ラドビアスの回想
そう言ってラドビアスは静かに話し始める。
逃げ出したものの、すぐに厨房の見張りに見つかってしまった。 ラドビアスは一緒に逃げ出した髪の黒いハオ族の子どもと手を取り合って、広大な果樹園の中を走りに走った。 後ろからは大人の怒鳴り声と子どもの泣き声が聞こえてくる。 もう、だめだと足を止めたその時、ふいにのびてきた手に掴まれ横に引っ張られた。
「しっ、静かに。おまえ達こっちにおいで」
手を掴んでいるのは自分と変わらない年頃の少年だったが、着ている衣服はつるりとすべらかで自分たちが着ている麻の物とは比べ物にならない。 前を行く少年の亜麻色の髪がいい匂いをしている、と場違いな感想をいだきながらラドビアスはハオ族の少年とともに葡萄棚の下を小走りして続く。
「ここまで来たら大丈夫。おまえたち、助けてやるよ」
くるりと振り返った少年のあまりの美しさにラドビアスはぼうと見とれた。
「――助けるって?」
「うん、おまえたち、わたしの僕にしてやるよ。今日、わたしはとてもうれしいことがあったからね」
大人びた口調の少年は晴れやかに、とてもうれしそうに笑った。
「今日、わたしに弟が生まれたんだ。だから、無益な殺生は今日は止めるようにビカラ兄様からハイラ姉様に言ってもらおう。ついでにわたしが僕を持つことも頼むよ」
「あ、ありがとうございます」
ラドビアスとハオ族の少年は頭を地面につけて礼をする。
――今自分はとても偉い人と話しているのではないか。 でも、しもべとは何なのだろう、ここでは使用人のことをそう呼ぶのかな。
そんな事をラドビアスは思った。 ハオタイ国の共通語は範字でここ、ベオーク自治国も範字を使っているため少年の言っていることはわかるにはわかる。 だが、ラドビアスのいたハオタイ国の西、ダルファンは大陸の西側に近い。 民族もハオ族ではなく西側の国に多い白人種で、言葉も普段使うのは古代レーン文字から発展したというアーリア語だ。 細かい言葉の意味はわからないのかもしれないと、美しい自分の雇い主になるはずの少年を見た。
「じゃあ、おまえは今日からサンテラだ、そっちの子はインダラ。よろしくね」
そう言ってあの方は水色の瞳で笑いかけてくれた――たしか十歳になった頃の事だ。
昔の記憶の縁から戻ったようにラドビアスは、軽く瞬きをすると言葉を継いだ。
「そのお方はイーヴァルアイ様のすぐ上の兄君でバサラ様と仰います。わたしはバサラ様に命を救って頂き、僕としてお側に仕えておりました」
「今は違うのだろう?」
「わたしはバサラ様を裏切ってイーヴァルアイ様の僕になりましたので、この島に来たときに名前を変えたのですよ」
裏切ったと、言うわりにラドビアスはうれしそうに続ける。
「いつもサンテラと言うとつらそうな顔をするんだな。おまえ親からもらった名前は何だ?――そう、仰ってイーヴァルアイ様が元の名前にしろと。ラドビアスは親から貰った名前です」
ラドビアスの話しが終わり、ヴァイロンは何から口にしようかと一旦開けた口を結局何も言えずにつぐんだ。
ラドビアスの数奇な運命とベオーク自治国の教皇一族の話、おそらくその一員であるイーヴァルアイの事。 何から何までヴァイロンには信じがたいことだがラドビアスが嘘を言うとも思えない。 そのベオークでイーヴァルアイに何があったのか、ますます気になるがこれ以上は何も聞けないだろう。
「さあ、これからの算段をいたしましょうか」
さばさばと言ってラドビアスはドリゲルトを手招く。
「おまえも聞くのだ、こちらへ来い」
その日の午後、早駆けの馬によってイール将軍の帰城が今晩遅くになることが知らされて、その支度に城中が慌ただしくなる。
将軍が帰城するとほぼこの島国は掌握されたものであるといえる。 深夜、地響きと供に騎兵が一千五百、歩兵がニ千の大軍がサイトスへ入った。 城内に入りきらなかった雑兵は城下の貴族らの屋敷へと分かれて宿舎とすることになった。 ドリゲルトが先に連れ帰った兵たちのいる城下の町中には、松明の明かりが灯され満月の下にいるようだ。
「我が敬愛する皇帝陛下、久しぶりに御尊顔を拝見し、お健やかなることを得心いたしまして真に嬉しく存じあげます。お任せ下さいました南の国々、ことごとく我らの軍下に降り属国になりました」
ドリゲルトに比べると線が細いが一般的に見れば偉丈夫の部類に立派に入る逞しい壮年の男、イール将軍が片膝をついてドリゲルトに帰城の挨拶をする。
「大儀であったな、イール。よく勤めを果たしてくれた。この度の功績、覚えておく」
「有難き幸せにございます」
そう言ってイールは不信そうに顔を上げる。
――いつもより寿ぎが素っ気無い気がする。 いつもはもっとざっくばらんに肩を叩いて大喜びを隠そうともしないのだが。 それにガウシスの横にいる若造は一体誰だ?
「予定よりお早い御帰城に首尾の上々な様子がわかります。まずはごゆるりと旅のお疲れをいやされますよう」
「うむ、してそちらの御仁はどなたかな、ガウシス卿」
ガウシスに厳しい目を向けてイールが問う。
「このお方は右将軍ゴーラ様の嫡男、ヴァイロン様でございます。この度陛下を助けて多大な功を挙げられたことでお側に迎えられておいでなのです」
「ゴーラには確かに嫡男がいたが、この戦に来ていたとは」
それなら自分が知っているはずと胡乱そうに若い男を眺めると男は人好きのする顔をにこりとさせた。
「小さいころにお会いしたきりでございましたが、イール将軍閣下。以後、お見知りおきください」
愛想良く挨拶をする若い男にいぜん腑に落ちない思いをいだきながらも肝心の陛下がそれを許しているのだからと一旦は納得するが。
――自分が帰ったからにはベオークから間諜まがいに送られたガウシスやぱっと出のゴーラの息子なんぞを陛下のお側に侍らせておくまいよ。
イールはドリゲルトにべったりと側づいている二人を寸の間睨みつけて自分へ用意された宿舎へ案内されて出て行った。




