白い結婚の旦那様が、ぬい作りの神様だった件
コルネリアが辺境伯領に着いたのは、冬の名残の風が吹く、よく晴れた午後だった。
幾日も馬車に揺られた先には、飾り気のない、けれど頑丈そうな石造りの屋敷が建っている。出迎えの使用人たちが並ぶ中央に、ひときわ大きな人影があった。
辺境伯ディートハルト。王都では「素手で魔物を投げ飛ばす」だの「笑った顔を見た者はいない」だのと、さんざんな噂のある人物だ。
(噂は、半分くらい盛られているはず)
そう思っていたのだが、実物を前にすると、盛られていない半分もなかなかの迫力だった。肩幅は扉ほどもあり、胸板は厚く、見下ろしてくる目つきは鋭い。
「……遠いところを、よく来てくれた」
低い声だった。コルネリアは裾をつまみ、丁寧に礼をした。
「このたびは、お迎えいただきありがとうございます。不慣れなことも多いと思いますが、よろしくお願いいたします」
「ああ」
辺境伯は短く答えて、ふい、と視線を逸らした。大きな手が、落ち着かなげに上着の裾を握っている。
「この結婚は、家同士の取り決めだ。君に、妻としての務めを求めるつもりはない。屋敷では好きにしてくれ。夜も、君の部屋を訪ねることはない」
あらかじめ用意してきた文面を読み上げるような、硬い声だった。言い終えると、辺境伯は口を引き結んで、じっと足元の一点を見つめている。
コルネリアはまばたきを一つして、胸の内でうなずいた。
(ああ、白い結婚というものね)
夫婦の務めは求めない。それだけ心に決めた方か、事情があるのだろう。貴族の結婚なら、よくある話だ。怒る理由も、嘆く理由も見つからなかった。家のための結婚だと分かって来たのだし、衣食住が保証されて自由に過ごせるのなら、むしろ上々ではないか。
「承知いたしました。政略結婚ですもの」
コルネリアは、にっこり笑った。
「お互い、好きに暮らしましょう」
辺境伯は、一拍遅れて「……ああ」とだけ答えた。眉が、ほんの少し下がる。きっと肩の荷が下りて、ほっとしたのだろう。
その夜、与えられた広い部屋で荷ほどきをしながら、コルネリアは鞄の底から画帳と炭筆を取り出した。
誰にも言っていないが、コルネリアには生まれる前の記憶がある。遠い国で暮らした、成人した女性の記憶だ。彼女は小さなぬいぐるみに着せる服を作るのが、何よりの楽しみだった。デザインを考えるのも、絵を描くのも、型紙を引くのも得意だった。ただ一つ、縫うことだけがどうにもならず、あの頃は便利な貼る道具に頼りきって、どうにか形にしていたのだ。
もっとも、この国に、ぬいぐるみを愛でる習慣はない。大人の女が人形を作って持ち歩けば、変わり者と言われてしまうだろう。ほどほどに、こっそり楽しめばいい。
(時間なら、たっぷりあるもの)
画帳の白い頁を撫でて、コルネリアは小さく笑った。
* * *
それからしばらくは、穏やかな日々が続いた。
夫は朝と夜の食事の席に必ず現れ、「口に合うか」「寒くはないか」といちいち律義に尋ねてくる。答えるたびに、ほっとしたような、それでいて少し落ち込んだような顔をするのが不思議だった。
その日、コルネリアは屋敷の長い廊下で、白い布切れが落ちているのを見つけた。
拾い上げて、思わず声が出た。
「まあ……」
ハンカチだった。縁に沿って、淡い青の小さな花が、ぐるりと連なっている。花びらの一枚ごとに糸の流れまで考えられていて、顔を近づけても粗が見つからない。裏返してみると、糸の始末まで恐ろしく整っていた。
(なんて綺麗な刺繍。きっと、とても丁寧に、心を込めて刺されたものだわ)
おそらく、これは贈り物だ。夫の大切な女性が、時間をかけて刺してくれたものに違いない。
そのとき、廊下の向こうから、どたどたと大きな足音が近づいてきた。
「そ、それは!」
現れた夫の顔は、いつもよりさらに強張って見えた。コルネリアがハンカチを差し出すと、ひったくるように受け取って、胸元にしまい込む。
「す、すまない。拾ってくれて……礼を言う」
「いいえ。素敵なハンカチですね。大切になさってくださいませ」
