始動の時
夕日が縦に赤く長い光を窓から差し込んできた頃、イーヴァルアイが戻って来た。
「ひとまず……終わった」
そう言って前回と同じく崩れ落ちるイーヴァルアイをヴァイロンは抱きとめる。
「しっかりしろ」
ヴァイロンの声に薄く目を開けたがすぐに水色の瞳は閉じられ力を失った体は人形のようにヴァイロンの腕の中に身を委ねられた。
「ヴァイロン様、後はわたしが」
手を差し出すラドビアスにヴァイロンは首を振る。
「わたしが連れて行く」
「はあ」
――仕方ないですね。 ラドビアスは小さく呟く。
「ではお願いします」
ラドビアスは扉を開けてイーヴァルアイを抱いたヴァイロンを通すと、先に歩いて寝台のある部屋の戸を開いて待っていた。 主に関することで完全には手を引くことはしないラドビアスである。 寝台に寝かされたイーヴァルアイはあまりに静かで。 何度もヴァイロンは口元に手をやって息をしているか確かめたくらいだ。 血の気の無い蒼白な顔は表情のひとつも写しはしない。
結局、イーヴァルアイはその後三日も寝たきりでヴァイロンは寝台にずっと付き添っていた。 朝方うとうとしていたヴァイロンは肩を揺すられて、浅い夢から目を覚ました。
「何をしている」
びっくりしたようにイーヴァルアイが眉を上げてヴァイロンを見ている。
「起きるまでついていようと思って」
ヴァイロンの素直な応えに戸惑いながらイーヴァルアイがあたる相手を求めて後ろに控えているラドビアスを見た。
「ラドビアス、おまえ何だってヴァイロンに僕のようなまねをさせるんだっ」
「わたしがラドビアスに頼んだんだ、彼は悪くない。わたしがそうしたかったんだ」
ラドビアスに鋭い声をかけるイーヴァルアイにヴァイロンが静かに言うとイーヴァルアイを見つめる。
「何もできないから。これぐらいさせてくれないか」
「な、何を言って……」
何かを言いかけてイーヴァルアイは口を閉じてぷいと横を向いた。
「顔色も戻ってわたしはうれしい」
「うっ」
イーヴァルアイの顔が引きつり、助けを求めるようにラドビアスを見る。
「わたしがいない間に何があったんだ、ラドビアス。こいつ、何かおかしくなってる」
――まさか、ヴァイロン様がわたしに悋気してなんて言えるわけがないじゃないですか。
「何もございませんでした」
含むことが大有りの顔で声だけはそっけなくラドビアスは答えた。
「ヴァイロン」
起き上がったイーヴァルアイは寝台の傍らに置いた椅子に座っているヴァイロンの肩に手を置いて立ち上がった。
「待たせたな、動くぞ」
「わかった」
ヴァイロンも立ち上がり二人は広間に向かおうとしたが。
「お二人ともお湯をお使いください、着替えたらお食事を」
「何を所帯じみたことを。やる気を削ぐようなことを言うな、ラドビアス」
「何、言ってるんですか。わたしが言わないで誰が言うんです。ヴァイロン様もぼさっとしてないで早くしてください」
「あ、はい」
追い立てられるように浴室にヴァイロンは放り込まれて体を洗い、髭を剃った。 しかし、ラドビアスがいないと日々の日常的な事は何もできないことに気付いた。 ヴァイロンは今までそんなことをする身分ではなかったし、イーヴァルアイときたら目の前に食事が出てくるのは世界の摂理だとでも思っているようで何もしない。 もし、本当に二人きりだったら自分が細々と世話をしなければ立ち行かないだろう。
あの結界を張りに行っていた時、イーヴァルアイが飲まず喰わずだったことは想像にかたくない。
用意された服に着替えて続いて浴室に入るイーヴァルアイとラドビアスをちらりと見た。
「髪を洗うのは今日はいい、乾かすのが面倒くさい」
「だめです、大体髪洗うのも乾かすのもやるのはわたしじゃないですか。あなたはじっとしていればいいんです」
「じっとしているのが……」
「だめです」
