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半径2M以内で  作者: ミナ
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事務用ボールペン 1

急いで上っていた階段の踊り場で、遠心力に逆らえなかったボールペンが滑り落ちた。

気づいて焦ってそちらの方向を向くと、今度は携帯電話までが落ちてしまった。

「何やってんの、あづさちゃん」

「相変わらずドジっ子だな」

からかうように笑う生徒たちの声に、内心で軽く悪態をつきながら、顔に苦笑を浮かべる。

その中の一人が落ちた携帯を拾ってくれ、別の一人はボールペンを拾ってくれた。

なんだかんだ言っても高校生、口は悪くても中身はかわいい子どもなのだ。

ボールペンを拾ってくれた子が、不思議そうな顔でペンを見つめている。

「あづさちゃん、このペン変わってるね」

「何これ、普通こんなん売ってなくね?」

「よく言われる。でも書きいいんだ。拾ってくれてありがとね」

受け取ってお礼を言ってから、また階段を駆け上る。

教科室が4階にあるというのは、もう何年もまともに運動していない身としては拷問に等しい。

次の授業の教室は1階で、下りきった途端使うはずのプリントが無いことに気づいて、駆け戻ってきたのだ。

教科室に入って、私は息を整えた。

拾ってもらったボールペンを見ると、せっかく落ち着いてきた鼓動が、また跳ね上がるのを感じて舌打ちした。

もう、忘れたと思ったのに。


小テストを実施している間、私はついボールペンを見つめていた。

このボールペンは、もともとは私のものではない。

元の持ち主の、綺麗な姿が思い浮かんだ。

5年も前の話だ。

私は母校のここで、教育実習生だった。

当時の生徒は明るく活発で積極的で、すぐに仲良くなれたが、ひとりだけそうでない男子生徒がいた。

窓際の一番後ろの席に座る彼は、担当の先生によると、頭はいいが無気力で扱いにくい生徒らしかった。

確かに授業中も、教科書もノートも広げず、ぼんやりと窓の外を眺めていることが多かったように思う。

けれど、綺麗な顔立ちと色素の薄い髪や目は目立ち、話をしたことも無いのに、視界の端にいつも映っていた。

友達は多いらしく、よく談笑している姿も見かけた。


話をしないまま実習は2週目に入り、残すところもあと3日だけ、という日。

私は報告書を書くために、教科室ではなく図書館へ行った。

その日に限って、普段談話室にいることの多いベテランの先生方が、教科室にいたからだ。

自分の学生時代を知る先生もいて、気まずくて図書館へ逃げたのだ。

階段を上って2階に行くと、奥の学習スペースの端に、彼はいた。

夕日が当たって、髪がきらきらと光っていた。

吸いつけられるように、私の足は彼の座っている場所まで自然と進んだ。

手元を見ると、何冊かの本が広げられ、彼はメモ用紙に何かを書きこんでいた。

「変わったボールペンね」

咄嗟に出たのは、その言葉だった。

初めて声をかけるには、些か不向きな気がしたが、言ってしまったものは仕方がない。

手を止めて顔をあげた彼は、私の顔を見上げて、少しだけ笑った。

「よく言われます」

実際、そのボールペンは変わっていた。

よく見るキャップつきのものや、ノック式でクリップがついたものではない。

小さなホテルか何かのフロントや病院の窓口にあるような、全身真っ黒な細身の事務用ボールペン。

聞けば、彼の家は文具屋だそうで、一番安いが一番書き易いそのボールペンを、彼は気に入っているらしい。

話してみると、扱いにくいと言われていることが嘘のようだった。

彼は明るく快活で、よく笑い、話しやすかった。

やや遅れて、広げられていた本と彼が書いたメモを近くで見て、私は驚いた。

「フーリエ変換…」

2年生が春に見るものとしては、かなりレベルが高い。

