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半径2M以内で  作者: ミナ
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ブックカバーの裏側

午後9時20分。

今日はやけにいつもより遅いな、と焦れつつ帰りを待つ。

和食好きなヤツのためにせっかく煮物を作ったというのに、それはもうテーブルの上で冷めてしまっている。

メールでもしてみようか、と一瞬思ったが、そのすぐ一瞬後には既に後悔していた。

なんで私が。恋人でもないくせに。

自嘲気味に笑ったとき、玄関からロックを外す電子音が聞こえ、ドアの開閉の音が続いた。


「おかえり」

啓都(ひろと)は“ただいま”を返さない。

それは今日だけでなく、初めてこの部屋に来て以来、ずっと続いている事象だ。

挨拶の代りにひそやかな、それでいてはっきりとした溜息。

「…なんでまたいるんだよ」

「今日は煮物だよ。好きでしょ?」

答えになっていない答えに、啓都の目がちらりとテーブルに向く。

席に着いてくれるかと、少しばかりの期待はすぐに裏切られた。

「メシ食ってきたし。明日早いから風呂入って寝る。お前はもう帰れ」

「…明日土曜じゃん」

休みの日に早く出かける用事なんてないくせに、と言外ににじませたのに気づいたらしい。

バスルームに向かいかけていた啓都は、軽く顔を顰めて振り返った。

「おい、出戻り。俺はさみしいお前と違って、休みに出かける相手も用事もあるんだよ」

「出戻りって言わないで!」

苛っとしてつい大声を出した私に、啓都は疲れたように溜息をついて、今度こそバスルームへ行ってしまった。


出戻り、という言葉はふさわしすぎて嫌いだ。

一回りも上の人と大学卒業してすぐに結婚。

年上の人に憧れて、舞い上がって、早々に現実に突き落とされた。

派手な女性関係に疲れ果てて、2年で離婚。

結婚式の日に、まじめな顔で“幸せに”と言ってくれた啓都は、戻った私に殊更冷たかった。

周りの人のように形だけの励ましや慰めさえくれず、ただただ、冷たい。


啓都は幼馴染みだ。

実家は間に1軒挟んだ同じ階のマンション。

誕生日は3日違いで、生まれた病院から大学までずっと一緒だった。

家族のような気軽さからしょっちゅう口喧嘩はしたが、それでも啓都は優しかった。

私があんな馬鹿な選択の誤りさえしなければ、多分今でもそのはずだった。

ひどく疲れていた日々に、気づけばいつも思い浮かべていた啓都の優しさは、今はもうない。

それでもどうして啓都の部屋に出入りしているかといえば、幼馴染みの恩恵だ。

啓都の母が、啓都もひとりだし、暇なら時々食事でも作りに行ってやって、と鍵をくれたのだ。

初めて鍵を使った日、啓都は返せと言ったけれど、おばさんにもらったものだ、と言い訳して返さなかった。

今までも、何だかんだと言いながら啓都は私のわがままを聞いてきた。

それが当然という身勝手な習慣が抜けない私は、幼馴染みという藁に縋っている。

案の定、啓都はそれ以上鍵のことは何も言わなかったし、多重ロックのための暗証番号も変えなかった。

勝手に作った料理も、何も言わずに食べていた。昨日までは。


やけに遅い帰り、手つかずの料理、休日のお出かけ。

想像したくない答えが弾き出される確信にも似た予感が、胸をざわつかせる。

「女…?」

思わず自分で言葉にしてしまったその答えに、思いの外衝撃を受けた。

落ち着こうと、部屋を見回す。

私はそれまで、啓都のもの以外何もない、誰の影も見えないこの殺風景な部屋に拠り所を見出していた。

それなのに、今はそうは思えなかった。

啓都に拒絶され、見放されたような、眩暈に似た気分の悪さに襲われる。

最後に目に入ったのは、部屋の片隅に置いてある鍵付きの箱。


何事にも例外はあるものだ。

殺風景なこの部屋の片隅にあるその箱は、啓都のものではないものが入っていると思われる。

