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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

「苦しむ方と苦しまない方、どちらが良いかしら?」私から彼氏と公爵令嬢の魔道具を奪った幼なじみは、泣きながら土下座することになりました

掲載日:2026/06/28


「苦しむ方と苦しまない方、どちらが良いかしら?」


貴族らしい微笑みを浮かべたまま、キャロット・アプリコット公爵令嬢は静かにそう告げた。


その声は、春の風のように柔らかかった。


けれど、真正面から向けられた女は鼻で笑い、隣にいた男は顔を真っ青にして震えた。


なぜなら彼だけは理解してしまったからだ。


魔法国家プラチナ帝国における五大公爵家。


その一つ、アプリコット公爵家の令嬢が口にしたその問いが、決して冗談ではないことを。


「何よ、それ。そんなの、苦しまない方に決まってるじゃない!」


女は勝ち誇ったように笑った。


その頭には、私から奪った髪飾りが輝いていた。


キャロット様の魔道具である、あの髪飾りが。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


ことの始まりは、よく晴れた朝だった。


「ごめん。今日の約束、行けなくなった」


そう言った彼の顔を、私は呆然と見つめていた。


「どうして?今日は、前から約束していたデートの日でしょう?」


私はアプリコット公爵家で侍女として働いている。


公爵家の侍女の仕事は、想像以上に忙しい。


それでも、今日だけは彼と過ごすために、前もって仕事を調整し、他の侍女にも頭を下げ、なんとか時間を作った。


三年付き合ってきた恋人。


だから、今日を楽しみにしていた。


なのに。


「本当に悪い。でも、どうしても外せない用事ができたんだ」


「・・・・幼なじみの方?」


私がそう尋ねると、彼は少しだけ顔をしかめた。


「彼女を責めるような言い方はやめてくれ」


その一言で、胸の奥が冷たくなった。


やっぱり、そうなのだ。


最近、彼の口から何度も出るようになった名前。


昔からの幼なじみで、放っておけない人。


最初は、そう聞いていた。


でも、最近は違う。


私との約束よりも、彼女の用事を優先することが増えていた。


「・・・・分かったわ。今回は、いい」


私がそう言うと、彼は露骨にほっとした顔をした。


「ありがとう。君なら分かってくれると思ってた」


そう言って、彼は足早に去っていった。


その背中を見送る私の横で、同僚の侍女がぽつりと言った。


「あなた、あんな男やめた方がいいわよ」


「・・・・分かってる」


分かっている。


でも、三年も付き合ってきたのだ。


優しかった頃もある。


私が失敗して落ち込んだとき、笑って励ましてくれたこともある。


たぶん、今回だけ。


次はきっと大丈夫。


そう思いたかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


次の約束の日が近づいた頃、私の様子に気づいたのは、主であるキャロット・アプリコット様だった。


「何かあったの?」


貴族令嬢らしい優雅な雰囲気を少しも損ねることなく、キャロット様が首をかしげる。


私は迷った末に、彼とのことを少しだけ話した。


するとキャロット様は、少し困ったように微笑んだ。


「そう。三年も付き合っている相手なのね」


「はい。だから、今度こそちゃんと話したいと思っていて」


「なら、少しだけ手助けしてあげる」


キャロット様はそう言って、宝石箱から一つの髪飾りを取り出した。


派手ではない。


けれど、細工は繊細で、見る角度によって淡い光を宿す不思議な髪飾りだった。


「これはね、身につけた人の存在感を少しだけ引き上げる魔道具よ。魅了の魔法ではないわ。ただ、あなたが本来持っている魅力を、ほんの少しだけ見えやすくしてくれるもの」


「そ、そんな貴重なものを、私なんかに?」


「私の侍女でしょう?いつも私に懸命に仕えてくれているのだから、そのご褒美よ」


「本当はね、あなたには幸せになってほしいの。私も、婚約破棄で傷ついたことがあるから」


キャロット様は少し寂しそうな表情で、私の髪にその髪飾りをつけてくれた。


キャロット様が受けた心の傷。


それは、私たち侍女団の暗黙の了解で、誰も触れないことになっている。


けれど、だからこそ。


私の恋がうまくいくようにと、キャロット様は自分の大切な魔道具を貸してくださったのだ。


私はあえて明るく振る舞った。


「ありがとうございます。必ず、今日中にお返しします」


「ええ。大切に扱ってね」


「承知致しました」


私は心からの笑顔でそう答えた。


まさか、その髪飾りが、あんな形で奪われることになるとは思いもしなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


