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半径2M以内で  作者: ミナ
6/10

事務用ボールペン 2

あの後、彼はそのまま階段を下りて行った。

「またね」

それだけ言って、行ってしまった。

残された私は、彼のボールペンを手に握ったままだった。

実際、それ以上何かがあったとしたら、大問題だったに違いないから、それはそれでよかったはずだ。

けれど私の中には、燻ったまま消えない何かが残ってしまった。

ボールペンを捨てることもできず、苦労して替え芯を買ってまで使い続けているのは、つまりそういうことだ。

彼がその後どうしているかは、もちろん知らない。

それなのに、どうしても最後の言葉が忘れられないでいる。

あり得ないと知りながら、忘れたふりをしながらも、いつか会えるかもしれないと今でも期待しているのだ。

そして、もし会えたら今度は、あのとき一度も呼べなかった彼の名前を呼んでみたいと思っていた。


「笹部 則幸(ささべ のりゆき)か」

「懐かしい、あの数学バカですね」

教科室のドアを開けた時に聞こえた名前に、私は凍りついたように立ちつくした。

今思い出していた、一度も呼べなかった、まさにその名前だった。

「今村(いまむら)先生、ちょうどいいところに」

話しかけられて、はっと意識を戻した。

普段は皆談話室にいるため、この教科室は事実上私しか使っていない。

その教科室に、教科主任と補佐の先生が何の用事だろうと思っていると、プリントが差し出される。

プリントには、彼の情報が簡単に印字されていた。

「来週からの教生受け入れなんだが、数学科は一人だそうだよ」

「今村先生も知ってるんじゃないか? 先生が教生で来た頃ここの生徒だったんだが」

「あ、ええ…少しだけ」

「あいつはほんとに数学バカでしたね」

「はは、そうだったなぁ、まったく」

懐かしそうに笑う先生方に、扱いにくいと思われていたにしてはずいぶん柔らかい反応だと思う。

気になって、つい聞いてしまったが、逆に笑われてしまった。

「2年の途中からは、逆にかわいがられてましたよね」

「ああ、授業中あからさまにぼんやりすることもなくなったし。

 何より数学好きもここまでくるか、ってほどでな。よく談話室まで来て話しこんだもんだよ」

「その頃から教師になるなんて言ってましたけど、まさか本当になるとはね」

「そういや、あいつが変わったの教生帰った後だったな。誰の影響だったんだか。

 笹部の実習は、私が担当するんだが、今村先生は年も一番近いし、何かと相談に乗ってやってくれ」

「ええ、わかりました」

先生方が帰って行った後、私は溜めていた息をやっと吐き出した。

主任と補佐の先生は、私が実習でここに来た時もいた先生だ。

何も知られているわけはないのに、どこかどぎまぎした気持ちになった。

それにしても、彼が実習に来るとは驚いた。

しかも、昔から教師になると言っていたとは、まさか、私の影響ではあるまい。

そもそも一体どんな顔して会ったらいいのか、まったく先が思いやられる。


授業の準備を終え、小テストの採点も残すところあと2人、という時。

ドアがノックされた。

「どうぞ」

こんな遅い時間、どうせ数学科の誰かだろうと思い、顔を上げずに採点を続ける。

ドアが開いて、歩いてくる音は、だんだん私に近づき、人影が私の横で止まった。

「あづさちゃん」

その声に、採点していたペンは停止した。

まさか、と思いつつそろりと顔を上げると、あのときよりも大人びた彼が立っている。

けれどきらきらした髪も、吸い込まれそうな眼も変わらない。

「久しぶり」

「…本物?」

「ははっ、確かめる?」

ゆっくりと、顔が近づく。

あと、数ミリで唇が触れあいそうなところ。

「ストップ」

「あ、ひでぇ」

笑いながら、素直に引き下がる彼に、少しがっかりしたりして。

「実習は来週からじゃなかった?」

「出入りしやすいのは卒業生の特権」

「だらしなく思われると心象悪いよ」

「ちゃんと挨拶してきたし。俺かわいがられてるから」

「そうみたいね。さっき聞いて驚いちゃった」

こんなに久しぶりなのに、意外と普通に話せてる自分に驚いた。


近況報告のような話をした後、少しの沈黙。

いつもより口が回ったのは、緊張のせいか、と思う。

何を話そうか、と思ったところで、彼の視線が固定されているのに気づく。

「それ、俺の?」

「え?」

視線の先を辿ると、あのボールペン。

しまった、と思うより先に、また、囚われる。

顎を捉えられて、まともに視線を合わせられてしまった。

「俺の、ボールペン?」

「そう」

「ずっと使ってたの?」

「…そうよ」

「俺のこと、思い出したりしてた?」

「してない」

「…うそつき。眼が揺れてるよ」

笑って話す声が、私を見つめる目が、顎に触れる指先が、甘い。

5年も経っているのに、そんな時間が何でもないように、すんなりと引き寄せられてしまう。

「俺、あづさちゃんのこと追いかけてきたんだよ。

 教師に向いてるかも、って言ってくれたことあったじゃん。だからやってみようと思って。

 そしたら、友達の弟があづさちゃんがここで先生してるって言うから。ここに実習受け入れ願い出したの。

 いい加減、追いつかれてくんないかな。それとも、俺、もう追いつけた?」

「わかってるなら、聞かないで」

「じゃぁ、さっき寸止めにしたキス、させて。5年ぶりなのに途中で止めるとか、ひどすぎ」

返事も聞かずに、唇が触れて、すぐに離れた。

物足りない、と咄嗟に思った。もっと、5年分のキスがしたい。

話ももっとしたい。あと、それから何だっけ。あぁそうだった、名前が呼びたい。


「…笹部くん」

思ったより小さな声になってしまった。

初めて口にした音に、目の前にある顔が驚いたように私を覗きこむ。

「あづさちゃん、初めて俺の名前呼んだ」

「そうね。ずっと、呼んでみたかったの」

「知ってたの」

「何それ。当り前でしょ」

「下の名前は知ってる?」

「…則幸」

「うわ、いいなぁそれ。今度からそうやって呼んでよ」

「ダメ。しばらくは教生でしょ。笹部くんのまま」

「あづさちゃーん」

「それもダメ。私一応先生だし」

「生徒には呼ばせてるでしょ」

「ケジメつけなさい」

「じゃあなに、今村先生? ふぅん…ちょっと、やらしい感じ」

「な、なによそれっ」

「だって、こうなるから」

何が、と聞く前に、唇がふさがれる。

どうしてこう不意打ちのキスが得意なのかしら、と思いながら身を任せる。

「先生…」

キスの合間に囁かれるのは、名前じゃなくて。

この部屋で、この呼び方で、こんなキスをするのは、確かにまずい。

「その呼び方、やめて…」

「じゃあ、あづさ」

急にされた呼び捨てに、どきりとした。ほんとに、不意打ちが得意で困る。

実習中はきっと、仕事にならないに違いない。


なんか、ちょっと長くなっちゃいました。

ひとつにまとめちゃってもよかったのかもしれないのですが、

なんとなく、分けてしまいました。


教育実習生、ってなんかステキな人たちでしたよね。

高校は、高専だったせいか一度も来ませんでしたが、中学では毎年何人か来てました。

先生よりも近くて、友達みたいに接してもらって、なんか楽しかった記憶があります。

実際彼らから見て、生徒がどう見えてたのかはわかりませんが…てか、クソガキと思われてた可能性もアリですけど^^;

あ、なんだか今さら心配になってきました…。


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