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半径2M以内で  作者: ミナ
7/10

辞書ばかりの本棚 1

テーブルの上には冷めた紅茶と手の付けられていないガトーショコラ。

せっかく準備してもらったけれど、ひとりで頂くのは味気ない。

準備してくれたおばさんは、習い事があるからと出かけてしまい、この家に今いるのは、私ともう一人。

「諒(りょう)ちゃん、まだ~?」

「急かすなよ」

少しだけ、むっとしたような声が聞こえる。

でも、ひとりで待っているのも退屈なんだよ、と声に出さずに口答えする。

部屋に入るなと言われたせいで、同じ家にせっかくふたりきりなのに独りでいるなんて、つまらない。

わざわざ用事を作り上げてくるのに、それも意味がなくなってしまう。

もう30分も経った、と言い訳して、そろりと足を忍ばせて諒ちゃんの部屋まで行く。

ドアのところから覗くと、諒ちゃんは机に向かって、たまに辞書をぱらぱらとめくってはペンを走らせる。

諒ちゃんは、PCが苦手で相変わらず手書き主義なのだ。

勝手に入ると怒られるから、中には入らず廊下の床に座り込んで待つことにする。


諒ちゃんは、2年前からお隣さんだ。

本当は私が生まれる前からだけれど、私が幼稚園に行く頃、大学生になって外に行ってしまっていた。

最初の頃は夏休みやお正月に会っていたけれど、しばらくするとまったく見なくなった。

私は寂しくてこっそりひとりで泣いた。

会うといつも頭を撫でてくれる諒ちゃんが好きだったのだ。多分、初恋だった。

後からわかったことだが、その頃諒ちゃんは仕事で海外赴任になっていたらしい。

お隣のおじさんが亡くなった2年前、おばさんを心配して戻ってきた諒ちゃんは、記憶の中とは別人だった。

最後に会ってから、10年以上経っていたのだから、当然といえば当然だ。

けれど、優しくてあったかい雰囲気は変わらず、私はまたもや、あっさりと恋してしまった。

でも諒ちゃんは、ほとんど相手にしてくれない。

ひとりで家に来るな、部屋に入るな、とうるさいし、私が行動を起こさないと関わってもくれない。

大学生になっている私だが、15も離れていたら、やっぱり恋愛対象には見てくれないのだろうか。


紙の束で頭を軽く叩かれて、はっと上を見上げる。

「こんなとこに座り込むなよ」

「だって、部屋入れてくれないから」

「お袋がケーキとか用意してたろ」

「ひとりで食べるのやだ」

こんな風に言ってしまうところが、余計子供っぽく見られる要因だというのはわかっている。

諒ちゃんは軽く溜息をつくと、仕方なさそうに部屋に入れてくれた。

「もう少しだから、そこに座ってな」

小さめのソファを指差されて、でも部屋に入れてもらえるのが珍しくて嬉しくて、うきうきと座る。

また机に向き直った諒ちゃんを見て、それから部屋の中をぐるりと見回した。


諒ちゃんの部屋は、シンプルで物も少ない。

机、ベッド、ローテーブル、私が今座っているソファ、テレビ、PC、そして本棚。

通訳という職業柄なのか、本棚には辞書ばかりが何冊も入っている。

大部分は和英、英和、英英、和独、独和、独独、それらがしかも異なる出版社ごとに揃っている。

そして端のほうに日葡、葡日、日仏、仏日が何冊か並んでいる。

昔から使っているらしいものの中には、ケースが擦り切れているものもある。

なんだか諒ちゃんの歴史を感じて、いとしく思えた。


「ちぃ、終わったぞ」

諒ちゃんが、いつの間にかソファの前に来ていた。

座ったまま見上げると、目の前に分厚い紙の束が差し出される。

それは、半導体に関する研究論文の原文と諒ちゃんが訳してくれた分。

さっきから諒ちゃんが取り組んでいたのは、実は私が頼んだものだ。

「何度も言うけど、工業英語は専門外だからな。間違ってても文句言うなよ」

「うん。ありがと、諒ちゃん。…大好き」

最後のひとことは、かなり気持ちがこもった言葉だったが、諒ちゃんは気にも留めない。

「はいはい、ありがとね」

軽く流しながら、私を立たせて部屋の外へ誘導し始める。

抵抗しようにも体格差はどうにもならず、私は簡単に元いたリビングへ押し出されてしまった。

このままでは、玄関の外まで追いやられかねない。

「お茶! 途中だったんだ。諒ちゃんも飲むでしょ? おばさん、ケーキ諒ちゃんの分も用意してたし」

「この後仕事で出なくちゃいけないんだよ。時間無いから、ちぃお前家に持ってけ」

つまり、やはり帰れということらしい。

無理やり論文の和訳を頼んだ身としては、時間が無いと言われてしまえば何も言えない。

諒ちゃんは手早く包んだケーキを私の手に持たせ、危惧したとおり玄関の外まで私を押し出した。

「じゃあな」

「うん…ありがとう」

バタン、と閉まったドアの音が、私と諒ちゃんの間に重く響いた。


