残念な人
その本屋で新たなサボテンの本を買おうとしていた文月は大塚に会った。
「あ、大塚さん、こんにちは」
「こんにちは、育ててるの? サボテン」
「はい。私の友達、花屋で働いているんですけど、そこで買って」
「ふうん……」
あまり興味を持っていない。
失敗したか……、文月は撃沈しそうだった。
「俺はね、料理の本が気になる」
「へえ……」
料理もしちゃうんだ……、文月の顔が何とも言えない気落ちした表情になった。
「俺はそんなに器用じゃないよ。本だってあちらこちら読まない。一つの話を終えるまでちゃんと他のは読まないようにしてる」
「そうなんですか。私はあちらこちら、読んじゃいますけど」
深く考えていない。それがそのままの意味だと思っている。
それで良い気がした、今は。
「買って来るんでしょ?」
「はい、買って来ますね」
にっこりと笑って文月はレジに並んだ。
*
警察署に用がある時、それは普通の人なら限られている。
今日はたまたま運転免許証の更新に来ていた目黒は、たまたま大塚を見つけた。
(なるほど、彼も免許の更新ですか)
平日の昼間から会えるなんてラッキーだ。この講習を終えるのは大体同じ時間、後から来て、前の席に座った大塚を待つには都合が良い。
目黒は先に終わると待った。作戦は簡単だ。この手に持つ紙を大塚の前に落とせば良い。
(来た)
彼女はひらっと手から一枚の紙を滑らせた。
「あら、ごめんなさい」
警察署から出て来た大塚の足元にその紙が落ちた。
「落とし物、拾ってもらえます?」
彼女がわざとらしく落としたのは何かのチラシ、花屋のチラシだ。
「警察署の前で何を? っていう顔しますね。ただの免許の更新ですよ。もう終わりましたが、仕事熱心な人にいつも持ち歩くようにと言われた物がするっと落ちてしまって」
彼女はとても綺麗だった。文月が素朴な感じの普通の女性なら、彼女は今時の流行を全て取り入れた魅力ある二十代の普通の女性だった。文月より数センチ、背が高いだけなのに。
「あの、じろじろと何ですか?」
「いえ、別に」
チラシを拾って渡し、それで大塚は帰ろうとした。
「あの! お話しませんか? きっと、食い付きますから」
「変な事を言うね、君は」
「あなたほどじゃないですよ」
彼女はとてもいたずらっぽく笑った。何か知ってるような感じだ。
「で、何の話をしましょうか」
彼女の行きたい喫茶店に車二台で来て、頼んだコーヒーを飲んで彼女の喋りたいことを聞くことにした。
「そうだ! 私の友人なんですけどね。手がとても普通じゃないんです。ほら、こんな風に、水滴が溜まっちゃうんですよ。おかしいでしょ?」
彼女はアイスレモンティーのコップに出来た水滴を指でなぞった。なまめかしい手付きだ。
「何が言いたいの?」
大塚の質問に目黒は答えた。
「メールしません? そんなに格好良いなら女の人に困ってなさそうですけど、楽しくなると思いますよ」
「どうして?」
彼の今の顔がおもしろい。
「だって、したくありません? 好きな人とメール。まあ、私は電話派ですけど」
彼女はそう言って、アイスレモンティーを一口、二口、ストローで飲んだ。
「結構な話だね」
「そうでしょうか?」
彼女はまだ言う気だ。
「私、こう見えて文月の友達なんですよ、大塚さん」
きっとそうだろうと思った。
「私、頼まれませんけど、したいなって思うんです」
そんな風な目ではなかった。
「君がしたい話ではないだろ?」
「そうですね、でも、したいんです」
彼女の言葉を聞いて思った。これは挑戦状だ。
「君の名前は?」
「目黒祥子です」
さらっと言う。
「大塚さん、私に教えてくれませんか? 変な風にはしませんから」
それは本当のようだ。この声でよく分かる。本当に一生懸命になってる人の声だ。でも素直に教えるのは癪に障る。大塚は少し考えた振りをして言った。
「目黒さんは俺じゃなくてもモテるから良いけど、文月ちゃんは俺じゃないと駄目っぽいから……、教えるよ」
そう言うと大塚は目黒が差し出したボールペンを使って、花屋のチラシの裏に書き始めた。
「ありがとうございます!」
鼻から自然に溜め息が少し出て来た。でも、彼女には気付かれていない。
「君に教えたんじゃないからね」
「分かってます。ちゃんと文月に届けますから。まあ、少し気長に待っててもらえませんか? 何分、全てにおいて初めてなので」
君と違ってね……、などと大塚は言わなかった。
「分かったよ、君が脅迫者だということは覚えておくよ」
「でも、大した風でもなさそうでしたよね、大塚さん。大塚さんだって慣れているんでしょう?」
目黒のこの問いには戸惑った。
「何でそんな事を言うのかな?」
帰ろうと思っていた気持ちが少し萎えた。
「だって、そんな顔をしてましたよ。文月と違って、事件にしちゃいます?」
彼女の顔がとても小悪魔のように見えた。普通の男性なら天使ように見えるはずだが。
「君は知ってるの? そういう性格」
「はい、私はたった一人の文月の為に何でもやる女ですから」
彼女の言い分は真っ当で、この先、友人が路頭に迷わない為の布石のように思えた。
「君は知り過ぎてる、事件にはしないよ」
大塚はそれだけ言うとその喫茶店を出た。
きっと、彼女はこう思っているだろう。
お互い、会ったって何もないなら、こうして掻き回した方が楽しくなると。
それに乗っかる自分も自分だが、彼女の分のお会計はしなかった。
それも計算の内で、メールよりも先に、会ってしまったら言わなくてはならない。
友達は元気か、と。