ザーリア州の宿
「もう、着いたのか」
「はい」
竜門から外に出ると冷涼なレイモンドール国の南端、ザーリア州は首都サイトスと比べて格段に温かい風が吹いている。 半島のように突き出ているこの州の海岸線を暖流が掠めていくためにレイモンドールにあって例外的に一年を通して温かい気候になっている。
「暖かいな、夏のようだな」
「さようですね」
太陽までも南と北では見せる姿が違うのかと思う。 空気の色も花の色も暖かい色をまとっている。 遠目に見えるやや雑然と建つ、家々は厳しい冬の備えなど考えたこともないのだろうという開放的な造りだった。
「サイトスやモンド州とは大違いだな」
「こちらでは冬のうちに雪が降るのは数年に一回ほどらしいですよ。年に二回麦が収穫できるように聞いております」
ラドビアスの言葉にヴァイロンは驚いて目の前の風景を眺める。
――自分は自分の国のことを驚くほど何も知らない。 地域によってこんなに暮らしやすさに差があるとは。 画一的な施策では不公平が生まれていくだけだ。一般的なレイモンドールの冬の備えなどこの州はまるで関係ない。 税の徴収を年二回に分けて、冬場の税率を抑えているのはレイモンドールの冬は厳しく生産活動が停滞するからなのだが。 その政策はこの州には恵みを与えているだけになる。
これから他の地域でも冬の間に営める産業を育てていかなくてはならない。
「この先、わたしは行く先々で考えさせられるのだろうな。でも来て良かったよ」
真面目な王の言葉にラドビアスは黎明期の王がヴァイロンで良かったのだと心から思った。
「どうしますか、州城に寄りますか」
「いや、大げさにしたくないし、今回の旅は気楽にしていたい。州候に会うのも今回は止めておこう。この城下で宿をとろう」
「そう仰られるかなと思いまして用意をしております。人目も無いことですし、さっさと着替えましょう」
ラドビアスが抱えてきた荷物を広げると二人分の衣類が入っていた。 遠い昔、同じような事をしたことがあったなとヴァイロンはしみじみと思いながら着替える。
襟元を大きく開けた綿のシャツ、麻の丈の長い上着を羽織りゆったりとしたズボンにサンダルのような靴を履く。 横のラドビアスは逆に襟の詰まった立ち襟の長めの上着を着ていた。 しかし、これも南国風というのか幅をたっぷりととったズボンを履いている。 ラドビアスは脱いだ服を几帳面に畳んで荷物をまとめるとヴァイロンに顔を向けた。
「その剣をそのままお腰にさしてらっしゃると商人では通りませんね、鞘を変えますのでお貸し願えますか」
「どうする?」
ヴァイロンの問いに笑顔を返しながらヴァイロンから受け取った剣を受け取ってラドビアスは印を結ぶ。
『変成、変転、変容、我の命により辺幅、変化せよ』
言いながら鞘を先からなぞっていくと鞘は姿を変えて杖になる。 巧みに形作られているその中に剣があるとは思えない出来だった。
「ご不自由をおかけしますが、どちらかの足を悪くしていることにいたしましょう」
「見事な出来だな、しかし、おまえの術は主であるイーヴァルアイとも他の魔道師とも違う。それがベオークの術なのか」
「そうですね、わたしの術の師はバサラ様ですから」
――自分の命の恩人を裏切るほどラドビアスはイーヴァルアイを思っているのか。 その思いは自分の思いと同じ種類のものなのか、聞いたとしてもこの男は答えないのだろうな。
淡々と答えるラドビアスを横目にヴァイロンは苦笑いを浮かべた。 州都のギリアンに入ると賑やかで開放的な町の様子にヴァイロンは驚く。 首都であるサイトスに入るには都の東西南北に設けられた関所を通らなくては荷一つも届けられない。 高い見張り台のついた障壁を張り巡らせて、その上に呪による結界まで張っており、整然とはしる大通りには兵士や魔道師が絶えず見回っている。 そこしか知らない者には慣れた光景だが、ここを知ってしまうとどうにも大仰な気がしてくる。
