s-1.賢い女
魔女の話です。
夜空に赤い光が伸びた時、学院の長は、図書館にいた。
入口のドアには、すでに閉館の札が掛かっている。
なかの電気は、落ちている。
館内は広かった。
背の高い窓から差し込む月光が、人工の灯のない部屋を、幽世のごとく照らしている。
書架は、一定の規則にならって林立し、石とレンガで編んだ広間を、知識の楽園にしていた。
中央のスペースに、閲覧用のテーブルがある。
そこに、彼女はいた。
「やっと眠ったわね」
ひっそりと、彼女はつぶやいた。
ながめていた本を閉ざす。
指先から魔法を放ち、彼女は資料を、然るべき棚に返す。
魔女である。
彼女は恐ろしいほどに、美しい風采をしていた。
頭髪は金色で、長い。
面はほっそりとした、卵型。
目は伏せがちで、豊かなまつ毛が、表情に影を落としている。
瞳の色は、青い。
魔女の名前は、まるで、虹彩の色を由来とするかのような響きを持っていた。
だが、彼女の妹の名は、眼の色とはかけ離れた名前だったので、瞳と名の一致は、ただの偶然なのだろう、と、魔女は思うようにしていた。
背は、平均よりも少し高い。
浅黄色のドレスと、冬用の黒衣を身に着けていた。
薄闇のなかで、明度を落としたその服装は、彼女特有の静謐さをして、『喪に服す』という言葉を連想させる。
魔女の名前は、史貴 葵。
いなくなった幼い賢者、史貴 茜の、実の姉である。
年齢は二十歳。
学院のなかでは、「弱輩者」とささやかれることが多かったが、彼女が持つ地位を考えれば、受けざるを得ない評価でもあった。
彼女は学院の全権を握る管理者であり、統治者である。
『学院長』。
その肩書は、無名の魔術師が手に入れるには、いかに指環のちからをもってしても、巨きすぎた。
椅子から、魔女は立ちあがる。
並んだ机からはずれた場所に、談話用のソファがあった。
一匹の犬が、やわらかな座席の上で、眠っている。小型の柴犬である。
便宜上、魔女は『豆柴』とこの犬を分類していた。
ただ、魔法によって時の止まったこの犬を、本当にそう呼んでよいのかは、迷うところだった。
魔術師と契約した使い魔は、その時点で、肉体的な発達が停止する。
彼らが人間に化けた時のすがたは、精神に見合った年齢をとっていた。
葵の使い魔は、十七歳ほどの少女のすがたを取り、目のまえの子犬は、それよりひとつかふたつ、年上の女性になる。
妹の置き土産たる犬を、魔女はボンヤリとながめた。
彼女が眠ったら、つれて帰るのが日課だった。
犬は、魔女の家に住みつきたがらなかった。
ひょこりと、魔女のうしろから、うさぎの耳がゆれる。
「意固地だなー、チャコは。なんでご主人の家に帰りたがらないんだろ。ここは寒いよ」
少女は、魔女の肩口から犬をのぞきこんだ。
雪色の髪を、動きやすい長さに切った少女である。
長い耳を頭に生やした彼女の名前は、シロ。
史貴 葵の使い魔で、帰宅をしぶるチャコが寝入るのを、主人ともども、待っていた。
魔女は、寝入った犬を抱きあげる。
「匂いが嫌なんですって」
「におい?」
くんくんと、シロは魔女の近くで空気をかいだ。
使い魔には、魂を識別する嗅覚がそなわっている。
精神から発せられる匂いは、その個体ごとにちがったが、兄弟姉妹という、同じ腹から生まれた血縁者においては、強い類似性があった。
シロの感じた匂いは、目のまえの主人のものである。
それは、彼女の妹のものと、酷似していた。
「ご主人のにおいが、茜のと似てるから、いやってこと?」
「ええ」
静かに、魔女はエントランスに向かって、歩きだした。
使い魔に問う。
「主がいないのって、そんなに苦しいものかしら」
とことこ、シロは魔女のうしろについていく。
「そりゃ、いやですよ。ご主人さまってのは、私らにとっては、存在意義そのものなんですから」
ふたりは図書館を出た。
使い魔の成長が止まるのは、主人たる魔術師に、その全存在をささげるためである。
寿命を消して、生涯のすべてを、契約者たる魔術師に尽くす。
彼ら彼女らは、飼い主のために生き、飼い主のために死ぬ。
使い魔が生きる理由は、それだけである。
図書館の扉に、シロは鍵をかけた。
