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藤色のくじら

作者: 朝日奈ふみ

 向かいのビルの隙間から、藤色のくじらが悠々と、空を横切っていくのが見えた。一回、二回、三回、左耳から流れる呼び出し音の数を数えながら、外の景色を眺める。四回、五回、六回。七回目のコール音の途中で電話を切った。

 知らない県の、知らない地域に私は電話をかける。今日も、いい天気。太陽がぽかぽかして、うららかな、土ようびの午後。私の右手には個人情報のリスト、左手には白い携帯電話。ねぇ、今、何をしているのかな。何を考えているのかな。携帯電話のキーを押して、私は電話をかける。今度はちゃんと出てくれるかな。呼び出し音が、一回、二回。頭の中で響くバグダッド・カフェのCallimg You に合わせて、藤色のくじらが空を泳ぐ。とけいの長針は八の位置にあって、休憩がおわってから、十分ほどたったことをしめしていた。

 もしもし、お電話です。今日は気持のいいお天気ですよ。

 呼び出し音が、三回、四回。電話の向こうで、受話器を上げる音がした。

きた。私はちいさく息を吸い込む。

――はい、佐藤ですが。

 電話に出たのは、張りのある女の人の声。

「もしもし、お忙しいところ、すみません」

 声が聞こえない。沈黙の後に、がちゃりという音がした。耳からほんの少し離した受話器の向こうから聞こえる無機質な音を、ディスプレイの裏に当てた人差し指が感じている。通話時間、十秒。これも、また、だめ。新しいリストに書かれた電話番号の、下四桁は私の生まれた年になっていて、一年、二年と続いていく。この年、私は小学四年生。おとうとがうまれた年、中学三年生、平凡に高校受験をして、高校一年生、私は生まれてはじめての恋をして、そして去年、高校を卒業して専門学校に入った。二十年足らずの人生だから、あっという間に今年が終わって、下四桁が未来になった。リストの終わりはちょうど私の生まれた年から百年後になっていて、きっとこの電話を全部かけたとしても誰も私の話なんて聞いてくれないんだろう、と思った。

 コール音、一回、二回、三回。

――もしもし。

 電話口の優しそうなその声も、私が名前を告げた途端に失望の色をかくさない。受話器をおく音がひびくもの、きっと気のせいなんかじゃない。迷惑な電話をかけてきた知らない私は、きっと、みんなを騙すわるい人。だから、傷つけてもいい人。騙しているわけじゃない。嘘だってついていない。ただ、もめんの糸も、織り方しだいで絹のようになめらかな、しゅすの布地にできるように、ことばの綾を変えるというか、私たちがやっているのは、要するにそういうことなのだ。

 呼び出し音、一回、二回。がちゃりと受話器が上がる音が、細いひかりのように私の心に差し込んだ。

「もしもし?」

 そう言いかけた声は、自動音声の声に遮られる。

――こちらのお電話は、迷惑電話防止のために、録音されます。

 急に頭の中の電気を消されたように、目の前がまっくらになった。

 迷惑電話、ですって。

 私がいったい、何をしたっていうの。けれど、落とした視線の先にあるスクリプトはどう見ても迷惑電話そのものでしかなくて、私はそっと目を逸らした。

 くじらのしっぽが、ビルの陰からのぞいている。

 こんなことをして、いったい誰がしあわせになれるのだろう。うつろな目で見上げた視線の先には、机に向かって電話をかけているたくさんの背中がある。おじさんも、おばさんも、若者たちもみんな、申し合わせたようにほんの少し背中を丸めて、受話器に向かって話し続ける。

 あの藤色のくじらに気が付いた人は、いるのかしら。とけいの長針は、十の位置からじりじりとうごかない。三月の晴れた午後に、日差しはこんなにもあたたかいのに、私は都会のビルの片隅で、誰も喜ばない電話をかけている。まぼろしの右手が、かたちのない千円札を、そっと握りしめる。だれもしあわせになれないけれど、誰も傷つけないこの仕事は、ひとえに私が千円の時給をもらうことのためにある。

