戸惑った。


 「君の書いた『陸軍大改革論』を読ませてもらったが、成程これを考えるのはヨーロッパの軍人でも希であるな」

 と、メッケルの話すドイツ語を通訳が訳した。


 それを聞いて十三朗はニヤリと笑った。


 メッケルは続けて喋り、通訳が訳した。

 「君は近代軍事学に精通しているらしい。ぜひ話がしたくて呼んだのだ」


 メッケルはモーゼルワインとグラスを取りだし振る舞った。


 話は夜遅くまで続き、メッケルは日本に来て初めて痛飲した。

 十三朗の話す事に共感し、メッケルの軍事学を一つ聞いて十を理解するのでメッケルはいよいよ上機嫌となった。


 「モルトケの言っていた以上に日本には優秀な人材が大勢いる。これでは私が日本にいる必要が無いのではないか?」

 メッケルはワインを一息で口に注ぎ込んだ。


 「いいやいや、我々は理解は出来ますが日本人だけでは何も出来ません。確かに陸軍大学校に入る若造供は優秀です。しかし、頭が良いだけで戦を知らない鼻垂れ供です」

 十三朗はワインをなめて肴のチーズを一口かじってから話を続けた。


 「我々も18年前に戦を経験してそれなりの自信はついていますが、近代軍事制度についてはまだまだです。ですから『知謀神の如し』と言われるメッケル少佐が日本陸軍に必要不可欠なのです」


 十三朗の周りにいた各々も首を縦に振り相槌をうった。


 結局、メッケルとの飲み会は朝まで続き、その日は全員が二日酔いをして全滅してしまった。




 メッケルが陸軍大学校の講壇に立ったのは翌明治19年の事であった。


 メッケルは早々から専門的な軍事学については語らず、軍隊の初歩行動-操典-を話し、学生から反感を買った。

 しかし、メッケルの話す操典は学生達が陸軍士官学校で教わった操典よ正確で文句の着けようが無かった。


 その後から次第と軍事学について講習するようになり、普仏戦争になぜドイツが勝利したか、国際法と開戦の時期と攻撃について彼の持つ知識を学生達に植え込んだ。

 学生達はメッケルに愛想を込めて『渋柿ジジィ』というあだ名をつけていた。そして学生達はこれから起こる戦争の主要参謀や指揮官となって行くのであった。


 メッケルはその後も学生達に指導し、陸軍改革にも貢献し明治21(1888)年に帰国した。

 また、同年には6個鎮台が廃止され新たに海外遠征能力を持った6個の『師団』が編成され、さらに7個の独立旅団が編成され、日本各地工廠-軍直轄の軍需工場-では試作野戦砲やガトリング砲にかわる新兵器の機関銃の開発、製造が活発になっていた。

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