コルネリアは、心から言った。大切な人から贈られた品なら、なおさらだ。
「……あ、ああ。大切に、している」
夫の耳が、見る間に赤くなった。
(あんなに照れて。きっと、本当に大切な方なのね)
お邪魔にならないようにしなくては。コルネリアは一人でうなずき、そっとその場を後にした。背中に夫の視線が刺さっていた気がしたが、きっと気のせいだ。
* * *
数日後、コルネリアは念願の材料を揃えた。
侍女のウィルマに頼んで、倉庫の余り布を分けてもらったのだ。柔らかな霜羊の毛を織った霜羊布。きめ細かな白い雲綿織り。詰め物は、軽くてふわふわの綿雲草。糸は、月繭から紡いだ淡く光る絹糸。道具は、銀の待ち針に、骨の目打ち。
「お人形でございますか?」
「ええ。手のひらに乗るくらいの、小さなものを」
ウィルマは何か言いたげに口を開き、それからぎゅっと閉じた。
デザインは、すんなり決まった。炭筆を走らせれば、丸い頭に短い手足のぬいぐるみが、頁の上でころんと笑う。型紙も、薄い羊皮紙の上でぴたりと仕上がった。
(ここまでは、完璧)
問題は、その先だった。
待ち針で仮止めをして、針を通す。通したつもりだった。ところが糸はよれ、布はよじれ、縫い目は大きさがばらばらになる。ようやく縫い終えたと思って引っ張れば、ぴり、と音を立てて霜羊布が裂けた。
「ああっ」
何度やり直しても、縫い目は波のようにうねり、布はだんだん毛羽立っていく。それでも諦めずに綿雲草を詰めたところ、できあがったのは、ひょうたんのような、まんじゅうのような、何かの幼生だった。
「……か、かわいい?」
言ってみたが、無理があった。
それでも捨てる気にはなれず、コルネリアは幼生を机の隅に座らせた。めげてなどいられない。貼る道具のないぬい作りは初めてなのだ。上達するまで時間がかかるのは当たり前。次こそは、と夜ごと机に向かった。
一方、屋敷の使用人たちは、ひそひそと囁き合っていた。
「奥様、毎晩お一人で、何か小さなものを抱えていらっしゃるわ」
「やはり、お寂しいのでは」
「お子様をお望みなのかもしれないわね。旦那様とは、その……」
そんな噂が廊下を行き交っていることなど、コルネリアは知らない。ただウィルマだけが、くたびれた布切れが机に増えるたびに、唇を噛んでいた。
* * *
その夜更け、ディートハルトは居間の扉の前で、立ちすくんでいた。
夜の見回りの帰りに、ウィルマに「奥様が、今夜も……」と袖を引かれたのだ。のぞくつもりはなかった。けれど足が、止まってしまった。
扉の隙間の向こうで、妻が、机の隅の幼生に着せる小さな外套の袖を、縫い付けようと苦戦している。針の持ち方も、糸の引き方も、すべて間違えたまま、真剣そのものの顔で。
(そこは縫い代を折らないと、布がほつれる。針も、そんなに深く刺してはいけない)
頭の中で止まらない指摘を、ぐっと飲み込んだ。これは妻の趣味で、自分は関係ない。口を出す理由などない。
「いたっ。……もう、どうして言うことを聞かないの」
二度目の小さな悲鳴で、すべてが吹き飛んだ。
「待て。それでは指を刺す」
気づけば、扉を開けて入っていた。妻の前にひざまずき、その手から針を取っていた。
「あ……」
「針は、こう持つ。糸は引きすぎない。布の端を、少し内に折って――」
口が勝手に動く。指も動く。小さな袖は、見る間に身頃へ縫い付けられていった。縫い目は、ほとんど見えないほど細かく揃っている。
最後の糸を切ったとき、ディートハルトは、はっと我に返った。
(……しまった)
目の前に、ぽかんと口を開けた妻の顔があった。
終わった、と思った。屋敷の主が、夜中に人形の袖を縫っている。男らしくない。気味が悪い。呆れられる。身体の芯が、かっと熱くなった。
「す、すまない。これは、その、つい――」
「すごい!」
コルネリアが叫んだ。
「えっ、こんなに綺麗に縫えるんですか!? 待って、見せてください!」
小さな袖が、彼女の目の前でくるくる回される。縫い目に鼻がつくほど近づけて、また回す。
