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半径2M以内で  作者: ミナ
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マウスを握る手

「ひよこ、これやり直し」

そろそろ帰ろうかな、と思っていた時に無情な声。

しかもまた“ひよこ”呼ばわり。

恨めしげに目線を右へ移すと、ひらひらとレポートが振られている。

「室長。名前、ひよりですから。ていうか、安西(あんざい)です!」

「これくらいのレポートも一発で通らないようじゃ、ひよこで十分。

 この検証、結局どの年代層に一番効果的かあいまいなままだぞ。書き方工夫しろ」

さくっと流され、痛い言葉と一緒にレポートを突き返されてしまう。

何を言っても暖簾に腕押し、こっそり溜息をつきながら戻ろうとすると、「明日までな」と追い打ちをかけられる。

これで今晩は残業が確定だ。


室長は、私と大して年が離れていないのに、私が入社した時は既に主任だった。

入社したすぐ後の直属の上司で、会ってすぐ私の名前を捩って“ひよこ”と命名するようなふざけた人なのに、

独特の手法で的確に顧客のニーズを割り出すことが上層部に評価され、

それから2年、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでこの販売企画室の室長にまで昇進してしまった。

それに対して私はといえば、実際3年目なのに名前のせいとだけは言い切れない“ひよこ”状態。

着眼点が面白い、なんて言って室長は人選権を持つ今も相変わらず私を直属の部下に置いてくれているが、

見合う仕事ができているのかいないのか、自信はない。


コンピュータと睨み合いを続けているうちに、どんどんと他の社員が帰っていく。

あっという間に午後8時を回り、気づけば私と室長だけが部屋に残っていた。

しんとした中に、コンピュータのファンの音と、キーボードをたたく音、マウスのクリック音が響く。

工夫しろと言われた書き方に悩み、途中で行き詰った私は、ちらりと室長を窺う。

視線を上げないまま見ると、まず最初に目に入るのは左手。

左利きの室長は、左手でマウスを握る。

小さく手首を返し、ボタンとホイールの上をときどき指が滑る。

その手に、相変わらずどきりとさせられるのだ。

掌が大きく、指が長くてしなやかな、その手は男性の割には線が細い。


その手で、どんな風に触れるのだろう。

その手で触れられたら、どんなだろう。

そんなことを思わず想像せずにはいられない。

いつからそんな風に見るようになったのか、もうわからなくなっていた。

好き、なのだと思う。

見るたびにこんな妄想めいたことを想像してしまうくらいに。

室長には、浮いた話はなく、役員たちにしょっちゅう呼び出されては見合いさせられるも、

いつもそつなくこなし、そしてさりげなく断られるように仕向けているらしい、というのが専らの噂だ。

実はゲイなんじゃないか、なんていう恐ろしげな噂まで密かに出回っている。

まさかね、と思ったところで、急に室長が立ち上がった。

不意打ちにびくり、と体が震え、顔をあげてしまうと、室長の訝しげな視線とぶつかってしまう。

「なに」

「や、何でも、ないです」

壊れたロボットのような返答に内心冷や汗をかいたが、室長は何も言わずに部屋から出て行った。

荷物を持たないで行ったところを見ると、まだ帰りはしないらしい。

室長の姿が見えなくなったところで、詰めていた息を一気に吐き出した。

「びっくり、した…」

まさか、見ていたことに気付いただろうか。

仮に気づいていても、頭の中で想像していたことまでは気づかれないだろう、とひとまず安心する。

そしてちっとも進んでいないレポートに視線を戻し、慌てて頭を仕事モードに切り替えた。


ディスプレイの前に、突然紙袋が差し出される。

ビルの向かい側にある、ファストフード店のマークが見えた。