待ち合わせ場所に現れた彼は、一人ではなかった。


左腕に、女がぴったりと寄り添っていた。


彼の幼なじみだ。


私を見るなり、その女は勝ち誇ったように目を細めた。


「そちらの方は、どなた?」


私はできるだけ感情を抑えて尋ねた。


すると彼は、ため息をついた。


「そうやって責めるのか。君はやっぱり冷たいな」


「責めているわけじゃないわ。ただ、今日は私との約束だったでしょう?」


「彼女も一緒じゃ駄目なのか?昔からの幼なじみなんだ。君だって分かってくれると思ったのに」


“分かってくれる。”


その言葉が、ひどく残酷に聞こえた。


私は彼の恋人だったはずだ。


それなのに、私が我慢することが当然のように語られる。


そのとき、幼なじみの女が私の髪を見た。


目の色が変わった。


「何よ、その髪飾り」


「え?」


「そんな良いもの、あなたには似合わないわ。私の方が似合うに決まってる」


そう言うなり、女はつかつかと近づいてきた。


嫌な予感がした。


「やめてください。これは――」


言い終える前に、髪を強く引っ張られた。


ぶちっ、と髪の毛が抜ける音がする。


「痛っ!」


私が声を上げても、女は気にしなかった。


そして、私の恋人だった彼も、止めようとはしなかった。


彼女は私の髪から奪い取った髪飾りを、自分の髪につけて、満足そうに笑った。


「ほら、やっぱり。私の方が似合うじゃない」


彼は彼女を見て、うっとりと笑った。


「本当だ。よく似合う。あんな女とは全然違うよ」


心が、すっと冷えた。


「あの、それは私のものではありません。キャロット様からお借りしたものなんです。返してください」


「キャロット様?」


女が鼻で笑う。


「何それ。あなたのご主人様?たかが髪飾りでしょう?もらってあげるって言ってるのよ」


「駄目です。それはアプリコット公爵家の――」


「うるさいな」


彼が苛立った声を出した。


「髪飾り一つで大げさなんだよ。そういうところが嫌なんだ」


「・・・・嫌?」


「そうだ。俺はもう、君のそういう冷たいところに疲れた。これからは彼女と付き合う」


幼なじみの女が、彼の腕にしがみついた。


「そういうこと。負けた女はおとなしく引っ込んでなさいよ」


二人は笑いながら去っていった。


私は、その場に立ち尽くした。


髪を引っ張られた痛みよりも。


彼に捨てられた痛みよりも。


キャロット様のご厚意を踏みにじられたことが、何よりもつらかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