この学校は理系だが、微積分は2年後期に触り程度やるだけだし、応用も3年で参考程度にやるだけだ。

頭はいいが、と言われたことを思い出した。

このときようやく、頭が良すぎて普通の授業レベルではつまらなかったのだ、と気づいた。

「だから、授業聞いてなかったのかぁ…」

思わずつぶやくと、彼は気まずそうに顔を顰め、聞いてないわけじゃ、ともごもご言う。

その様子がなんだかかわいくて、私は思わず声を出して笑ってしまった。


残りの3日間、彼は授業中相変わらず窓の外ばかりを見ていた。

けれど、時々ふと視線を感じたり、私が見ると急に視線が逸らされたりすることが多くなった。

私は私で、放課後は必ず図書館へ行くようになった。

彼はいつも同じ席にいて、数学を解いていた。

いつの間にか敬語の取れた彼と、バカな話もマジメな話もしたが、数学の話もかなりした。

フィボナッチ数列について目のきらきらを増して話したりして、よっぽど数学が好きらしかった。

こんな数学好きが教師だったら、楽しい授業ができるだろう、羨ましいと思ったものだ。

実際そんな風に彼に言ったこともある。彼は笑っていただけだったが。


そして、いよいよ最終日となったあの日。

私のボールペンの調子が悪くて、彼の変わったボールペンを借りたのだ。

確かに、書き易かった。

書き終わって、挨拶をして別れようと、ペンを差し出しながら言葉を選ぶ。

「じゃあ、元気でね」

またね、とは言えずにそれだけ言った。

ボールペンを掴むのかと思った、彼の手は、私の手首を掴んだ。

ほんの、2秒くらいだったかもしれない、無言で見つめあってしまった後、

彼がその手を強く引き寄せたせいで、私は座っている彼の上に倒れかかるようにして腕の中に取り込まれた。

「なに…っ」

抗議の言葉は、呑み込まれた。

触れられて初めて、実は望んでいたのだと、思い知らされた。

少しだけかさついた唇の感触と、簡単に捉まって絡められた舌の感触に、すぐに降伏する。

体の力を抜いてキスに応えると、後頭部を抑えつけていた手の力が緩んだ。

代りに、うなじから背筋を辿って腰の部分まで、ゆっくりと撫でられる。

「んん…」

思わず漏れた声に、彼の口角が少し上がるのがわかった。

激しかったキスの応酬は、少しずつ緩やかになって、けれど余計に体の熱を燻らせた。

「あづさちゃん」

キスの合間、ほとんど唇をくっつけたまま、少しだけ掠れた声で呼ばれる。

生徒たちはみんなそう呼んでいたが、彼には初めて名前を呼ばれた。

「なに」

「…かわいい」

それだけ言って、またキスが降る。

頭がくらくらして、熱で浮かされたようだった。


突然鳴ったチャイムの音に、私はびくりと体を震わせた。

いけない、昔のことを思い出していたせいで時間を忘れるなんて。

「後ろから回収して。章末問題は宿題にします。今日は以上」

宿題、と聞いて生徒たちからブーイングが起こるが、笑ってその場を収める。

回収したプリントを持って、おざなりな号令を待った後、そそくさと教室を後にした。

そういえばあのときも、チャイムが鳴って、驚いて体を離したのだった。

あぁ、だめだ、また思いだしてる。

キスの感触と、彼に呼ばれた名前の響きが、まだ体に残っている気がする。

「あづさちゃん!」

呼ばれた声に、驚いて振り向くと、今まで授業をしていたクラスの生徒が立っていた。

ばかな私、彼がいるわけないのに。

「どうしたの、すっげーびっくりした顔してるけど」

「ごめんね。ちょっと驚いちゃって。どうかした?」

「小テスト、渡しそびれたから」

「ああ、ありがとう」

手に持っていたプリントを受け取り、まだ訝しげな顔をしている生徒にムリにほほ笑んで、その場を後にする。

無意識に唇を覆っていた手に気づき、内心で苦笑する。

結局、全然忘れてなんていないのだ。


続きます。

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