物騒にも南京錠までかけられたその箱が、唯一私の知らない誰かの影を知らせる。

こんなときに、そんなものが目に入るなんて。

啓都が完全に私を放り出すという例外が、すぐ目の前に迫っている気がした。


気分が悪い。

私は立ち上がり、テーブルの上の料理をゴミ入れに投げ捨てた。

その惨めな姿が、自分と重なる。

例外は目前なのではなく、もしかしたら既に起こったのかもしれない。

恐ろしい想像に追い立てられるように、まだ続いていたシャワーの水音を背に部屋を出た。


啓都の部屋に行くのは平日の夜だけだ。

啓都が誰かと出かけたはずの土曜日は、啓都の傍の自分でない誰かのことを考えて苛々と過ごし、

日曜日になる頃には、そんな自分自身に呆れて疲れ切っていた。

こんなことになってようやく、自分の中の確かな気持ちに気付くなんて。

開いた口がふさがらないとはこのことだ。


そして月曜日。

沈んだ気持ちのまま、それでも意地のように啓都のマンションへ向かった。

決定的な言葉を聞くまでは、なんて馬鹿馬鹿しい言い訳をする。

心なしか震える手で鍵を差し込み、暗証番号を入力する。

ロックが外れる電子音にほっとしたりして、自分がいよいよ腹立たしい。


部屋は金曜日とほとんど変わっていなかった。

土曜日の誰かの影を見せつけることなく、相変わらず啓都のものだけが広がっている。

変わっていたのは、私が料理を捨てたゴミ入れが空になっていたこと。

そして、例の“例外の箱”がリビングから姿を消していたこと。


捨てたのか、それともどこか別の部屋に移動したのか。

“例外の例外”もあるのだろうか。

好奇心が抑えきれなくなった私は、そろそろと部屋を移動し始める。

啓都が書斎として使っている部屋のドアをそっと開け、中を覗いてみたが、箱は見当たらない。

もう一つの部屋は、ベッドルームだ。

さすがにそこを覗くのは憚られたが、好奇心には敵わない。

恐る恐る覗きみると、ベッドの傍のローテーブルの上に、果たして箱はあった。


箱の蓋は閉じられている。

けれど、付けられていた南京錠は切断され、箱の脇に無造作に放られていた。

蓋を開けようとして手を伸ばしたが、やはりそれは許されないだろうと引き戻す。

“例外の例外”を期待している自分が哀しくもあり、そんな自分を断ち切るようにリビングへ戻ろうとした。

だが慌てたせいで勢い余ってつんのめってしまい、縋ろうと伸びた手の先はその箱。

床に倒れこんでしまった私のすぐ横に、手がぶつかってぐらついた箱が落ちてきた。


ガツッ。

箱の角が床にぶつかり、その衝撃で蓋が外れて中身が床にぶちまけられる。

倒れていた私の手に触れたのは、紙。

小さな長方形、つるつるとした手触りのものが、何枚も。

「…写真?」

起き上がりそれを見れば、小さなころから大学のころまでの、私と啓都の写真だった。

何枚も何枚もあるそれらは、確かにこの大きな箱一杯に詰まっていたと想像は難くない。

「でも、なんで…?」

写真を、わざわざ鍵を付けた箱に入れる必要性はどこにあるのか。

切断された南京錠は、鍵をわざとなくしていたためとも取れる。

そんな必要性が、私との写真になぜあったのか。

写真を箱に戻しながら考えるが、予想さえできない。


そのとき、ビビッドなドット柄が目に飛び込んだ。

写真に相応しくないその色に、私は弾かれたように反応した。

それは、昔はまって、いろいろな本に着けていたブックカバーだ。

そういえば、啓都に貸したまま返ってこなかった本が一冊あったのだった。

本を手にし、タイトルを確かめるようにカバーを外す。

「封印再度…懐かし」

自分の記憶が間違っていなかったことに、小さく笑いが漏れる。

どんな内容だったっけ…とページを捲ろうとした時、扉に隠れたところに黒い点が見えた。

気になってさらにカバーを外すと、明らかになる黒い点の集合。


“君想う 20XX.5.4”


