「苦しむ方と苦しまない方、どちらが良いかしら?」私から彼氏と公爵令嬢の魔道具を奪った幼なじみは、泣きながら土下座することになりました
「苦しむ方と苦しまない方、どちらが良いかしら?」
貴族らしい微笑みを浮かべたまま、キャロット・アプリコット公爵令嬢は静かにそう告げた。
その声は、春の風のように柔らかかった。
けれど、真正面から向けられた女は鼻で笑い、隣にいた男は顔を真っ青にして震えた。
なぜなら彼だけは理解してしまったからだ。
魔法国家プラチナ帝国における五大公爵家。
その一つ、アプリコット公爵家の令嬢が口にしたその問いが、決して冗談ではないことを。
「何よ、それ。そんなの、苦しまない方に決まってるじゃない!」
女は勝ち誇ったように笑った。
その頭には、私から奪った髪飾りが輝いていた。
キャロット様の魔道具である、あの髪飾りが。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ことの始まりは、よく晴れた朝だった。
「ごめん。今日の約束、行けなくなった」
そう言った彼の顔を、私は呆然と見つめていた。
「どうして?今日は、前から約束していたデートの日でしょう?」
私はアプリコット公爵家で侍女として働いている。
公爵家の侍女の仕事は、想像以上に忙しい。
それでも、今日だけは彼と過ごすために、前もって仕事を調整し、他の侍女にも頭を下げ、なんとか時間を作った。
三年付き合ってきた恋人。
だから、今日を楽しみにしていた。
なのに。
「本当に悪い。でも、どうしても外せない用事ができたんだ」
「・・・・幼なじみの方?」
私がそう尋ねると、彼は少しだけ顔をしかめた。
「彼女を責めるような言い方はやめてくれ」
その一言で、胸の奥が冷たくなった。
やっぱり、そうなのだ。
最近、彼の口から何度も出るようになった名前。
昔からの幼なじみで、放っておけない人。
最初は、そう聞いていた。
でも、最近は違う。
私との約束よりも、彼女の用事を優先することが増えていた。
「・・・・分かったわ。今回は、いい」
私がそう言うと、彼は露骨にほっとした顔をした。
「ありがとう。君なら分かってくれると思ってた」
そう言って、彼は足早に去っていった。
その背中を見送る私の横で、同僚の侍女がぽつりと言った。
「あなた、あんな男やめた方がいいわよ」
「・・・・分かってる」
分かっている。
でも、三年も付き合ってきたのだ。
優しかった頃もある。
私が失敗して落ち込んだとき、笑って励ましてくれたこともある。
たぶん、今回だけ。
次はきっと大丈夫。
そう思いたかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
次の約束の日が近づいた頃、私の様子に気づいたのは、主であるキャロット・アプリコット様だった。
「何かあったの?」
貴族令嬢らしい優雅な雰囲気を少しも損ねることなく、キャロット様が首をかしげる。
私は迷った末に、彼とのことを少しだけ話した。
するとキャロット様は、少し困ったように微笑んだ。
「そう。三年も付き合っている相手なのね」
「はい。だから、今度こそちゃんと話したいと思っていて」
「なら、少しだけ手助けしてあげる」
キャロット様はそう言って、宝石箱から一つの髪飾りを取り出した。
派手ではない。
けれど、細工は繊細で、見る角度によって淡い光を宿す不思議な髪飾りだった。
「これはね、身につけた人の存在感を少しだけ引き上げる魔道具よ。魅了の魔法ではないわ。ただ、あなたが本来持っている魅力を、ほんの少しだけ見えやすくしてくれるもの」
「そ、そんな貴重なものを、私なんかに?」
「私の侍女でしょう?いつも私に懸命に仕えてくれているのだから、そのご褒美よ」
「本当はね、あなたには幸せになってほしいの。私も、婚約破棄で傷ついたことがあるから」
キャロット様は少し寂しそうな表情で、私の髪にその髪飾りをつけてくれた。
キャロット様が受けた心の傷。