――これも帰ったらガリオールに要相談、だな。
「では行こうか」
「はい」
宿屋が軒を連ねている通りの一番奥手の宿屋から若い女の大声が響いた。
「何するのよ、この変態っ」
「客に向かってその態度は何だ、このあばずれめ」
なにやら物がぶつかって割れる音や木のばきばきと折れる音がする。 朝っぱらからやりあっているのはこの宿屋の娘、エレーヌと中年の行商人らしい腹の出た赤ら顔の男。
「申し訳ありません、朝食のお代は頂きませんからどうか腹を収めてくれませんか」
宿の亭主の申し出ににやりと笑って男は振り上げていた椅子を下ろした。
「おれはいいが連れがどう言うかな。おれの連れは気が短いのでな」
「お連れ様、ですか」
亭主が後ろを振り向くとフードを深く被ったローブ姿の男がゆらりと立ち上がる。
「こんな無礼な扱いを受けたのは初めてだな。許してほしいならその娘を一晩さしだすか、気持ちを包んでもらおうか」
赤ら顔の男が下卑た笑いを浮かべたのを見て亭主は小さく舌打ちする。 客商売をやっている以上、言いがかりをつける客や宿代を踏み倒そうとする客は少なくない。 だから付け入られないよう上手くあしらうようにしているのだ。 だが、自分の娘ながら気の強い今年十六になるエレーヌときたらそんな腹芸の一つ、出来はしないのだ。
「何、ずうずうしいことを言ってるのよっ、人のお尻触っといて金をよこせだって? 訳わかんないことを言わないでよ、このタコ」
鍋を振り回して勇ましく言い放つ娘の姿に亭主は頭を抱える。
「娘、口が過ぎるぞ」
フードの男が印を結んだ。 途端に娘が悲鳴とともに宿の飾り扉ごと通りに飛ばされる。 大きな物音に周りの宿から物見高い人々が通りに出てきて大騒ぎになってくる。
「どうした?」
「娘が倒れてるぞ」
「宿屋のむすめだ」
「エレーヌちゃんだ、大丈夫か」
「い、痛い」
手を突いて体を起こそうとしたエレーヌの目の先に皮のサンダル履きの足が見えた。
「大丈夫か、手につかまれ」
目の前に白い手が差し出されてエレーヌがつかまると細い手に似合わず、思ったより力強く引っ張り上げられる。 そして相手が杖をついているのに気付く。
「ごめんなさい、足が……悪いのに」
エレーヌは謝りながら相手の顔を見上げてぱっと顔を赤くしたまま固まってしまった。
――なんて綺麗なの? お話のなかの王子様みたいだ。 太陽に反射するシルバーブロンドの髪、アーモンドの形の瞳は濃い紺色。 細いがしっかりとした鼻梁、きりっと引き締まった口元。 とにかくこの十六年間生きてきた中でこんなにも洗練された美しい男性を見たことがないのは断言できる。
「どうかしたのか」
瞬きもせず、見つめる少女を前に、所在無げにヴァイロンは後ろのラドビアスを見る。 そこへ中から赤ら顔の男とフードの男、真っ青な顔の宿屋の亭主が駆けつける。
「大丈夫か、エレーヌ。お客さん、何てことをするんです。お金でもなんでも出すから出て行ってくれ」
「無礼な口をきくなっ」
宿屋の亭主に向けてフードの男が印を結ぶ。 が、それをラドビアスが長い袖口の中で反呪の印を結んで呟くように唱える。
『反呪、我の命により元主に帰れ』
大きな爆風を受けてフードの男は赤ら顔の男を巻き込んで店の外壁にぶつかり、気を失った。 そこで笑い声と喝采が上がり、皆それぞれに自分の宿に帰って行く。
「ラドビアス、行こう」
「ヴァイロン様」
ヴァイロンも歩きだしたが、困ったような声を出して付いて来ないラドビアスに振り返ると、さっきの少女がラドビアスの上着のすそを引っ張っていた。
「旅の人、今日の宿は決まっているんですか」
「いや、まだ日も高いし決めていないが」
「じゃあ、うちにしてください」
少し、たじたじとしてヴァイロンは助けを求めるようにラドビアスを見た。