その日の夕方。


冒険者ギルドの酒場は、いつものように賑わっていた。


依頼を終えた冒険者たちが酒を飲み、依頼書を眺め、武勇伝を語り合う。


その中央で、彼は得意げに話していた。


「というわけでさ。あの女の冷たさには、ほとほと愛想が尽きたんだ。だから付き合うのはやめて、昔から俺を分かってくれている幼なじみと付き合うことにした」


隣では、例の女が嬉しそうに髪飾りを見せびらかしていた。


「見て、これ。相手の女からもらってあげたのよ。私の方がずっと似合うんだもの」


酒場の空気が、少しだけ揺れた。


「・・・・え?それ、恋人を奪ったうえに持ち物まで奪ったってことか?」


「普通に窃盗じゃねえの?」


「やべえ女だな」


小さなざわめきが広がる。


けれど、二人は気づかない。


むしろ、注目されていることに気をよくしたのか、女はさらに声を張った。


「しかもね、あの女ったら、これをご主人様から借りたものだって言うのよ。たかが髪飾りごときで、公爵家が動くわけないじゃない」


その瞬間。


酒場の空気が凍った。


「・・・・公爵家?」


誰かが低く呟く。


「あいつの元彼女って、アプリコット公爵家の侍女じゃなかったか?」


「じゃあ、その髪飾りって・・・・」


「おい、まさか、公爵家の持ち物を奪ったのか?」


さっきまで笑っていた冒険者たちの顔色が変わっていく。


屈強な冒険者たちが、そっと席を立った。


関わり合いになりたくない。


そんな空気が、酒場中に広がる。


だが、女はまだ分かっていなかった。


「何よ、急に静かになって。貴族って言っても、ここはギルドでしょう?貴族の権力なんて通じないわよ」


そのとき。


酒場の扉が開いた。


入ってきたのは、一目で高位の貴族令嬢と分かる女性だった。


キャロット・アプリコット公爵令嬢。


その後ろには、見るからに腕の立つ護衛たちが並んでいる。


私はキャロット様の後ろに控え、そっと頭を下げた。


「キャロット様、あちらです」


「そう」


キャロット様は静かに歩いた。


酒場の喧騒は完全に消えた。


誰もが息を殺して、その姿を見ている。


キャロット様は女の前で足を止めた。


そして、女の髪に輝く髪飾りを見た。


「その髪飾り、見覚えがあるわ」


「・・・・何よ」


女は一瞬怯んだが、すぐに強気な表情を作った。


「あなた、貴族様でしょ。でもね、ここはギルドよ。貴族の権力は通じないわ」


キャロット様は微笑んだ。


それはそれは優雅に。


「そう。それがあなたの返答ね」


その声を聞いた瞬間、彼の顔が青ざめた。


キャロット様は女を見つめたまま、静かに尋ねる。


「一つ聞くわ」


「な、何よ」


「苦しむ方と苦しまない方、どちらが良いかしら?」


酒場が、静まり返った。


女は、ふんと鼻を鳴らした。


「そんなの、苦しまない方に決まってるじゃない!」


キャロット様は、ゆっくりと頷いた。


「分かったわ」


それだけ言うと、キャロット様は踵を返した。


「参りましょう」


「はい」


私はキャロット様に続いて、酒場を出た。


女は勝ち誇ったように笑った。


「ほら見なさい。何もできないじゃない」


けれど。


本当に恐ろしいことは、キャロット様が去ったあとに起きた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「おい」


