一年後の初夏
私がいけなかったのだ。
気になる人の手をずっと見てしまったから。それでもあの人は気楽に話すことを止めないでいてくれた。なんてありがたいことだろう。
その紙に好かれる普通の手で、私を握ることはしないけど、いつか私も気楽に手を伸ばし合い、握れる関係になりたい。
その男とは今も本屋で会っている。
本屋なのに出入口で本の貸し借りなんてして、怪しまれるんじゃないかと言ったら、その人は笑った。
「大丈夫、もう売られてない本だから」
そういう問題ではない気がしたけれど、あの温かさは何だろう。滲み出ているものが違う気がする。
今日も借りてしまったその本を大事にバッグから取り出してパラパラと見てみる。
古い本だ。返すのはいつでも良いと言ってくれた彼の言葉通り、長い話のようである。そのついでのようにぱらっと一枚の紙切れが落ちて来た。この本に挟まれていたらしい。
大塚の字ではない。鉛筆でさらっと書かれている。題名は『空は続く』らしい。
『今日と同じ空は明日にはない。だから僕は撮り続ける。この空を見たと忘れないために。今日という日を生きていても同じ所、同じ方向にいない限り同じ空を見る事はない。決して共有できない景色。だから、僕は今日も撮る。この空を見て欲しいから。上を向けば空がある。その時ばかりは何も考えなくて良い。ただずっと自分の好きな色、形を探せば良い。そして、見つけたら撮れば良い。ああでもない、こうでもないと言い続けたって構わない。自分が納得する空を撮れば良い。空は続く、この日が続くまで。僕も続いていく、この時が続くまで』
長い……。それが文月の感想だった。
「これ、大塚さんに言った方が良いよね」
手に意識をしてはいけないが、水と思わしきものはまだ出ていない。今がチャンスだ。大塚のように一気読みは出来ないが、読める所まで頑張ろう。
文月はその本を読み始めた。
後日、大塚と会った文月は言った。
「ああ、それね。祖父の友人だった詩人希望の人が作って、祖父に評価をお願いしたんだけど、何故だかそのままあの本の栞代わりになっちゃってるんだよね」
「その人はどうなったんですか?」
「ああ。もう亡くなってるよ。結局、才能なくて普通に働いたって聞いたな」
やっぱり、大塚さんも気付いていたんだ……と思うだけで嬉しくなる。
「あの詩だかよく分からないけど、良いなって思うんだ」
どこが? とは言えない。文月は黙ったまま次を待つ。
「最初の方のさ、『今日という日を生きていても同じ所、同じ方向にいない限り同じ空を見る事はない。決して共有できない景色。だから、僕は今日も撮る。この空を見て欲しいから』って、この空にも言えることだと思って」
大塚が見上げる夏の青空を文月も一緒に見た。
「こうやっててもどこを見ているのかなんて、その人の顔見なきゃ分かんないんだから、それだったらカメラや携帯で撮ってしまって見せた方が早いでしょ」
「そういう意味なんですか?」
「違うけど。ただ、共有するなら本当に同じもので感じたい、好きな人なら尚更ね」
こちらを見ている気がしたが、見れなかった。
「夏といえば覚えてる? 文月ちゃんに初めて会ったのもこんな夏の日だったな」
ああ、と言い掛けて止めた。
私があの時、『最近、気になる人を発見した』と思っていたのは間違いだったと気付いたからだ。
その前に一回だけ会っていた。その時は本当に他人であり、こうなるとは思ってもみなかった。
今も憧れるその手を使って話す彼を見、文月は思った。
(あの児童図書館から始まっていたんだ……、もうないけど)
梅雨明けの暑い夏、蝉の声が一つ聞こえて来た。目的もなく大塚と一緒に歩道を歩くのは初めてだった。