神はサイコロを
遠くないうちにこんなことになる気がした。
俺は几帳面に整頓されたジャックの仕事場を見ながら思った。
予定調和なのか虫の知らせなのかは分からないが、とにかくこうなるだろうという予感がしたのだ。
整然とした仕事場に散乱する血液と脳髄、それから腐敗を始めた肉体からの腐臭。金を貸すことを生業としていれば何度か出会うであろう首が回らなくなった人間の末路。
「酷い有様ですね」
数日前に音信不通になったジャックを訪ねて一緒に来ていた部下のニコルソンが呟いた。
「この世界じゃたまにあることだ。警察を呼んでおけ」
戸棚の中から上等そうなウイスキーを勝手に取り出して瓶のまま口に含む。瓶の中はまだ7割ほど液体が残っていた。
ああ、そういえばアイツはあまり酒を飲めなかったな。もっとも、節度を守る人間だったから前後不覚に酔うこともなく、大抵は涼しい顔で1杯やるだけだった。
「神はサイコロを振ると思うかい?」
最後に会った時にヤツはバーで3杯目のウイスキーを片手にそんなことを言っていた。だから俺はきっとろくなことになりやしないかと思ったんだ。
「そんなことは神のところに行かなきゃ分からねえよ」
俺はいつもどおり何杯目か分からない酒を口に運んでいた。確かワインだったように思うが記憶は定かではない。だが、急にジャックの野郎が妙に神様なんぞを引っ張り出してきたから随分と酔いが覚めた。
「思うか、だよ。本当のところは誰にも分からないだろうが」
「そういうのは宗教家か物理学者にでも聞いてくれよ。最近の量子力学とやらによるとどうやら神はサイコロを振るそうだが、俺の知ったことじゃない」
「じゃあ君は神はサイコロを振ると思うわけか」
「餅は餅屋だぜ、ジャック。俺には本当のところは分からないが、そういうことに人生を捧げている連中がどうやらそうらしいというんだから、さしあたってはそういうことにしておくのさ」
「セルゲイ、君らしい慎重な意見だな」
「つまらんことを言うなジャック。俺はお前ほど手堅いトレーダーもいないと思ってるんだぜ。そんなヤツに妙なことを言われちゃ気持ちが悪い」
俺はぐいっとグラスを開けて次にウォトカ頼んだ。ここの記憶は確かだ。ヤツが変に珍妙なことを申し立てはじめたのでウォトカが飲みたくなったのだ。
「それで、どっちだって思ってるんだジャック?俺にはそっちの方が余程お前にとって重要そうに思えるんだが」
「ああ、そうだな――」
ジャックは酒のせいか緊張のせいか分からないが頬を紅潮させていた。
「僕は神はサイコロを振ると思うよ。あいつは博打好きのクソ野郎さ」
楽しそうな顔でジャックは続けた。
「無限の時間の中でサイコロの出目に一喜一憂するどうしようもないギャンブル中毒者だよ。やっこさん、場末のカジノで端金握りしめて賭けることだけが楽しみな老人と寸分違わないのさ」
「らしくねえ」
俺はショットグラスのウォトカをひと飲みにしてその薄ら寒いお伽話を遮った。
「らしくねえよ。ジャック。お前らしくねえよ。お前は神にも博打にも程遠い手堅いトレーダーじゃなかったか?株の上がり下がりで一喜一憂する阿呆共とは違ってもちっと先を見据えて手堅く稼いで生きていくような人間じゃなかったか?」
ジャックは少し曇った表情をしたがまた恍惚感に溢れた表情で話し始めた。
「セルゲイ。確かに僕はそういう人間だ。そして今回もそうだ。僕はいつだって確かな根拠で動いてきたし、これからもそうだ」
ヤツの酔っ払った表情はそれからも変わらなかった。そして酒の席で新しい投資先の情報と金の無心をしてきたもんだからまいった。
確かに俺はそこそこの資金を貸せる権限を持っていたし、ヤツの持っていた情報もどうやら確からしいとは思った。だが、何かが気に食わなかったのでとりあえず帰ってから考えると生返事をした。
帰った後でジャックの情報を俺が持っているツテで調べたが、ヤツの言っていることは確からしいと思った。だが、ジャックは他の所に方々回って資金をかき集めているらしいということも同時に分かった。
俺にはどうにもそれが気に入らなかった。虫の居所が悪かっただけなのかも知れないが、とにかく今回の山には乗る気がしなかった。
ジャックから幾度か催促の電話がかかってきたが、その度にのらりくらりと生返事で躱した。その結果がこの肉塊ときたもんだ。
「ジャックの野郎、方々から金をかき集めてたらしいですよ」
ニコルソンが苛立ちながら吐き捨てるように言った。
「ああ、知ってる。俺達はそんなに出している訳じゃないからいいだろう」
「とはいっても損害は損害です。死人相手じゃ請求もできない」
「まあ、そりゃそうだが」
俺はウイスキーが焼け付くように喉を通る感触を楽しみながら言った。
「だが、ジャックが金を貸した人間どもを殺して借金をチャラにしようと考えなくてよかったと思ったらどうだ?やっこさんの頭をぶち抜いた拳銃が、この部屋に入ってきた俺達に向けられなかったことを感謝しなくちゃな」
「そんな馬鹿なことをやるヤツがいますか?貸し手の一人や二人を殺したところで債務は無くならないんですよ?まったく馬鹿げている!」
「落ち着けよ。馬鹿げていることは百も承知だが、その馬鹿げて血迷った連中が何をするか分からないことくらいは覚えておいて損はないぜ」
俺はいきり立っているニコルソンに火を注いでいるのかなだめようとしているのか分からないことを口走った。
正直に言ってこの相方がどうなろうと俺の知ったことじゃない。ただ、ジャックの死体を蹴り飛ばしたりでもしたら面倒だなとは思った。
幸いにしてニコルソンは憤ったまま、部屋の入口の狭い空間で忙しなく行ったり来たりしている。
まったく、ジャックはどうしてこんなろくでもない死を迎えたのだろうか?
その理由は俺にはさっぱり分からないが、ヤツが人生を賭けてギャンブルをしようとしたことは確かだろう。でなきゃかき集めた資金を一点買いに使うなんざしないヤツだ。
いくらか推測できることといえば、慎重だったジャックは途中から自分の状況と情報に溺れたということくらいだろうか。だから何もかもが見えなくなってこんなことになった。いや、人間には見えないことがあるということを忘れたというべきか。
とにかくヤツは神が振るサイコロの目を見たと思い込んだんだ。そしておめでたい結果が自分に起こると踏んだ。そして神を浮かれたギャンブラーだと思ったのだろう。
「だがな、ジャック。俺にはやっぱり神がサイコロを振るかどうかなんて分からねえよ」と俺は独りごちた。
「もし、神がサイコロを振るとしてもそれはギャンブル中毒者のように一喜一憂するためじゃなくて、小さい子供や猫がじゃれるように無邪気で無軌道で、何の意味もなく楽しげにやるものだと思うぜ」
ジャック、お前はそれを見誤ったんだ。自分にいい流れが来ていると思い込んでしまったんだよ。ゾロ目の後にはもう一度ゾロ目が出るというような根拠のない信仰に取り憑かれた、それだけのことだ。
「何を言ってるんですか?」
ニコルソンがこちらを不愉快そうに見ている。
「いや、なんでもない。どのみち少しばかり後片付けが面倒だな」
街の喧騒に混じったパトカーのサイレンが遠くで聞こえた。