「な、に…これ」

それは、間違えるはずもない、何度も目にしたことのある啓都の筆跡だ。

そして日付は、私の散々に終わった結婚の始まりの日だ。

心臓が、いやな音で鼓動する。

本当に、見てはいけないものを見てしまった気分だった。

鍵をかけて“封印”したものと、それが鍵を壊した今持つ意味とは何なのか。

確かな意味を独りでは掴めきれないことも、私を焦らせる。

私はその本を手に握りしめたまま、茫然と空を睨んだ。


真っ暗な世界に、急にオレンジ色の光が差し込み、目が眩む。

それがリビングの照明だと気づいて、私は慌てた。

茫然としていた間に、とっくに陽は暮れ夜の時間になっていたらしい。

啓都が帰ってきたのにも気づかなかった。

立ち上がりかけたところで、啓都が部屋に入ってきてしまった。

「ひ、ひろ…」

「何してる」

不機嫌そうに私を見やった啓都は、私の手にしていたものを見て目を剥いた。

「…お前、見たのか」

「あ、ごめん。わざとじゃ…」

最初は見ようとしていただけに、小さな声になってしまう。

啓都はもう一度ゆっくりと聞いてきた。

「見たのか」

私は、もう声も出せずに小さく頷いた。

その途端、啓都は大きく息を吐き出して床にしゃがみ込んでしまった。

驚いて啓都の傍に行くと、啓都は手で顔を覆ってしまう。

「啓都?」

「見るなよ」

「え? あ、ごめん…。あの、ぶつかって落ちちゃって、それで…」

言いながら啓都を覗きこむ私の顔に、啓都が手を伸ばす。

「じゃなくて、今俺を見るな、って」

「な、なんで?」

啓都の指先が顔に少しだけ触れて、私は図らずして声が震えた。

掴みきれなかった意味が、鮮明な形になった気がしたからだった。

顔の前に翳された手の指の隙間から見える啓都は、リビングの光の色を差し引いても、赤みがかっている。

「…かっこわりぃ」

くぐもった声でごちた啓都が、それが正解だと告げていた。


いつもの不機嫌そうな冷たい物言いじゃなく、拗ねたような物言い。

昔の優しい啓都の、穏やかな物言い。

それに気づいて、急に涙が出た。

冷たくされた時には出なかったのに、今になって溢れた。


うれしい。うれしい。うれしい。

渇いていた心が、急速に満たされていく。

満たされて、溢れ出して、涙となって零れ出したのだ。

その水滴が、啓都の指に当たり、驚いて顔をあげた啓都と目が合う。

「なに、泣いて…」

「ごめん…」

「何が」

想いに気づかなくて。

幸せに、と言ってくれたのに、応えられなくて。

ずっと甘えてて。

他にも色々ありすぎて、何も言えなかった。

優しい声が嬉しくて、とにかく何か伝えたくて、咄嗟にキスをしていた。

唇と唇が軽く触れ合うだけの、中学生みたいなキス。

それすらも、震えるほどの緊張感。同時に、満足感。

「…すき」

喉が詰まって、掠れた声しか出なかった。

必死に、もう一度同じ言葉をどうにか舌に乗せるけれど、同じ声だった。

苦しくて、もどかしくて、どうにもできないでいた私を受け止めるのは、やっぱり啓都で。

宥めるように首筋をひかれて、背中をあやすように撫でられて、落ち着く。

「俺も、冷たくして悪かった。もうしないから、そんなに泣くなよ」

泣いた理由もわかってしまう辺りが、啓都らしい。

子どもに言うみたいな言い方に思わず笑った私に、優しい視線が注がれていた。


散らばった写真を片づけながら、そっと啓都を窺う。

視線に気づいた啓都が、小さく笑って私を抱き寄せる。

ローテーブルに寄りかかった啓都と向かい合わせの姿勢で、啓都の肩の先で南京錠が目に入った。

封印が破られて、切断された錠。

けれど、今封印したのは、似合わない冷淡さと、散々な過去だ。

破られない錠のある場所に、永久に。


ちなみに。

土曜日出かけたのは、単なる休日出勤でした。

見栄張っちゃった啓都は、お風呂を出て捨てられた料理を見て我に返る、と。

啓都サイドではそんな感じの動きがあったのでした。

ストーリーに生かせない力不足をひしひしと感じます…。


“封印再度”は実際にある小説ですが、中身とは関係ありません。

単に“封印”という言葉をかけさせてみたかったのです。それだけです。

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