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if 明治興亡記  作者: 高田 昇
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第九話:海軍へ

 日本海軍は創設当初、陸軍の従属の様な存在だった。

 『鎮台』を編制した陸軍は外征よりも国内の治安維持を重視していた。万一に敵国の侵略があっても敵軍を国内で殲滅する事が基本戦略とされていたために海軍は制海権確保のための新鋭艦を購入する機会が無かった。むしろ、当時の国家財政を考えると陸海軍も列強と同水準の戦力を保持する事は不可能であった。

 海軍創設時、軍艦は小型艦6隻でトン総合計は約2400トンしかない世界最弱の海軍だった。


 海軍が拡張期に入ったのは明治15年の事だった。


 きっかけは隣国の清国にあった。

 清国は19世紀の中頃、国内でイギリスからのアヘン密入から端を発したアヘン戦争(1840~1842)、続くアロー戦争(1856~1860)に近代装備、編成の列強に敗れた。さらには、二つの対外戦争に前後して国内では洪秀全(こうしゅうぜん)率いる新興宗教団体の太平天国の反乱(1851~1864)に対して従来の軍では対応しけれない事を痛感させられた。

 こうして清国政府はヨーロッパ近代文明の技術を導入して国力増強と富国強兵を目指した洋務運動を開始した。


 清国の近代化の規模は日本を遥かに凌ぎ、軍事力も整備増強されていった。これに危機感を抱いたのが日本陸軍のトップ山県有朋だった。 山県は隣国の近代化とそれによる軍事力の拡張によっての朝鮮への影響を恐れ、『隣邦兵備略表』を明治帝に奏上し、日本の軍備拡張が始まった。


 更に、軍事拡張に油をさす事件が朝鮮で起きた。

 朝鮮国王高宗の実父、興宣大院君が当時朝鮮の政権を担っていた王妃閔妃一族に対して反乱を起こした。これにより朝鮮在住の日本人も巻き込まれ、軍事顧問に行使館員等、約十数人が殺害された。興宣大院君は政権を奪取に成功しが三日天下に終わった。反乱を鎮圧したのが清国であった。


 この事により、朝鮮政府は清国側に傾いた。日本の危機感はさらに膨大した。陸軍増強は山県有朋が発言し、海軍増強は重臣の岩倉具視が発言した。これにより海軍は、明治16年には、48隻の軍艦建造計画が建議されて実行に移された。


*****


 海軍兵学校-海軍将校育成のために明治2年に海軍操練所という名で開設された。その後、海軍兵学寮に改称されて海軍兵学校に改称された。授業ないようは英語が中心であった。教官は英国人、黒板の文字や教科書も会話も英語を使う割合が高かった。


 明治19年、築地の海軍兵学校に第17期生55名が入学した。この中に、秋山真之という松山出身の男がいた。彼は入学当初の成績は平均並みであったがその後は成績主席となり卒業の時までその座を死守した。彼の勉強方法は、教官の教え方の癖を見抜き、出題してくる問題を予想する事と過去の試験を集めて出題率の高いのを把握して徹夜をすると言う無茶苦茶なものだが彼はこうして試験で高得点を出している。


 秋山とは対照的に入学時に成績最下位の座を争う者がいた。名を兒玉十五朗(とうごろう)といい、兒玉十三朗の弟である。

 兒玉と秋山とは入学当初からウマが合いよく勉強を教えてもらっていた。


 「全く誰だば、学科や会話に英語なんぞ取り入れたんは」

 兒玉英語書きの教科書とノートと睨めっこしながら英語嫌いを常に口にする。


 「海軍は日本の海だけを縄張りにした昔のような水軍とは違い、世界の海に出ていく以上は軍艦一隻々々が国家を代表するものであって、その士官が英語を話せないのようではみっともないぞな」

 と秋山は上着のポケットから煎り豆を取り出し一粒を口にほおりこんで残りを兒玉に渡した。


 「すっかし秋山ぁ、んな(お前)はほんとに勉強の教え方がばかにうまいなぁ。おかげでわしはなんとかやっていけるわ」

 兒玉は秋山からもらった煎り豆をカリカリ音をたてながら食べた。


 「あしが、大学予備門に入ってた頃、おまい(お前)みたいに英語苦手の同郷人がいたからな、教えるのには慣れているぞな」


 「その同郷人とわしとでは、どっちが覚えがいいほうだ?」


 「兒玉の方だな。おまい(お前)は徹夜に強くてしっかりと結果を出しているからな」


 「そうか、そいつぁよかったわ」

 そう言って、また英語と睨めっこを始め毎夜徹夜をした。


 兒玉十五朗は英語こそは最終的に克服は出来なかったが、他の学科は入学後に徐々に成績を伸ばしていき、上位に昇っていった。


 日本海軍はイギリス海軍式を採用しており、駆け足をする習慣があった。海軍程時間に厳しい所はなく1秒でも早く持ち場に着く事を要求された。


 そのため海軍兵学校では毎年3月に全学年が各分隊ごとに別れて築地から飛鳥山までのマラソン大会が開催される。

 兒玉と秋山は同じ分隊で首位についていたが最後には越されてしまった。その自分達を抜いた先頭を走る相手分隊長の男の顔は長距離を走った様な顔ではなく白く青ざめていた。


 兒玉や秋山達はギョッとした。


 「よぉ、誰だばあの死人みたいな顔しとったんは?」

 兒玉は走りながら、横を走る秋山と後ろにいる同分隊のメンバーに聞いた。


 「ありゃぁ確か、一学年上の広瀬とか言ったなぁ」


 と、仲間の一人が言った。


 広瀬-本名を広瀬武夫という。豊後(大分県)岡藩竹田の生まれで、西南の役で自宅を焼失し、飛弾(岐阜県)高山に移り住み、そこの小学校を卒業し、明治18年の海軍兵学校入学まで小学校の教師を務めた。兵学校入学後は、日本柔道の総本山として名高い講堂館で柔道を学び、海軍と柔道が俺の嫁だと断言するほどであった。


 彼は我慢強い。先ほどマラソン大会で死人のように青ざめていたいたと記したが、その時に彼の左足は骨膜炎になって激痛にさらされていた。それを我慢しての完走して、しかも優勝した。


 上官が彼の異常に気付いたのはこの翌日の事であった。軍医は足を切断するか迷ったが、取り合えず様子を見ることにした。この判断が正しく、足の骨膜炎は次第に和らいだ。


 この広瀬武夫と秋山真之に兒玉十五朗は、その後ふとしたきっかけで親しくなり、下宿を共にし海軍の将来について語り合った。

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