酒場の奥で、一人の冒険者が低く唸った。


ナスと呼ばれる男だ。


剣の腕で知られているが、それ以上に、アプリコット公爵家の名を軽んじた者がどうなるかを、嫌というほど知っている男だった。


だから、その声にはただの忠告ではない、実感がこもっていた。


「お前、自分が何を言ったか分かってるのか?」


「何よ。大げさね」


「大げさじゃねえよ!!」


ナスの怒鳴り声に、女の肩がびくりと跳ねた。


「お前は貴族、とりわけ公爵家を甘く見すぎだ!この国で皇帝に次ぐ権力を持つ家の一つだぞ!」


「で、でも・・・・たかが髪飾りじゃない」


「たかが、だと?」


ナスの顔が怒りで歪んだ。


「それはアプリコット公爵家の魔道具だ!」


「しかも公爵令嬢が侍女に貸し与えたものを、お前は力ずくで奪った。恋人を奪っただけなら、まだ本人同士の問題で済んだかもしれねえ」


「だがな、公爵家の所有物を奪った時点で話は変わる」


侍女の彼氏だった男が震える声で言った。


「お、おい、やめてくれ。俺は知らなかったんだ」


「知らなかったで済むか!」


ナスは吐き捨てるように言った。


「さっきの問いの意味を教えてやる。苦しむ方っていうのは、お前一人が苦しみながら責任を取るって意味だ」


女の顔色が変わる。


「じゃ、じゃあ、苦しまない方は・・・・?」


「お前の一族、まとめて責任を取らされるって意味だ。苦しまないように、一瞬でな」


女の唇が震えた。


「そ、そんな・・・・そんなつもりじゃ・・・・」


「なら、どんなつもりだったんだ!」


ナスはさらに声を荒げた。


「恋人を奪って、相手の持ち物まで奪って、酒場で自慢して、ざまあみろって笑いたかったのか?」


「その身勝手な感情で、お前の親も兄弟も、お前に関わった者まとめて破滅するかもしれねえんだぞ!」


男はその場に崩れ落ちた。


女も、ようやく事の重大さを理解したらしい。


髪飾りに触れていた手が震えている。


「どうしよう・・・・どうしよう・・・・」


「どうするも何も、今すぐ返しに行け。そして謝れ。全力でな。命が惜しいならな」


酒場の誰も笑っていなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


翌朝。


アプリコット公爵邸の門前に、二人の男女が土下座していた。


彼と、幼なじみの女だ。


女の髪は短く切られていた。


あの髪飾りを無理やりつけていた髪を、罰として自分で切ったらしい。


彼もまた、顔を地面にこすりつけて泣いていた。


「も、申し訳ございませんでしたあああ!」


「許してください!どうか、どうか命だけは!」


門の周囲には、遠巻きに人だかりができていた。


公爵家の門前で泣きながら土下座する二人。


その姿は、すぐに帝都中へ広まるだろう。


キャロット様は窓からそれを眺めて、楽しそうに微笑んだ。


「ふふ。あんなふうにされたら、これ以上厳しいことはできないわね。誰の入れ知恵かしら」


「ねえ?」

キャロット様は首をかしげ、私のほうを見た。


あの酒場に赴いたとき、物陰に身を寄せるようにしていた、見覚えのある冒険者の姿が脳裏をよぎった。


私はキャロット様の隣で、深く頭を下げた。


「誰の入れ知恵かはともかく、髪飾りは無事に戻りました。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」


「あなたが謝ることではないわ。奪われた側でしょう?」


「ですが、私がもっと早く止められていれば・・・・」


「無理よ。ああいう手合いは、相手が下の立場だと思うと聞く耳を持たないもの」


キャロット様はそう言って、私を見た。


「あなたはどうしたい?髪飾りは戻ってきた。でも、あなたの気は収まっていないでしょう?」


私は少しだけ考えた。


彼に裏切られたこと。


幼なじみの女に髪飾りを奪われたこと。


キャロット様の厚意を踏みにじられたこと。


許せるかと聞かれたら、許せない。


でも。


「お気遣い、痛み入ります。ですが、もう構いません」


「本当に?」


「はい。昨夜、あの人が私のところへ来たんです」


キャロット様の目が細くなる。


「何を言いに?」


「もう一度やり直してほしい、と」


キャロット様は一瞬だけ黙り、


「それで?」


「一発、お見舞いしました」


私は自分の右手を見た。


まだ少しだけ痛い。


でも、不思議と胸はすっきりしていた。


「私は言いました。悔しかったのは、あなたに捨てられたことじゃない。キャロット様のご厚意を踏みにじられたことだ、と」


キャロット様は、目を丸くしたあと、柔らかく微笑んだ。


「そう。よく言えたわね」


その一言だけで、涙が出そうになった。


「はい。もう、大丈夫です」


私は窓の外を見た。


門前で泣き崩れる二人の姿を見ても、もう胸は痛まなかった。


三年付き合った彼。


信じたかった思い。


全部、そこに置いていく。


「キャロット様」


「なあに?」


「髪飾り、本当にありがとうございました」


「どういたしまして。次に貸すときは、もう少し危険な魔道具にしましょうか」


「い、いえ、それは遠慮します」


キャロット様は上品に笑った。


その笑顔を見て、私は思った。


キャロット様は、恐ろしい方だ。

けれど、理不尽に傷つけられた者を見捨てる方ではない。


ああ。


私は、こんなにも恐ろしくて、こんなにも優しい方に仕えているのだ。


だったら、もう大丈夫。


彼を失ったことなど、不幸ではない。


むしろ。


彼の本性を知れたのだから。


「ごめんなさいいいい!!!」


女の泣き叫ぶ声が屋敷中に響いた。


けれど私は、もう振り返らなかった。





今回少しだけ登場したナスとキャロット様は、『僕に仕えるメイドは世界最強の英雄です』シリーズ本編にも登場する人物です。二人の関係や過去が気になった方は、そちらも覗いていただけると嬉しいです。



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