それは、私たち侍女団の暗黙の了解で、誰も触れないことになっている。
けれど、だからこそ。
私の恋がうまくいくようにと、キャロット様は自分の大切な魔道具を貸してくださったのだ。
私はあえて明るく振る舞った。
「ありがとうございます。必ず、今日中にお返しします」
「ええ。大切に扱ってね」
「承知致しました」
私は心からの笑顔でそう答えた。
まさか、その髪飾りが、あんな形で奪われることになるとは思いもしなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
待ち合わせ場所に現れた彼は、一人ではなかった。
左腕に、女がぴったりと寄り添っていた。
彼の幼なじみだ。
私を見るなり、その女は勝ち誇ったように目を細めた。
「そちらの方は、どなた?」
私はできるだけ感情を抑えて尋ねた。
すると彼は、ため息をついた。
「そうやって責めるのか。君はやっぱり冷たいな」
「責めているわけじゃないわ。ただ、今日は私との約束だったでしょう?」
「彼女も一緒じゃ駄目なのか?昔からの幼なじみなんだ。君だって分かってくれると思ったのに」
“分かってくれる。”
その言葉が、ひどく残酷に聞こえた。
私は彼の恋人だったはずだ。
それなのに、私が我慢することが当然のように語られる。
そのとき、幼なじみの女が私の髪を見た。
目の色が変わった。
「何よ、その髪飾り」
「え?」
「そんな良いもの、あなたには似合わないわ。私の方が似合うに決まってる」
そう言うなり、女はつかつかと近づいてきた。
嫌な予感がした。
「やめてください。これは――」
言い終える前に、髪を強く引っ張られた。
ぶちっ、と髪の毛が抜ける音がする。
「痛っ!」
私が声を上げても、女は気にしなかった。
そして、私の恋人だった彼も、止めようとはしなかった。
彼女は私の髪から奪い取った髪飾りを、自分の髪につけて、満足そうに笑った。
「ほら、やっぱり。私の方が似合うじゃない」
彼は彼女を見て、うっとりと笑った。
「本当だ。よく似合う。あんな女とは全然違うよ」
心が、すっと冷えた。
「あの、それは私のものではありません。キャロット様からお借りしたものなんです。返してください」
「キャロット様?」
女が鼻で笑う。
「何それ。あなたのご主人様?たかが髪飾りでしょう?もらってあげるって言ってるのよ」
「駄目です。それはアプリコット公爵家の――」
「うるさいな」
彼が苛立った声を出した。
「髪飾り一つで大げさなんだよ。そういうところが嫌なんだ」
「・・・・嫌?」
「そうだ。俺はもう、君のそういう冷たいところに疲れた。これからは彼女と付き合う」
幼なじみの女が、彼の腕にしがみついた。
「そういうこと。負けた女はおとなしく引っ込んでなさいよ」
二人は笑いながら去っていった。
私は、その場に立ち尽くした。
髪を引っ張られた痛みよりも。
彼に捨てられた痛みよりも。
キャロット様のご厚意を踏みにじられたことが、何よりもつらかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夕方。
冒険者ギルドの酒場は、いつものように賑わっていた。
依頼を終えた冒険者たちが酒を飲み、依頼書を眺め、武勇伝を語り合う。
その中央で、彼は得意げに話していた。
「というわけでさ。あの女の冷たさには、ほとほと愛想が尽きたんだ。だから付き合うのはやめて、昔から俺を分かってくれている幼なじみと付き合うことにした」
隣では、例の女が嬉しそうに髪飾りを見せびらかしていた。
「見て、これ。相手の女からもらってあげたのよ。私の方がずっと似合うんだもの」
酒場の空気が、少しだけ揺れた。
「・・・・え?それ、恋人を奪ったうえに持ち物まで奪ったってことか?」
「普通に窃盗じゃねえの?」
「やべえ女だな」
小さなざわめきが広がる。
けれど、二人は気づかない。
むしろ、注目されていることに気をよくしたのか、女はさらに声を張った。