「どこが縫い目ですか!? 見えません! 魔法ですか!?」
「ま、魔法では……ない」
「裏も! 裏まで綺麗!」
はしゃぐ妻を、ディートハルトは呆然と見つめた。恐る恐る、口を開く。
「……気味が悪く、ないのか。俺のような男が、針仕事など」
コルネリアは、きょとんとした。それから、本気で首をかしげた。
「どうしてですか? こんなに素晴らしい技術が、気味悪いはずがありません。むしろ、尊敬します」
そして、はっとして、ぽんと手を叩いた。
「もしかして、あのハンカチも!」
「…………ああ。俺が、刺した」
「やっぱり! てっきり、大切な方からの贈り物かと思っていました」
「贈り物? 誰が、俺などに」
言ってから、ディートハルトは気づいた。この勘違いは、どこから生まれたのか。
「そういう相手は、いない。……君がそう思っていたのなら、すまなかった」
ディートハルトは拳を握った。ついでに、もう一つ詫びなくてはならないことがある。
「最初の日も、あんな言い方をした。君が怖がらないように、近づかないつもりだったんだが……下手だったな」
不器用な告白に、コルネリアは目を丸くして、それから、ふわりと笑った。
「そうでしたか。もしや、お一人がお好きなのかと。気を遣ってくださっていたのですね」
「……遣えていたかは、怪しいが」
「少なくとも、お優しい方だということは伝わりました。あと旦那様は、刺繍の名人なのですね」
名人。
そんなふうに呼ばれたのは、生まれて初めてだった。胸の奥で、何かが小さく、ことんと音を立てた。
* * *
翌日から、居間の机には、二人分の椅子が並ぶようになった。
コルネリアが広げた画帳には、昨夜の袖が付くはずだった外套の、完成形の絵が描かれていた。フード付きで、襟には丸い飾り釦、胸には小さな隠しポケット。ぬいぐるみに着せるための、手のひらほどの服だという。
「ぬい服、と呼んでいるのです」
「ぬい服」
ディートハルトは、その響きを口の中で転がした。
型紙は、驚くほど細かかった。布の目の向き、縫い代の幅、釦穴の位置まで、美しい線で書き込まれている。この才能を、なぜ縫うことには授けなかったのか、神に問いたいほどだ。
「ここは少し布を重ねたほうが、丈夫になる。内側に折って、細かく返し縫いを」
「なるほど。では、フードのここは?」
「そこは、裏地を先に付けたほうが、形が崩れない」
針を動かすたびに、コルネリアが「ふむふむ」と真剣な顔でのぞきこむ。その近さに心臓が跳ねるのを、ディートハルトは気づかないふりをして、針を進めた。
やがて霜羊布の小さな外套は、手の中で形になった。丸い釦はきゅっと揃って縫い付けられ、隠しポケットの口は端正に整っている。
「……できた」
差し出した瞬間、コルネリアは外套を両手で受け取って、ぷるぷると震え出した。
「か、完璧です。わたしが描いた絵より、ずっとかわいい……」
外套を抱えたまま、コルネリアは机の隅の幼生をつかんできた。
「試着役を務めてもらいます。形には目をつぶって」
幼生に外套を着せてみて、ディートハルトは言葉を失った。
幼生は、外套に飲み込まれていた。フードは顔まで落ち、片方の袖は長すぎて、手がどこにも見えない。もう片方は、半分だけ指先がのぞいている。
「……着ている子のほうは、これでいいのか」
「服は完璧です! 着ている子が、悪いんです!」
コルネリアは外套の襟を整えて、うっとりと眺めた。ぶかぶかの袖を持ち上げても、気にする様子はない。
「形も、釦も、ポケットも、全部わたしの理想のとおり……」
それから、ばっと顔を上げた。若草色の瞳が、きらきらと輝いている。
「あなたが神か……!」
「…………は?」
「だって、こんな服、わたしには一生縫えません! 頭の中にしかなかったものが、本当にここにあるんです! ありがとうございます、ディートハルト様! あなたは神です!」
神。
男の趣味ではないと、ずっと隠してきた針仕事を、こんなにも手放しで褒められた。
(褒められた……! 嬉しい……!)