ばたりと閉められた浴室の戸をやや呆れながらヴァイロンは広間へ向かった。 簡単な食事を終えて机から食器を下げた後、イーヴァルアイがラドビアスを見る。
「ドリゲルトの軍は今どこにいる?」
「はい、ほぼ北にある国を倒して今はサイトス国に向けて南下している途中でございます」
ラドビアスがテーブルの上に地図を広げて指し示す。 それにヴァイロンは驚いて声を上げる。
「こんな物をどうやって手にいれたのだ?」
詳細な地図というものは、その国の最大の秘密で国主と限られた者しか見ることなど許されない。 それが島全体の詳細な地図などとは。
「サイトス国に先回りするか」
イーヴァルアイが言って印を組み『解』と呟いて地図をなでる。 すると描かれていたインクが浮いて蠢いたかと思うとさらさらとイーヴァルアイの手によって砂のように払われてしまった。 そこにあるのは白地の羊皮紙だった。
「行くぞ、サイトスへ」
「わたしも行く」
「無論」
『アルベルト! ルーファス! サイロス! 解せよ、サイトスへ通せ』
印を組んで呪文を呼ばわったイーヴァルアイの前に現れる闇。 その中に黒い影が三体蠢いて一つに溶けたようになって目標への道を通し、三人は竜門をくぐった。
「気分はどうだ?」
「少し悪いがたいしたことはない」
ただ、歩いているだけなのにまるで輿に乗せられているような気分で足がふらつく。
「『鍵』を身に付けているのなら大丈夫だ、失くすなよ」
心配そうにヴァイロンの顔をのぞき込むイーヴァルアイはほれ、と自分の肩を差し出した。
「掴まれ、肩を貸してやる。ここで倒れられたんじゃあ、後で面倒だ」
こんなに華奢な肩に体を預けたらそれこそ人数が一人増えて二人とも倒れて、そっちの方が面倒くさいことになりそうなのでヴァイロンはやんわりと断わる。
「もう、大丈夫だ。何か慣れてきたみたいだ」
「じゃあ、もっと普通の顔をしろ、ぼけっ」
自分の有難い申し出を断られて気分を害したイーヴァルアイが大声を出したところで。
「着きましたよ」
ラドビアスの声。
「着いた? まさか……」
――さっきからまだニザンほどしか経っていないではないか。
目の前が白っぽく光る。 その光に向かってラドビアスを追い抜きそうな勢いでヴァイロンは竜門から飛び出した。 竜門を開けた場所は城の中らしい。
「着いたって、ここはサイトスなのか」
「はい、竜道は距離と時間に縛られておりませんから。サイトス国の主城の中でしょう」
ラドビアスが答えるのに頷くと同時に感づく生臭いにおいと肉の焼けたにおい。 その匂いの正体に気付いて思わずヴァイロンは膝を崩して部屋の隅に吐いた。
「すまない、もういい」
背中をさするラドビアスを制して立ち上がったヴァイロンは竜門を閉じているイーヴァルアイを見た。
「どうする?」
「ここでドリゲルトを待つ。どうせ暫くはわたしは何もできない。おまえとラドビアスに一働きしてもらう」
「何もできない?」
「ここに誘い込んで相手が油断するまで術が使えないからな」
イーヴァルアイは薄く笑った。
「ドリゲルトの側には魔道師がいる。ここで魔術の痕跡があれば感づく程度には上級らしい奴だ。だからそいつを先に殺してくれ」
あっさりと殺すと口にするイーヴァルアイに傷ついている自分にヴァイロンは自分の心を持て余していた。
――今は戦乱の世で自分も何人もこの手で殺しているというのに。 イーヴァルアイの口からその言葉を聞きたくないとは一体……?
「ではラドビアスも術が使えないのでは?」
「ラドビアスは剣と体術が使える」
何が気に入らないのかイーヴァルアイは嫌そうに言う。
「そうなのか」
「はい、多少は」
ラドビアスはにこりと笑う。
「わたしの主は魔術以外はまったく何もできませんが」
イーヴァルアイの冷たい視線をうけながら平然とラドビアスはそう言ってのけて歩きだした。