諒ちゃんは、いつもこうだ。

私が好きだと言ってもいつも軽く受け流し、わざと論文を持ち込んでも訳した後さっさと私を帰らせる。

でも迷惑だとははっきりとは言わないから、私はそれに乗じたままでいる。

本当は、英語もドイツ語も苦手なわけじゃない。

論文だって、自分で訳そうと思えば普通に訳せる。

ただ、諒ちゃんと何かつながりを持っていたくて、だから諒ちゃんのところに持ち込むのだ。

全然進展なんてしないし、諒ちゃんには相手にもされていないけれど。

いつものことながら悲しくなって、諒ちゃんに持たされた2人分のケーキをやけ食いした。


チャイムが鳴って出てみると、習い事から帰ったおばさんだった。

よかったら夕食を食べにこないか、と誘われ、喜んで応じる。

うちの親は共働きで、遅くまで帰ってこないため、私は昔から家に一人でいることのほうが多い。

そのため、隣のおばさんは小さなころから何かと気にかけてくれている。

うちの親より少しばかり年上だが、もう一人のお母さん的存在だ。

おばさんと一緒に家に入ると、いないと思っていた諒ちゃんがいた。

仕事じゃなかったの、と思いながら見上げると、諒ちゃんは気まずそうな顔をした。

嘘だったのだ、と気づいて、気分は地よりも落ち込んだ。

今すぐにでも帰りたくなったが、せっかく誘ってくれたおばさんのことを考えると、できなかった。


食事が終わると、諒ちゃんはすぐに自分の部屋に行ってしまった。

変な子ね、と訝しげなおばさんと、一緒に後片付けを済ませ、しばらく雑談する。

その頃には、落ち込んでいた気分は、だんだん腹立たしさに変わってきていた。

迷惑ならそう言ってくれればよかったのだ。

回りくどい嘘なんて、ついてほしくなかった。

やがておばさんに、お風呂に入るから、好きに過ごしていていいと言われた私は、諒ちゃんの部屋に向かった。

ドアは閉まっている。

入るな、と言われているせいで、開けるのは悪いことのような気がしてどきりとした。

でも、あいにく私は今怒っている。言いつけを素直に守る気分ではない。


ドアを開けると、諒ちゃんの驚いた顔がこちらを向いた。

「ちぃ、入ってくるな、って」

「嘘つき」

思いの外強い声が出た。

諒ちゃんが顔を顰めるのがわかる。

「嘘つくなんてひどいよ。迷惑なら迷惑って言えばいいじゃん!」

「声でかいって」

諒ちゃんの大きな手が、私の口を覆おうとする。

そんなことされたら、私がどんな気持ちになるかなんて、諒ちゃんはまるで頓着していないみたいだ。

腹立たしい気持ちがまたぶり返して、私は諒ちゃんの手を阻む。

「おばさんお風呂だもん、聞こえないよ。

 諒ちゃんはさ、私が好きって言ってること、何とも思ってないの?

 それとも、内心困ってて迷惑だから聞かなかったふりしてやり過ごそうとしてるとか?」

「…どっちでもない」

「じゃあ、なんで? なんで嘘ついてまで私を遠ざけるの?」

諒ちゃんは話したくなさそうだったが、私はじっと待った。

ついに折れた諒ちゃんは、重い口をようやく開く。

「お前がまだ子どもだから」

「私、もう大人だよ」

「…俺からすれば、ハタチなんてまだ子どもだよ。

 これからまだ出会いだってたくさんあるのに、15も上の俺を好きだなんて、もったいないだろ」

「へりくつ。私が好きなのに、もったいないとか関係ない」

「なんにしろ、その年で俺に縛られるのはやめろ、ってことだよ」

「でも、じゃあ、諒ちゃんの気持ちは? 私のこと少しは好き? それとも」

「俺の気持ちは関係ない」

私の言葉の上からかぶさる諒ちゃんの言葉が、それ以上先を言わせない。

こんな論議って無い。

諒ちゃんの気持ちは量れないままで、私の気持ちは間違っていると言われたことに、また落ち込みそうになる。

自然に視線が下がった私は、床に転がったスーツケースと、そばにある衣類を見て考えが急に途切れた。

言おうと思った言葉は頭から飛び、代わりに別の言葉が出てくる。

「どっか、行くの?」

「…あぁ、仕事で。カメラマンに帯同して南米に行くんだ」

「いつ?」

「来週」

「どれくらい?」

「さぁ。どれくらいになるかは、まだわからない。短くて1か月、長ければ年単位かも」

「そ、そんなに?」

私の脳裏に、昔のことが思い出された。

私はまた、寂しくてひとりで泣くことになるのだろうか。

急に押し黙った私を見て、諒ちゃんは私を諦めさせる好機だと取ったらしい。

「その間に、俺のことなんて忘れるだろ」

そんな言い草が、私には悲しくて腹立たしくて、言葉も出なかった。

挨拶もする気になれず、私はそのまま部屋を出ていく。

背中が、諒ちゃんの溜息を感じて震えた。


続きます。

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