顔がにやけそうになる。いや、いけない。威厳が崩れる。ディートハルトは口元を引き結んで、いつもの顔を保とうとした。完全に失敗していることに、本人だけが気づいていない。
その夜。
執事のホルストが、湯気の立つ茶を置きながら、いつもより長く咳払いをした。
「旦那様。今日は、ずいぶんと嬉しそうでございましたな」
「……そう見えたか」
「ええ、それはもう。わたくしも、ウィルマも、フロリアンも、笑いをこらえるのに苦労いたしました」
ディートハルトは、カップを持ったまま動きを止めた。
(……待てよ)
彼女は、俺の腕前を褒めてくれた。あれほど喜んでくれた。けれど、神だと言われたのは、針を持つ手に対してではなかったか。
(あれ? 彼女が褒めているのは、俺の針仕事の腕だけなのでは……)
「旦那様」
老執事の声に、呆れが混じった。
「旦那様、不甲斐のうございます! 奥様は、見知らぬ辺境で、あれほど明るく笑っておられるのですぞ。腕前を褒められて喜んでいるだけでは、いけません」
壁際で控えていた側近のフロリアンが、気の毒そうに付け足した。
「奥様は健気ですよ、旦那様。毎晩、あんなに頑張ってらしたんですから」
「い、いや……いいんだ」
ディートハルトは、ぐっと拳を握った。
「あの人の役に立てるなら、それでいい。それで、十分だ」
(……でも)
十分だと言い聞かせる声の後ろで、別の声が、小さく手を挙げていた。
(でも、少しだけ。腕のほかにも、見てもらえたら)
* * *
服は完璧。となれば、次は、それを着る本体だ。
幼生には、しっかり試着役を務めてもらった。本命の子の頭と胴は、夫が型紙どおりに、あっという間に縫い上げてくれた。あとは顔だけだ。
コルネリアは画帳の新しい頁に、顔の指示絵を描いた。刺繍のできない彼女の絵は、いたって簡素だ。丸い目が二つ、少しだけ吊り上がった線で。口は、小さく一文字で、端がほんの少し上がっている。
「ここが目です。少しだけ、吊り目にしたいんです。でも、怖くならないように。きりっとして、でも優しい感じで」
「……難しいことを言う」
「あなたなら、できます」
ディートハルトは絵を長いこと見つめ、それから黙って針に糸を通した。選んだのは、深い藍色の糸だった。髪にあたる布は、夜のように黒い霜羊布。どちらもコルネリアが選んだ組み合わせである。
前世で、とても好きな物語があった。黒髪に藍の瞳の、無口で優しい騎士が出てくる話だ。ぬいぐるみを作るなら、あの色がいいと、ずっと思っていたのだ。
夫の真剣な横顔は、普段の強面が不思議なほど穏やかだ。その手が、一針、また一針と、針を進めていく。見ているだけで、こちらまで息を詰めてしまう。
「……見られていると、手元が緊張する」
「あっ、すみません。お茶でも淹れます!」
「いや、いてくれ」
夫が、ぽつりと言った。
「そばに、いてくれていい」
それがどういう意味かは深く考えず、コルネリアはいそいそと隣に座り直した。
やがて、ぬいぐるみの顔が、ぱっと息を吹き込まれたように完成した。きりりと吊り上がった藍色の目。意志の強そうな眉。きゅっと結んだ口元は、どこか不器用そうで、けれど優しい。
コルネリアは、息を忘れて見つめた。それから、そっと外套を着せてみる。すると今度は、袖から小さな手がちょこんと顔を出した。
「ぴったり……!」
服は、最初から完璧だったのだ。
「か、かっこいい……!」
思わず、夫の手をつかんでいた。
「すごい! わたしの描いた線より、ずっと良いです! 目の力が、まるで生きているみたい! やっぱり神です!」
「か、神は、やめてくれ」
「では、神様の手です!」
「……それも、やめてくれ」
夫の耳は、真っ赤だった。
そこへお茶を運んできたウィルマが、ぬいぐるみを見て、ぴたりと止まった。ぬいぐるみと夫を、交互に見る。その後ろで、ホルストが不自然な咳払いをした。フロリアンが「黒髪に、藍の……」と呟いて、ホルストに足を踏まれていた。
(どうしたのかしら。みんな、ぬいを見て固まっているわ)
あまりのかわいさに、驚いたのだろう。コルネリアは鼻高々で、ぬいぐるみを掲げた。
「この子、素敵でしょう!」
「ええ、とても……よく、似て……いえ、とてもお上手で」
ウィルマの声は、震えていた。ディートハルトは何も言わず、窓の外を見ている。耳は、まだ赤いままだった。
