第8話 『朝』
虹色の扉を通り抜けた先には真っ黒な空間が広がっていた。そして正面には入って来たものと全く同じ虹色の扉が浮いている。鈴と托矢は空中を蹴って正面に浮く二枚目の扉まで跳び、その勢いで扉を押し開けて外に飛び出した。
扉を通る瞬間、光で視界が真っ白に染まる。そして地に足がつき、鈴が周囲を見回すと、降り立った先は林の中を通る細い道、その隣に托矢の姿は無かった。
しかし、ここまでは二人の想定内だ。そう、ここまでは。
カードは使用者のイメージに準じて働く。鈴と托矢のイメージが異なれば、扉の向こうの景色が違っていてもおかしくはない。むしろ、原則通りと言っていいかもしれない。そゆなれば必然的に違う場所に出るだろう。
寂しくはなるが、鈴はひとまず親友とは別れ、自分のすべきことに集中することにした。
改めて辺りを見渡すと、林の中はまだ薄暗く、ひっそりとしている。ふと手近な草木を見てみると、露に濡れていた。きっと早朝なのだろう。何となく深呼吸をしてみると、冷たく清々しい空気で肺が満たされ、全身が浄化されるように震えた。
だが、あまり立ち止まっている訳にもいかない。道をどちらに進むか一瞬だけ考え、微妙に高くなっている方へと歩き始めた。高い位置から遠くを見る事が出来れば付近の地理を把握でき、そうなればこれからの行動もおのずと決まる。
どんな場所に来ても観察と考察から行動を起こすのが彼らしい。
しばらくその道を歩いていると林を抜けた。そこはかなり高い崖になっており、遥か遠くの景色までもが見渡せる。
眼下に広がる青色の湖は朝日に照らされて輝き、その奥に広がる広大な平原には街が小さく見て取れる。更に遠くの山脈の上空では、相当に大きいと思われるドラゴン達が悠々と飛び、空の彼方には島が浮かぶ。
その全てが本当に美しく瞳に映り、思わず胸が一杯になった。
他人の力や偶然ではなく、自分達の努力で辿り着いた。それこそがこれほどの感動をもたらした何よりの要因だろう。
そこに吹いた風が髪を撫で服をはためかせる。それはまるで、この世界そのものに歓迎してもらっているようだった。
いつの間にか朝を迎えた異世界の空気に包まれながら、鈴はその絶景を前に立ち尽くすばかりだった。
どれ位の間そうしていたのだろう。気がつけば随分と明るくなっていて、林の中の鳥たちのさえずりで、辺りは少し賑やかになってきている。
鈴は最後にもう一度美しい山々を望み、まずは街を目指して、湖のほとりへと続く崖沿いの道へと歩を進めた。
程なくして湖畔までまでくると、バインダーを開いて一枚のカードを取り出す。カード名は「操作」生物以外のあらゆる物体を、それが失われるまで自由に操作できるというカードだ。鈴はそれを手に持ち、小さな声で「発動」と呟くと、カードを湖に投げ入れた。
そしてもう一枚、思い出したように「補正」というカードを取り出して唱える。
「発動。この世界の公用語を日本語に補正」
そうすると、カードは光となって手の中から霧消する。これで鈴の持っている残りのカードは一枚だけになった。
異世界に行くにあたって鈴と托矢が最も悩んだ事、その一つがカードの異世界への持ち込みである。使い方によっては、チートとも言える程の効力を発揮するカード、持っていき過ぎれば工夫や努力を忘れて本末転倒。
しかし、一切のカードを持たず、食料と水に加えてせいぜい包丁と金属バットあたりの武器で異世界に来ようものなら開幕即死亡がほぼ確実である。
言葉の通じない外国に無一文で飛び出す行為に等しい。都会や草原に出れるならまだしも、広大な砂漠か深い森林の奥地にでも出ようものなら完全に詰みである。
だが、カードは使用者のイメージで効果を発揮する。ならばカードを使うときに、異世界のイメージを、当然のことのように日本語が話され、危険な地域もほとんど無く、大して強い魔物もいない世界だと思い込めばいいのではないか。