 前の席に座っていた、こやまみたいなおばさんがのっそりと立ち上がった。どうやら契約がとれたらしい。ホワイトボードにおばさんの名前が書かれて、事務所はほんのすこし活気づく。

話していることはおなじなのに、おばさんは契約がとれて、私はひとつもとることができない。私のどこが、いけないのだろう。電話が切れて、左手の人差し指がふるえるたびに、目の前の景色が、少しずつ色をうしなっていく。心は海にぽんと投げ込まれた、小さな石のように、かたくなって、音も光もない海の中を、どこまでも沈んでいくような気がした。リストにならんだ住所の欄にひたすら同じ漢字がなみのようにうねって見える。

 もしかして、空があんまり青いから、あのくじらは、うみとまちがえてやってきたのかしら。

 ゲームのコマンドでも入力するみたいに、電話番号の番号を押す。

 なんて、ね。

 窓の外のくじらは、とてもやさしい目をしている。だからといって私をたすけてはくれない。なり始めた携帯電話を、そっと耳におしあてる。

はやくこの時間がおわればいいのに。とけいの長針は、やっと五にむかってあるきだした。あともう少しで、のこり二十分になる。あとすこしだ。

 コール音、五回、六回。

――もしもし?

 電話口に出たのは、しゃがれ声のおばあさん。

「もしもし。お忙しいところ、すみません。お電話口は、奥さまですか……」

――わたし、ばばだから、わかりません。なぁんにもわかりません。

 私を遮って、おばあさんは駄々をこねるように繰り返す。どうやら耳も遠いようだ。

「あの、お電話、代わっていただいても、よろしいで……」

――お電話代わりました。

 そう言って出たのは、はきはきとした壮年の男性のようだった。私の話に、適度に相槌を打ちながら聞いてくれる。その日、私は初めて、核心にいたるまで話を進めることができた。これは、もしかして脈があるのかもしれない。心臓が水面下で脈うっている。声が走り出さないようにゆっくりと呼吸をする。お願い、私についてきて、いい子、いい子。そう、怪しいものじゃないからね、怖がらなくていいんだからね。

 用意された台詞が終わりに近づくにつれて、私の心臓は張り裂けそうに高鳴った。最後だ。これで、決まる。

「では、ご検討いただけるということで、よろしいですかね」

 祈るようにこぼれ落ちた、その声は微かに震えていた。

――いいえ、結構です。うちはそういうの、考えていませんので。

 一瞬、ことばを失った。必死の説得もむなしく、電話は切れてしまった。通話時間十三分の画面が、一瞬うつし出されて、元の画面に戻った。ディスプレイの大きな時計の秒針が十二の位置に重なるまで、私は茫然と画面を見つめていた。

 断るくらいなら、初めから聞かないでほしかった。期待なんて、させないでほしかった。けれど、次の瞬間、私の指は次の番号を押していた。感情がいつのまにかぬけ落ちていたみたいだった。私は電話をかけつづける。それが、私の仕事。リストはたまたま続きになっていて、下四桁の番号は百年、二百年と私の想像もできないような未来が、どこまでも続いていた。そんなことが面白くて、すこしだけ笑った。

 コール音、一回、二回。あと十分を切った。もうすぐ、一時間がおわる。いちにちの大半を、はやくおわればいいのにと思いながら過ごしているのは不毛だな、とふと思った。

 藤色のくじらは、夕やみに紛れていつのまにか見えなくなっていた。

 コール音、三回、四回、五回……。

――もしもし?

 少しだけ息を吸い込んで、笑顔をつくった。

「もしもし、お忙しいところすみません、わたくし、OO電力の電気料金の削減のご提案をしております、株式会社××の石原と申します。あのぅ、お宅のおうちの電気料金がですねぇ、お昼間の電気料金が、深夜よりも高くなっているのは、ご存知ですか。今回そちらの電気料金をなくせる、新プランのご案内でして、屋根の上に乗せる、ソーラーパネルを……」


(終)


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