失くしたはずのリモコン
“ブックカバーの裏側”アナザーサイドです。
しばらく仕事が忙しくて、ゆっくり会う暇も無かった。
久しぶりに取れた土曜休みに、どこかへ出かけようかと言ってみたが、家でのんびり過ごしたいと言われた。
どうやら、疲れているだろう俺を気遣ってくれているらしい。
基本わがままなくせに、かわいいことをしてくれる。
「DVD借りてきたよ」
「あぁ、なら、こっち」
DVDプレイヤがあるにはあるのだが、デスクトップのPCを指す。
「なんで?」
「壊れてるんだ。本体のボタンが効かない。リモコンは失くしたし」
「ふぅん?」
それ以上追及せずに素直にPCにディスクを挿入し、始まった映画に早くも釘づけの恵奈(えな)の肩をそっと抱く。
少し前までは、許されなかったことだ。
壊れたDVDプレイヤの中から取り出せないままでいるディスクを思い浮かべて、俺は恵奈に気づかれないよう苦笑を零した。
幼馴染みは、家族にカテゴライズされることのほうが多い。
恋愛対象になっても、それは多くの場合片側通行で、関係を壊したくないがために相手に伝えることさえできないものだ。
かくいう俺もそのタイプで、ぐずぐずに甘やかしていたにもかかわらず、言えなかった気持ちは一欠けらも伝わってはいなかった。
今から三年ほど前のことだ。
「結婚するんだぁ」
彼氏ができた、とかいう段階をすっ飛ばして、恵奈は無邪気に報告してきた。
いつの間にそんな相手ができていたのか、何も知らなかった俺は、就職活動で忙しくしていた自分を恨んだ。
けれど確定事項が覆ることも無く、恵奈はその数か月後に本当に結婚してしまった。
「幸せに」
生まれてからずっと一緒に過ごしていたのに、22年間ずっと何も言えなかった俺の、せめてもの一言。
真っ白なドレスで眩しいくらい綺麗だった恵奈は、その言葉に素直に笑顔を見せた。
だけど、恵奈。
あれは祝福の言葉なんかじゃ、なかった。
幸せになって欲しい気持ちは本物だったけれど、それは決してあの男の横で笑う事なんかじゃなくて。
俺が、そうしたかった。
俺の気持ちなんて、少しも知らなかった恵奈が、ほんの少し憎くて。
恵奈に何も伝えられなかった自分が、恨めしくて。
それでも往生際悪く、あの男と別れて、俺に振り向けばいいと思っていた。
結婚式の前日が終わる最後の瞬間まで、その日が来なければいいと願っていた。
だから、あれはきっと、本当は呪いの言葉だったに違いないのだ。
恵奈の結婚式のDVDは、おせっかいな母親が持ってきた。
俺を見る目に、僅かながら憐れみを感じた俺は、不機嫌を精いっぱい隠して受け取った。
三か月経っても、心は鈍く痛む。
恵奈との写真も想い出も何もかも、気持ちと一緒に封印したのに、そのはずなのに。
自動で再生がスタートした、ディスプレイいっぱいに映るあの日の恵奈が、笑うのを見ていられない。
リモコンの停止ボタンを押した。
思いなおして、もう一度再生ボタン。
けれど、やはり停止ボタンを押す羽目になる。
「…馬鹿だろ」
今更だ。
いい加減、受け入れなければならないのだ。
一度目を瞑り、長く深く、胸の内を吐き出すように息を吐き尽くすと、再生ボタンを押した。
式の最中は目を背けていた誓いのキスも、今度は目に焼き付ける。
見れば見るほどに、恵奈は幸せそうに笑っている。
再生が終わり、メインメニューに戻ったところで、俺は停止ボタンを押した。
ディスクを取り出すのも億劫に感じるくらい、体中から力という力が抜けたような気がしていた。
どうせなら、俺がもう後悔するのも馬鹿らしいほどに、あの男と幸せになればいい。
そうすれば、俺が恵奈を忘れることも、情けなかった俺自身を忘れることも、もっときっと簡単になる。
そうなればいい。
そうなるべきだ。
そうなってもらわねば。
そうして、言い聞かせた俺を嘲笑うように。
「なんだか、恵奈ちゃん…大変みたいよ」
たまに実家に帰った俺には、その都度おせっかいな母親からいらぬ情報が吹きこまれた。
結婚してまだ一年も経っていないのに、既に女性問題が噴き出しているらしい。
それも、相手はひとりではないとか。
