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なぜ彼だったのだろう?
最初にそうだとわかってから思ったのは、それだった。
いまハッキリとわかるのは、逃げ始めが彼だったからだろう。
わたしは彼から逃げた。
それがすべての始まりだったのだ。
このことをようやく理解したとき、すでにわたしは高校を卒業して、大学生になっていた。それまでずっとわたしは逃げていた。なあなあに高校時代を過ごし、なんとなく受けた大学受験で落ちて、浪人を経てからとりあえず妥協した大学に入った。
どれも逃げだった。夢も希望もない、ただ自分のしたいようにしたいと言って、何もしないだけの逃避にすぎなかった。
そんなときに初めてあの言葉の意味に気がついた。
逃げられると思うなよ。
呪いだったのだ。
そう結論づけた。が、途端にこわくなった。恨まれていたのかもしれない。気づこうともしなかったその心をうちを、見透かされたような気がして。
呪いはわたしの鼓膜にこびり付いて、ことあるごとにわたしを脅かした。ちがう、わたしは悪くない。何もしてない。ちがう、何もしてないから恨まれてるんじゃないの。ちがう、ちがう、ちがう……
逃げたかった。
でも逃げられなかった。
どこに逃げれば良かったのだろう。
それこそ『妖精の王国』に行けば良かったのだろうか?
でも、わたしにはムリだった。
印がなかった。そこに入る資格を、最初から持ってなかったのだから。
破れかぶれになって、わたしはリストカットなんて始めていた。とうとう逃げ場所がどこかわからなくなっていた。無力な自分がただただ忌まわしくて、自分でそれを罰することが快感になっていた。
傷が増えるたび、癒しようのない苦しみが増えた。それは中毒のように絶え間なくわたしを襲ってきて、もう義務のように自分を傷つけることに専念していた。あるいは、手首に付けた傷がやがて印になることを望んでいたのかもしれない。
転機が訪れたのは、成人式の日だった。
気晴らしになるからいってらっしゃい、と母に勧められた。おばあちゃんに振袖を着付けを教わって、行くことにした。何もしないよりかはましだと思ったからだ。
そこで再会した小学校の同級生たちと、懐かしい、懐かしい、とわんきゃん話し合った。あんなことがあった、こんなことがあった、と思い出を語り合った。
そんなときだった。思い出話のなかに、割り込むように彼のことを尋ねた青年がいた。そのヒトは中学は進学校に行って、全然会っていなかったけど、どことなく思い出に引っかかる顔をしていたのでかろうじて同級生だったとわかる。
「ねえ、──って覚えてる?」
「えー、何そいつ。覚えてないわ」
「ごめんねー」
「中学の同級生と間違えてない?」
茶化したり、脇道に逸れてゆく会話を尻目に、わたしは気まずくなって一人で黙り込む。雰囲気に溶け込んで、逃げた。また逃げた。知らないフリをして、何もなかったことにして。
「ぼくの記憶間違いだったよ、ごめんね」
「お家が厳しかったんだもんね」
「あー、そっかそっか」
そういう言葉で上塗りして、あったことを消し去ろうとしている。辛いことや嫌なことを忘れて、思い出から振り分けようとする。苦しいことは笑い飛ばして、楽しいことで上書きをしていって。
本当に、それでいいの?
わたしはあの言葉の意味を、ようやくわかった気がした。