* * *
その夜、ディートハルトは眠れなかった。
眠れないときは、針を持つ。昔からの癖だった。屋敷の奥の小部屋でろうそくを灯し、余り布を広げて、何を作るという考えもなく、ただ手を動かす。
はずだった。
気づくと、柔らかな栗色の毛織りを選んでいた。同じ色の糸で、丸い頭を縫う。胴を縫う。小さな手足に、ぎゅっと綿を詰めて形にする。
顔の刺繍に入ったとき、指が止まった。若草色の糸を、手に取っていたからだ。
その糸で、丸い目を二つ、ふんわりと刺す。口元は小さく、ほんの少し上げて。そして頬の片側に、糸を一針だけ、くぼませるように引いた。
(……えくぼ)
栗色の髪。若草色の瞳。笑うと頬に浮かぶ、えくぼ。
見たことがあるどころではない。毎朝、食卓の向かいの席に座っている人だ。
ディートハルトは、手のひらに乗るほどの小さな女の子を、長いこと眺めていた。
(無意識だった。本当に、無意識だったのだ)
それなのに、一針ごとに、彼女の笑い方を思い出していた。指示絵を描くときの、少し尖らせた唇。外套を受け取って震えていたときの、きらきらした瞳。
顔が、かあっと火照った。誰も見ていない部屋で、大の男が、ぬいぐるみを抱えて一人で赤くなっている。
捨てることも、隠すこともできなかった。
あくる朝、ディートハルトは胃を重くしながら、そのぬいぐるみをそっと居間の机に置いた。
ほどなくして、コルネリアが現れた。
「おはようございます。……あら?」
彼女の目が、机の上の小さな女の子を捉えた。
気づくだろう。呆れられるだろう。
「かわいい……!」
コルネリアは両手で女の子を抱き上げて、ぱあっと顔を輝かせた。
「かわいい女の子! 栗色の髪に、若草色の目! えくぼまで! わたしと同じ髪の色ですね。なんだか、親近感が湧きます!」
「そ、そうか」
「どなたか、モデルがいらっしゃるのですか?」
「い、いや! 考えたことは、ない。手が、勝手に……」
「手が勝手に! さすがです! 職人の手は、頭より先に仕事をするのですね!」
「……そう、だな」
コルネリアは感激しきりで、女の子を窓の光にかざしたり、頬をそっとつついたりしている。ディートハルトの心臓は、うるさいほど鳴っていた。
「この子にも、お洋服を作ってあげなくては。かわいいドレスがいいですね。リボンも付けて」
「……ああ。作ろう。一緒に」
彼女の手の中で、小さな女の子が笑っている。それが誰に似ているのか、この人だけが気づいていない。そのことに、安堵と、ほんの少しの寂しさを覚えた。
* * *
そうして二人のぬい作りは、屋敷の日常になった。
午後のお茶の時間は、居間の机に画帳と布と糸箱を広げる時間になった。コルネリアが新しい服のデザインを描き、夫が布を選ぶ。
「この袖は、霜羊布だと重たくないか」
「あっ、そうですね。雲綿織りの薄いほうにして……」
「糸は、淡い灰色の月繭糸がいい。縁取りに映える」
「わあ、素敵! それでいきましょう!」
布の山を挟んで、頭を寄せ合う。糸箱から色とりどりの糸を引き出して、布に当てて、うなる。ときどき手と手が触れそうになって、夫のほうが先に引っ込めてしまうのが、少しおかしかった。
コルネリアは、針は持たない代わりに、待ち針を並べ、糸を巻き、型紙を押さえる。邪魔にならない手伝いなら、わたしにもできるのだ。そうして完成した小さな服を、ぬいぐるみに着せて、窓辺に並べる。
「わあ、かわいい! 騎士様、その外套、とっても似合っています!」
「……そ、そうか」
「お嬢さんのドレスも、リボンがかわいくできましたね!」
窓辺には、黒髪の騎士と、栗色の髪のお嬢さんが並んでいる。並べ方はコルネリアの趣味で、いつの間にか、お嬢さんは騎士の隣と決まっていた。
その様子を、廊下から使用人たちがそっとのぞいている。
「旦那様、ずいぶんお楽しそうで……」
「奥様の笑顔のほうが、ずっと楽しそうよ」
「あのぬいぐるみ、旦那様と奥様に、そっくりじゃないかしら」
「しっ。ご本人たちには、内緒よ」
ひそひそ声は居間までは届かない。ただ、廊下を通る使用人たちの口元が、揃ってほころんでいるのが、ときどき窓ガラスに映っていた。
ある日の午後、コルネリアは針を動かす夫の手元を眺めながら、ふと口にした。
「わたし、こんなに楽しい毎日が来るとは、思っていませんでした」