言われてみれば、披露宴で新郎側の招待客も女性がわりかし多かったような気がする。
まぁ、それも今更なのだが。
俺の反応が薄かったためか、母親は俺が冷たいと言ったが、俺は俺で、封をした気持ちを破るまいと必死だっただけだ。
何度もそれが繰り返され、やがて、恵奈が離婚することになったというのも、母親から聞かされた。
あの時の気持ちは、何とも言えない。
家に戻った俺は、恵奈の結婚式のDVDをもう一度再生した。
二度と見るまいと、二度と恵奈を想うまいと、そう思っていたのに。
ディスプレイに映る恵奈は、間違いなく笑っているのに、俺の頭の中で、泣き顔に変換される。
あんな男と一緒になるからだ、という恵奈に対する燻った怒り。
恵奈を俺から取り上げたくせに、というあの男に対する卑屈な憤り。
何も言えずにただ送り出した、それどころかまるで呪いのように一時でも不幸を願った過去の俺に対する、猛烈な後悔。
こんなことを望んでいたのではないのに。
決して、そうではなかったのに。
説明のつかないあらゆる感情が一気に噴き出して、大声で叫び出したくなった。
口を開いて、けれど言葉にならなかった声のその代わりに、手からリモコンが飛び出た。
壁にぶち当たって電池の蓋が外れたらしい、飛び出した電池がこちら側に転がって、床に落ちた。
本体は、ローボードの裏側に落ちたのか、視界から消えた。
あの時から、DVDプレイヤは意味をなしていない。
玄関を開けると、明るい照明と恵奈の揃えられた靴が目に入って、口元が緩んだ。
平日の夜でも、恵奈はよく食事を作りに来てくれるのだが、今日もいるらしい。
いつもドアの音にすぐに気付く恵奈だが、今日は反応が無い。
廊下を進んでいくと、映画でも見ているのか、音が漏れ聞こえる。
たまには驚かせてやるのもいいか。
「ただいま」
後ろから声をかけると、不自然に、びくりと肩が揺れた。
と同時に、けたたましいテレビの音がわっと鳴り響く。
「おか、おかえり」
明らかに挙動不審な恵奈に、浮き立っていた気持ちは影をひそめ、俺は口を噤む。
今、恵奈は何を見ていた?
急にテレビ画面に変わったのなら、録画していた何か?
いや、ハードディスクに残っているのは、贔屓にしている海外リーグのサッカーチームの試合くらいだ。
恵奈の趣味に合うものなんて、無い。
それなら、一体何を。
考えながら恵奈に近づいた俺は、固まったように動かない恵奈の指の中にある物に目を見開いた。
「それ……」
拾ったのか、とは言えず、かといってどこにあったのか、などと白々しく問うのも憚られ、その先の言葉を失う。
どこにあるのか本当はわかっていたのにそのままにしていたものだから、それを知らなかった恵奈にはどの言葉も不適当だ。
それは、失くしたはずの、失くしたことにしていたはずの、リモコン。
先に動いたのは、恵奈だった。
「リモコン、あったよ。後ろに落ちてて。あ、電池勝手に入れちゃったけど、よかったよね? なんか、蓋ちょっと割れてたけどまだ使えるし」
口だけが勝手に動いている、そんな感じ。
俺に話しているようでいて、視線は決して合わない。
動揺の理由は、痛いほどわかる。
恵奈は、過去の事情を激しく後悔していて、しかも、俺に対して、必要も無い負い目を感じているきらいがある。
恵奈が簡単に見つけられるような場所にあったリモコンだ、俺がわざとそのままにしていたのだろうと、きっと悟っている。
しかも、割れた蓋は、故意に投げつけられたせいだと簡単に予想がつくだろう。
それに加えて、中に入っていたディスクがあれでは、極めつけというものだ。
「恵奈」
呼びかけに、恵奈は少しだけこちらを向いた。
けれど、未だ戦慄く唇から、言葉が止まらない。
「も、びっくりしちゃったぁ。だってもう無いわよ、このDVDどこにも。全部捨てちゃったし、みんなにも捨ててもらったし。まっさか啓都(ひろと)が持ってるなんて、知らなかったわ。ほんと、知らなか…っ」
「恵奈」
もう一度強く名前を呼ぶと、ようやく恵奈は言葉を切った。
手からリモコンを取り上げ、恵奈を抱き寄せる。
髪を撫で、言い聞かせるように額に唇を押しつけているうちに、体を強張らせていた恵奈はおとなしく力を抜いて俺にもたれかかった。