イタズラもののピクシーを弾くちからを宿した、錠前である。
「そんじゃ、はやく家に帰りましょうか。おなか減った~」
「そうね。空も、変な色だったし」
森のかなたを、魔女は見た。
先ほど走った閃光は、すでに収まっている。
「和泉たちが、またアホなことしてるんだと思いますよ。……屋敷がふっ飛んでなきゃいいけど」
「そうしたら、今より良いのに建て替えてもらいましょう」
「床暖房を、所望します」
鍵をポケットに入れて、シロは魔女を追いかけた。
魔女は、土を踏みかためただけの通路を歩いて、森に向かっていく。
ふたりの住まいは、塔のすがたをした図書館から、森を割いて造った中庭を、またいだ先にあった。
外は、夕方より温度がぬけている。
通りすぎる風が、肌を刺す。
庭園を抜け、魔女とウサギは、住みなれた屋敷を目指した。
家のまえに、血色の光がまたたいている。
「なんでしょう?」
うしろから、シロは魔女に問いかけた。
魔女は答えずに、進んでいく。
屋敷に近づくにつれ、土の路面が、徐々に荒れていく。
敷地をかこう塀のまえに、爆発の跡があった。円形に地面がえぐれ、中心部分が、黒く焦げている。
主人のまえに出て、シロは、魔法陣をのぞきこんだ。
「なんか、やらかしたって感じ? でも、今日はあいつ、いないんですね」
きょろりと、赤い目であたりを見まわす。
暗がりのなかには、人影も気配もない。シロは不思議に思った。
魔法の犯人が、和泉という若い教授と、その弟子であることは明白だった。
場所こそは伝えられていなかったが、彼女は、彼らが今日、実験をおこなうことを知っていた。
なによりも、その師弟には前科がある。
しかし、教員であり、魔術の監督役である和泉は、処分の旨を受けるまで居残る、律儀な性分であるはずだった。
「めんどくさくなったのかな」
そ~っと、シロは魔女の顔色をうかがった。
自らの犯した行為を、素知らぬ顔をして放置する人間を、彼女は嫌う。
「えーと、葵さま?」
おそるおそる、シロは魔女の名前を呼んだ。
魔女は、腕のなかの犬を、少女にあずける。
荒れた大地のまんなかに、ひとつの亀裂が、浮いていた。
それは、【迷宮】と呼ばれる、危険区域への入り口だった。
何年ものあいだ消失していたが、なくなった時と同様に、地獄への門は、唐突として現われた。
「奇妙なことも、あるものね」
空中にできた破れ目に、魔女は近づいてく。シロは主人を、目で追った。
「は、入るんですか? でも、もし閉じちゃったら……」
ぴたりと、葵は足を止めた。使い魔の少女を振りかえる。
「あなたは待っていなさいね。ここでじゃなくて、まぁ、家のなかにでも入って」
縦長の洞が、緋色の火花を散らす。
裂け目の幅は、細い。
シロは、魔女に反駁する。
「帰ってこれる目途が立ってからにしてくださいよ。いやですよ、私。ご主人がいなくなるの」
魔女は、シロの言わんとするところを理解しているつもりでいた。
ただ、気持ちはわからなかった。
使い魔は、自分自身のなかに行動原理を持たない。
だれかを自らの支配者に置き、命令があって、はじめて動くことができる、忠実な木偶人形。
仕えるべき主人を失った彼女たちは、からっぽの心をかかえて、永久に近い命を、ひとりで生きていく宿命を負う。
契約者たる魔術師を失ったのち、多くの使い魔は、自害という末路をたどる。
それは種族的な、反射行動とも呼べる、自然な選択だった。
魔女はシロに、向きなおる。
「あなたは主人が死んだら辛いのかもしれないけれどね、シロ。私は、こういう風に考えるの」
赤いひずみから、煌々と斑の空気がもれる。
女の青い瞳が、血色の輝きをまとう。
「私が死んだら、あなたは自由よ」
葵は、シロに微笑んだ。
緋色の洞に、細い身をおどらせる。
彼女はそうして、迷宮のどこかにいるであろう、妹を探しに行った。
ぼうぜんと、シロは立ち尽くす。
我知らず、犬を抱く手にちからを込める。
裂け目は、閉じた。
読んで下さり、ありがとうございました。
作中の矛盾等については、別の機会を設けて、補完・修正する予定です。
ご不便をおかけして、申し訳ありません。