「しかもね、あの女ったら、これをご主人様から借りたものだって言うのよ。たかが髪飾りごときで、公爵家が動くわけないじゃない」
その瞬間。
酒場の空気が凍った。
「・・・・公爵家?」
誰かが低く呟く。
「あいつの元彼女って、アプリコット公爵家の侍女じゃなかったか?」
「じゃあ、その髪飾りって・・・・」
「おい、まさか、公爵家の持ち物を奪ったのか?」
さっきまで笑っていた冒険者たちの顔色が変わっていく。
屈強な冒険者たちが、そっと席を立った。
関わり合いになりたくない。
そんな空気が、酒場中に広がる。
だが、女はまだ分かっていなかった。
「何よ、急に静かになって。貴族って言っても、ここはギルドでしょう?貴族の権力なんて通じないわよ」
そのとき。
酒場の扉が開いた。
入ってきたのは、一目で高位の貴族令嬢と分かる女性だった。
キャロット・アプリコット公爵令嬢。
その後ろには、見るからに腕の立つ護衛たちが並んでいる。
私はキャロット様の後ろに控え、そっと頭を下げた。
「キャロット様、あちらです」
「そう」
キャロット様は静かに歩いた。
酒場の喧騒は完全に消えた。
誰もが息を殺して、その姿を見ている。
キャロット様は女の前で足を止めた。
そして、女の髪に輝く髪飾りを見た。
「その髪飾り、見覚えがあるわ」
「・・・・何よ」
女は一瞬怯んだが、すぐに強気な表情を作った。
「あなた、貴族様でしょ。でもね、ここはギルドよ。貴族の権力は通じないわ」
キャロット様は微笑んだ。
それはそれは優雅に。
「そう。それがあなたの返答ね」
その声を聞いた瞬間、彼の顔が青ざめた。
キャロット様は女を見つめたまま、静かに尋ねる。
「一つ聞くわ」
「な、何よ」
「苦しむ方と苦しまない方、どちらが良いかしら?」
酒場が、静まり返った。
女は、ふんと鼻を鳴らした。
「そんなの、苦しまない方に決まってるじゃない!」
キャロット様は、ゆっくりと頷いた。
「分かったわ」
それだけ言うと、キャロット様は踵を返した。
「参りましょう」
「はい」
私はキャロット様に続いて、酒場を出た。
女は勝ち誇ったように笑った。
「ほら見なさい。何もできないじゃない」
けれど。
本当に恐ろしいことは、キャロット様が去ったあとに起きた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「おい」
酒場の奥で、一人の冒険者が低く唸った。
ナスと呼ばれる男だ。
剣の腕で知られているが、それ以上に、アプリコット公爵家の名を軽んじた者がどうなるかを、嫌というほど知っている男だった。
だから、その声にはただの忠告ではない、実感がこもっていた。
「お前、自分が何を言ったか分かってるのか?」
「何よ。大げさね」
「大げさじゃねえよ!!」
ナスの怒鳴り声に、女の肩がびくりと跳ねた。
「お前は貴族、とりわけ公爵家を甘く見すぎだ!この国で皇帝に次ぐ権力を持つ家の一つだぞ!」
「で、でも・・・・たかが髪飾りじゃない」
「たかが、だと?」
ナスの顔が怒りで歪んだ。
「それはアプリコット公爵家の魔道具だ!」
「しかも公爵令嬢が侍女に貸し与えたものを、お前は力ずくで奪った。恋人を奪っただけなら、まだ本人同士の問題で済んだかもしれねえ」
「だがな、公爵家の所有物を奪った時点で話は変わる」
侍女の彼氏だった男が震える声で言った。
「お、おい、やめてくれ。俺は知らなかったんだ」
「知らなかったで済むか!」
ナスは吐き捨てるように言った。
「さっきの問いの意味を教えてやる。苦しむ方っていうのは、お前一人が苦しみながら責任を取るって意味だ」
女の顔色が変わる。
「じゃ、じゃあ、苦しまない方は・・・・?」
「お前の一族、まとめて責任を取らされるって意味だ。苦しまないように、一瞬でな」
女の唇が震えた。
「そ、そんな・・・・そんなつもりじゃ・・・・」
「なら、どんなつもりだったんだ!」
ナスはさらに声を荒げた。
「恋人を奪って、相手の持ち物まで奪って、酒場で自慢して、ざまあみろって笑いたかったのか?」