普段は気が強そうにしているくせに、こんな時は痛々しい泣き方をする。
声も出さずに涙だけ流す、それも、優しくされた時にだけ。
不器用な奴。
昔は、もっと素直に感情を出すほうだと思っていたのに。
いつからこんな風になってしまったのか。
あの男のせいか、それとも…俺のせいか。
しばらくしてようやく涙の止まった恵奈は、けれどまだ俯いている。
俺は、リモコンのエジェクトボタンを押してディスクを取り出すと、そのままシュレッダへ投下した。
唸るモータ音に、バリバリという音が重なって、驚いた恵奈が顔を上げた。
ディスクは、三つに切断されている。
「これで、ほんとにもうどこにも無いな」
言い含めるような言葉に、恵奈はゆるく笑った。
心臓が、握りつぶされたみたいに、痛む。
俺が煮え切らないばかりに、恵奈を辛くさせた。
しかも、何度も。
恵奈が自分を責めることくらい、わかっているのに、知っていたのに。
「…ごめんな」
「なんで、啓都が謝るの」
「俺が、悪い」
「何…が?」
全部だ。
いつだって、俺からは何もせず、恵奈を甘やかすふりをしてその実俺が甘えていた。
俺は何も選ぼうとせずに、恵奈に全てを押しつけていた。
無責任で、傲慢で、狡い。
けれど、言葉にできなくて、恵奈を見つめた。
多分、今の俺は、そうとう情けない顔になっている気がする。
キスが、したい。
またそんな狡い考えが浮かんで、その自覚のゆえに打ち消そうと、恵奈の唇に向く視線をまぶたで遮断した。
触れないはずだった唇が、触れたのはその直後。
驚いて目を開けた俺の視界に、また涙ぐんでいる恵奈が映った。
「恵奈?」
「…許す、って言って」
「は? 何が、謝ってるの俺だし」
「いいから、言ってよ。全部許す、って言って」
「…全部、許す」
「ほんとに? ほんとに、全部許す?」
意味を図りかねつつも言った後のしつこいくらいの確認に、過去のことか、とようやく思い至る。
俺が謝っていたはずなのに、なんで俺の方が偉そうに許すとか言っているのか。
「なあ、そうじゃなくて」
「許してくれないの?」
反論を許さない雰囲気に、仕方なく黙って恵奈の言う通りにすることにする。
「許す。ほんとに、全部許す。…とっくに許してた」
微笑んで聞いていた恵奈は、最後のひと言に少しだけ目を見開いて、鮮やかに笑った。
そのまま、恵奈が抱きついてくる。
俺を宥めるような、甘い声が耳元で聞こえた。
「じゃあ、私も啓都のこと許す。全部、許してあげる」
結局、それが言いたかったんだな。
何が悪かったのかも言えないでいる俺に、気にしていないのだと納得させるためだけの、免罪符のやり取り。
「…ばかだな、恵奈」
「なにが?」
「お前は、俺に甘過ぎるよ」
「それは啓都のほうでしょ」
「いや、お前だよ」
「だから、啓都だって」
そうやって、延々繰り返し言い合って、俺も恵奈も譲らずに最後は結局お互い噴き出して笑ってうやむやになった。
どちらからともなく、惹きあってキスを何度も繰り返した後。
不思議とこれまでと雰囲気が違って感じる。
それに気付いた俺も恵奈も、お互いになんとなく照れくさいような気分になった。
「…DVD見る?」
「そうだな。こっちで見るの久しぶりだわ」
「リモコン見つけてあげたの、感謝してよね」
「はいはい」
おざなりに返事をしながら、恵奈の借りてきていたDVDを挿入する。
見ないふりをしていた心の中のわだかまりは、今になってようやく昇華したのだと思う。
今度こそ、間違えない。
決意めいたものを思いながら、横でディスプレイを見つめる恵奈のこめかみにキスをする。
誓うように何度か繰り返していたら、邪魔するな、とでも言うようにリモコンで叩かれた。
けれどその頬も耳までもうっすらと上気しているのがわかって、俺は笑いをかみ殺す。
そして、陰の無い恵奈の表情に、思う。
もう、大丈夫だ。
俺は、恵奈は、俺たちは今度こそ、間違えることはない。
短編は通常、続編みたいなのは書かない主義なんですが。
このふたりはどうしても書きたい気になっちゃいまして…。
今度は啓都サイドで。
なかなかにヘタレな感じにできあがりましたが、わりと好きな子ですw