そう考えたこともあったが、それはつまりそうでない可能性も考えた事と同義である。
そもそも何も考えない能天気なら話は別なので、この世界やカードというものは、ある意味馬鹿に優しいと言えるかもしれない。
結局、二人はそれぞれ三枚ずつ、カードを異世界に持ち込むことしたのだった。
さて、鈴が湖に沿って歩いていると、少し先に青くて丸い物体がポヨンポヨンと跳ねているのが見えた。まあ、ほぼ確実にスライムか、それに類するものだろう。試しに数メートルの位置まで近づいてみてもこちらを気にする様子が無いので、とりあえずよく観察してみる。
少しつぶれた球形に小さな目が二つ、全身が薄く粘液のようなもので包まれていて、スライムが跳ねた土の上は少し湿っている。しかし、スライム自身の体には一切の土が着いていないのが不可思議で異世界らしい。
鈴はどうしたものかと思案し、とりあえず蹴りを一発お見舞いする。蹴る側も蹴られる側も痛くはなさそうだし、問題無いだろう。実際に蹴った感触も予想通りで、吹き飛ばされたスライムは近くの木にぶつかり、持ち前の弾性を発揮して跳ね返った。
地面に数回バウンドしたスライムは、今度は向こうから襲い掛かってくる。パッシブなモンスターでも、攻撃されれば反撃はするようだ。しかし所詮はただの体当たり、速度も速いとは言えないので、躱すこともいなすことも容易にできるが、打撃は全く効果がない。
隙を見て何度か蹴ったりもしたが、どうにも効果は薄く、とてもダメージが入っているようには思えない。
埒が明かないので、鈴は仕方なく次の手に打って出た。
スライムから少し距離を取り、まずは短刀を頭の中に思い浮かべる。次に手を前に差し出して目を閉じ、湖の水を手の中へと収めるイメージを固めて目を見開く。
次の瞬間、大きく踏み込んだ鈴によってスライムは真っ二つにされていた。微笑む彼の手には氷でできた短刀が握られており、それに両断されたスライムの方はちょうど光の粒子となって消えるところだった。
一戦終えて満足気に一息つくと、鈴は左手に持っていた氷の短刀を軽く投げ、それを文字通り空気に溶かして消した。そして手の痛みに気が付く。改めて見ると両手共、若干赤くなっている。片手は軽い霜焼けだとして、もう一方の手はなぜだろう?
そう思って先程の戦いを回想してみると、一つ思い当たる節がある。これは多分スライムの体当たりを素手でいなした時に負った傷だ。スライムの粘液に弱い毒性があると仮定すると辻褄が合う。
どうやら初戦から反省すべき点は少なくないようだ。
スライムの毒が酸性なのかアルカリ性なのか、それとも全く別のものかは知らないが、鈴は手を洗うことにした。
そこで湖に向かおうとし、やめる。代わりに少し集中して空中を見つめると、そこに蛇口でもあるかのようにきれいな水が流れ出す。
鈴は手を洗いながら「向こうの世界でよく考えた甲斐があった」とひとりごち、洗い終えてようやくスライムの落としたものに気が付いた。
鈴はその後もひたすら魔物を倒しつつ一本道を進んでゆく。魔物にはかなり多くの種類がいるらしく、色々なものと遭遇した。
ゴブリン、トレント、オーク、更には実に美味しそうな巨大兎まで。鈴はそれらを、剣、刀、斧、槍、槌、鎌など多種多様な氷の武器で倒していく。倒すと、それぞれ様々な物を落とした。
しかし、どうやってもカードの効力による操作で、敵に直接氷を当てることは出来なかった。
本当は昨日の内に更新する予定だったんですけど、次話投稿ページでほぼ書き上げた時に何の誤作動か別ページに飛んでしまい、書いた文が消えて傷心してました。(ただのアホですのでお気になさらず)