「腹減ってると効率下がるだろ。こんなもんで悪いけど」

今出かけたのは、食料調達をしに行ってくれていたらしい。

残業のときは自分も最後まで残って絶対にひとりにしないこととか、食事をさせてくれるところとか、

こういうさりげなく優しいところに、だんだん絆されたんだろうか、私は。

感謝の言葉を口にしながら、室長から紙袋を受け取る。

その際に目に入った室長の指先に、またもやどきりとさせられて慌てた。

自分の席に戻るのかと思った室長は、私の左隣のデスクに自分の分の食べ物を広げ始めた。

その様子に少しだけ驚いて見つめていると、室長が目線をこちらに寄こす。

「…戻ったほうがいい?」

「え?」

「ひよこが嫌なら、自分の席で食べるけど?」

「嫌じゃないです」

思わず即答してしまって頭を抱えたい気分になったが、いまさら撤回もできない。

「なら、ひよこも早く開けて食えば」

私の動揺なんて気にも留めていない言い方に、そうですね、と小さく呟きながら紙袋を開ける。


どうせ私は、“ひよこ”なのだ。

優しくしてくれても、それはそれ。

私の持つ感情とは全く次元の違う、“親鳥”の気持ちに違いない。

ファストフードのハンバーガーですらキレイに食べる、その指先に視線を奪われながら、ちょっと落ち込む。

考え込んで食べるスピードの鈍った私をよそに、室長は隣で手早く食事を済ませていく。

そして私が半分も食べないうちに、後片付けまで終わらせてしまった。

私の様子をちらりと見た室長に気づき、さきほどこんなので悪いけどと言われたことを思い出した。

あまり進んでいないから気を遣わせたかもしれない、と焦って少し多めに口に入れた途端、咽てしまった。

「っごほ、けほっ」

「おいおい、無理すんなよ。大丈夫か?」

慌てた室長が、飲み物を差し出して、背中を軽く叩いてくれる。

その手が触れた瞬間、背中にぴりりと何かが走った気がして、ストローを咥えたまま室長を見上げてしまった。

視線に気づいた室長は、何とも言えない表情を浮かべて手を離した。

離さなくてもよかったのに…とは、もちろん言えなかった。


微妙な空気のまま、私はもそもそと残りのバーガーを食べる。

その間、室長はそのまま隣のデスクにいた。

ようやく食べ終わって、ペーパーナプキンを取り出そうとしたとき、室長がこちらを向いた。

「なぁ、ひよこはさ。いっつも見てるよな、俺のこと」

一瞬、何を言われているのかわからず、中途半端な姿勢で固まってしまった。

ぎしぎしという音が聞こえそうな、ゆっくりとした速度で首を左に回す。

「違った。俺じゃなくて、俺の手か」

「え…?」

意味のない音しか、出てこない。

気づかれていた、その衝撃が静かに全身に広がっていく。

動けない私の顔を見て、室長はふわりと笑った。

そしてそのまま、左手を伸ばしてきた。

その親指の先が触れたのは、私の唇の左端。

「ケチャップ、付いてた」

指に掬われたそれは、そのまま室長の口元に運ばれる。

恥ずかしい。

さっき背中に触れられたのとは違う、明らかに意図的な接触に戸惑う。

でもそれ以上に、触れられた一か所からじわじわと襲う甘い痺れに、居ても立ってもいられなくなる。

どうしよう、どうしよう。

もうここから逃げ出してしまいたい。


ついに腰を上げようとした私の、今度は両腕が掴まれて引き戻される。

「あ…」

「逃げるなよ」

両方の二の腕から、また新しい感覚が這い出す。

その感覚から逃げるようにギュッと目を瞑るけれど、逆に感覚が研ぎ澄まされたようで居たたまれない。

慌てて目を開けば、今度は目の前に室長がいて、別の意味で慌ててしまう。

「なぁ、俺の手はさ、普通の手だよ。それでもひよこがこんな風になるのは、どうしてなの」

「ど、ういう…意味ですか」

「…俺の手を見てる時、自分がどんな顔してるかわかってる? それにさっきから俺が触るたび、どんな顔してるか気づいてる?」

わかっているから、だから逃げ出したいのだ。

室長もそれをわかっていて、それでもそうやって聞き出そうとする理由は何?