「……そうか」
「最初は、一人で好きに過ごせればいいと思っていたんです。でも、ぬいを作る時間が、ディートハルト様と一緒だと、何倍も楽しくて」
夫の針が、止まった。
ゆっくりと顔を上げて、こちらを見る。鋭い目が、じっとコルネリアを映していた。
「……腕前を、褒められているのではなくて?」
「え? もちろん、腕前もすごいと思いますけど」
コルネリアは、きょとんとしてから、笑った。
「でも、神様の手でなくても、ディートハルト様が隣にいてくださるのが、いちばん楽しいんです」
夫は、しばらく何も言わなかった。大きな肩から、ふっと力が抜けるのが見えた。
「……俺もだ」
小さな声だった。けれど、はっきり聞こえた。
「君と作る時間が、俺は、いちばん好きだ」
不意打ちだった。今度は、コルネリアの頬が、ぽっと熱くなった。
「そ、そうですか。それは、よかったです」
針に向き直った夫の口元が、嬉しそうに緩んでいるのを、コルネリアは見ないふりをして、糸を巻き続けた。
* * *
春が、辺境にもやって来た。
二体のぬいぐるみに最後の仕上げをしたのは、野の花が咲きはじめた朝のことだった。騎士には革のベルトを、お嬢さんには、金糸で編んだ小さな首飾りを。
「できた!」
「できたな」
顔を見合わせて、笑った。
「ねえ、ディートハルト様。この子たちを連れて、ピクニックに行きませんか」
「ピクニック?」
「お天気もいいですし、野原でお昼を食べるんです。この子たちにも、春の景色を見せてあげたくて」
夫は少し考えるふりをして、「いいな」と答えた。
「行こう」
出発の朝、玄関には、使用人たちが勢揃いしていた。ウィルマが、大きな籠を差し出す。中には焼きたてのパンと羊のチーズ、干し果物。その隙間に、二体のぬいぐるみが、柔らかな布に包まれて収まっている。
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ。『お荷物』は、丁重にお運びくださいませ」
ホルストが、きりりとした顔で言った。目元は、すっかり緩んでいる。
「本日のご予定について、わたくしどもは何も存じ上げません」
フロリアンの言葉に、ウィルマが、ふふっと笑った。使用人たちは皆、何も知らないふりをして、にこにこと手を振っている。
二人は顔を見合わせて、少しだけ笑った。二人の秘密は、二人だけのものではなかったけれど、秘密のままにしておいてくれるのが、ありがたかった。
屋敷の裏手の丘を、ゆっくりと登った。
辺境の景色は、広かった。遠くに領地を囲む山並みと、守りの砦が見える。足元には、小さな黄色い花が一面に咲いていた。
敷物を広げて、並んで座る。籠から二体をそっと取り出して、二人のあいだの、風の当たらない場所に置いた。
黒髪の騎士と、栗色の髪のお嬢さん。春の日差しの中で、二体は肩を寄せ合っているように見えた。
「わあ。二人並べると、素敵ですね!」
「……ああ。よく似合っている」
思いのほか近くで夫の声が聞こえて、コルネリアは、どきりとした。
パンをちぎって、チーズを分け合って、画帳に二体の絵を描く。夫は隣で、何かを取り出した。折りたたまれた、白い布だった。
「これを、君に」
広げると、淡い青の小さな花が、縁にぐるりと連なっていた。あの日、廊下で拾ったものと、同じ花だった。
「……今度は、ちゃんと、贈り物だ」
夫は、顔を逸らしたまま言った。そして、胸元から自分のハンカチを少しだけ引き出して見せる。同じ淡い青の花が、ちらりとのぞいた。
「ありがとうございます。……あっ、旦那様のと、お揃いですね!」
「……嫌でなければ」
「嫌なはずがありません。大切にします。とても、大切に」
笑いながら、コルネリアは鼻の奥がつんとするのを感じた。あの日、大切な方からの贈り物だと思って返したハンカチと、同じ花。今、その花が、自分の手の中にある。
最初は、政略結婚だった。お互い好きに暮らしましょうと笑った日のことを、ふと思い出す。
今は違う。わたしは、自分で選んで、この人の隣に座っている。
夫の手が、そっと重ねられた。大きくて、温かくて、指先に針の痕が残る手だった。コルネリアは、その手をきゅっと握り返した。
風が吹いて、二体のぬいぐるみの小さな外套の裾が、ふわりと揺れた。
二つの顔は、春の光の中で笑っているように見えた。