「もう、離してください…」

「どうして」

「室長は、わかってるじゃないですか! なのに、ひどいです。私のことなんか何とも思ってないんだから、面白がらないで、放っておいてください」

手は緩まない。

外してほしくて、体を捩ろうとするけど、びくともしない。

そのかわり、笑いを含んだ溜息が落ちてきた。

「強情だな。俺が何とも思ってないって、なんで決めつける?」

「え?」

「ほんっと“ひよこ”だよなぁ。普通何とも思ってない子のこと会社で渾名で呼んだりしないし、

 残業の時わざわざ一緒に残ろうとか、隣でメシ食いたいとか、絶対思わないと思うんだけど」

「え、あれ? 残業って、私のときだけですか、最後まで一緒に残ってくれてたのって…」

「…気づいてなかったのかよ。あれだけ俺のこと見てたのに、ほんとに手ばっかり見てたんだな」

ひどい言われように思わず口を尖らすと、そこにちゅっと軽く唇が触れて、驚いて仰け反る。

室長の顔は、もう面白くて仕方がない、っていう雰囲気がありありと浮かんでいて、ちょっとむかつく。


あぁ、それにしても、いつから私の視線に気づいていたのだろう。

素直にその疑問をぶつけてみると、室長は少しだけ苦笑した。

「最初から。というより、そもそも俺が見てたんだよ」

「は? なんですか、それ」

「だからさ。俺のほうが先に好きになってたってことでしょ。

 そしたらいつ頃からか逆に視線感じるようになって、最初は半信半疑だったけど当確っぽかったから。

 あーあ、言わせてみたかったんだけどな。結局俺が言わされたか…」

いつ頃からか、って言うけれど、私が室長をつい見てしまうようになったのは、もうずいぶん前からだ。

ということは、それよりもはるかに前から室長が私を見ていたということになる。

そういえば、残業をし出してから一度もひとりきりになったことはなかった。

「…信じられない」

「ははっ、でも本当だし」

「だって、実はゲイじゃないか、とか噂されてたりしてましたし」

「はぁ? それ信じてたのか」

「え、いや…その、まさか、とは思ってましたけど」

根も葉もない噂に大げさな溜息をつく室長を見ながら、だんだんと驚きが落ち着いてくると、今度は嬉しさがこみ上げて来る。

しかも、これからは堂々と見てもべつに咎められたり焦ったりする必要が無いんだと気づいて顔が緩んだ。

「お前、今なんかよからぬこと考えてないか」

「えっ?」

「どうせ、今度から見放題とか思ってたんだろ。妄想だだ漏れ」

ほとんど当たっている言葉に、ぎくりとして室長を見上げる。

室長は擬態語で言うとまさに“にやり”という顔をして、私の腕を掴んでいた手を微妙に動かした。

撫でられるような感覚に、落ち着いていたはずの甘い痺れがまた這い出す。

「あ…」

「やっぱり、いいなぁその顔。まあ、今度から俺も触り放題ってことで、おあいこだな」

おあいこ、って。

私が見るのとじゃ、全然レベルが違うんですけど。

相変わらず触られたままで、ぞくぞくする感覚に耐えている私は、口を噤んだまま心の中で抗議するが、聞こえるはずなんてない。

「バカな噂も、嘘だって思い知らせてやるよ。そのうち」

不穏でアヤシげな言葉に、さらにぞくりとさせられる。

室長は立ち上がると、私の肩をぽんっと叩いて、ついでに耳たぶを軽く抓んでから自分のデスクに戻っていく。

「とりあえず、レポートが先ね」

私は、耳を押さえてデスクに突っ伏してしまった。

室長は絶対ドSだ。

こんなんじゃ、仕事なんてできやしない。

室長の小さな笑い声が聞こえて、なんでこの人を好きになってしまったのだろうと本気で考えてしまった。


オフィスラブです。

とある残業日のシーンでした。

ステキな上司がいるって、いいですね…(遠い目)。


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