「その身勝手な感情で、お前の親も兄弟も、お前に関わった者まとめて破滅するかもしれねえんだぞ!」
男はその場に崩れ落ちた。
女も、ようやく事の重大さを理解したらしい。
髪飾りに触れていた手が震えている。
「どうしよう・・・・どうしよう・・・・」
「どうするも何も、今すぐ返しに行け。そして謝れ。全力でな。命が惜しいならな」
酒場の誰も笑っていなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝。
アプリコット公爵邸の門前に、二人の男女が土下座していた。
彼と、幼なじみの女だ。
女の髪は短く切られていた。
あの髪飾りを無理やりつけていた髪を、罰として自分で切ったらしい。
彼もまた、顔を地面にこすりつけて泣いていた。
「も、申し訳ございませんでしたあああ!」
「許してください!どうか、どうか命だけは!」
門の周囲には、遠巻きに人だかりができていた。
公爵家の門前で泣きながら土下座する二人。
その姿は、すぐに帝都中へ広まるだろう。
キャロット様は窓からそれを眺めて、楽しそうに微笑んだ。
「ふふ。あんなふうにされたら、これ以上厳しいことはできないわね。誰の入れ知恵かしら」
「ねえ?」
キャロット様は首をかしげ、私のほうを見た。
あの酒場に赴いたとき、物陰に身を寄せるようにしていた、見覚えのある冒険者の姿が脳裏をよぎった。
私はキャロット様の隣で、深く頭を下げた。
「誰の入れ知恵かはともかく、髪飾りは無事に戻りました。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
「あなたが謝ることではないわ。奪われた側でしょう?」
「ですが、私がもっと早く止められていれば・・・・」
「無理よ。ああいう手合いは、相手が下の立場だと思うと聞く耳を持たないもの」
キャロット様はそう言って、私を見た。
「あなたはどうしたい?髪飾りは戻ってきた。でも、あなたの気は収まっていないでしょう?」
私は少しだけ考えた。
彼に裏切られたこと。
幼なじみの女に髪飾りを奪われたこと。
キャロット様の厚意を踏みにじられたこと。
許せるかと聞かれたら、許せない。
でも。
「お気遣い、痛み入ります。ですが、もう構いません」
「本当に?」
「はい。昨夜、あの人が私のところへ来たんです」
キャロット様の目が細くなる。
「何を言いに?」
「もう一度やり直してほしい、と」
キャロット様は一瞬だけ黙り、
「それで?」
「一発、お見舞いしました」
私は自分の右手を見た。
まだ少しだけ痛い。
でも、不思議と胸はすっきりしていた。
「私は言いました。悔しかったのは、あなたに捨てられたことじゃない。キャロット様のご厚意を踏みにじられたことだ、と」
キャロット様は、目を丸くしたあと、柔らかく微笑んだ。
「そう。よく言えたわね」
その一言だけで、涙が出そうになった。
「はい。もう、大丈夫です」
私は窓の外を見た。
門前で泣き崩れる二人の姿を見ても、もう胸は痛まなかった。
三年付き合った彼。
信じたかった思い。
全部、そこに置いていく。
「キャロット様」
「なあに?」
「髪飾り、本当にありがとうございました」
「どういたしまして。次に貸すときは、もう少し危険な魔道具にしましょうか」
「い、いえ、それは遠慮します」
キャロット様は上品に笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
キャロット様は、恐ろしい方だ。
けれど、理不尽に傷つけられた者を見捨てる方ではない。
ああ。
私は、こんなにも恐ろしくて、こんなにも優しい方に仕えているのだ。
だったら、もう大丈夫。
彼を失ったことなど、不幸ではない。
むしろ。
彼の本性を知れたのだから。
「ごめんなさいいいい!!!」
女の泣き叫ぶ声が屋敷中に響いた。
けれど私は、もう振り返らなかった。
今回少しだけ登場したナスとキャロット様は、『僕に仕えるメイドは世界最強の英雄です』シリーズ本編にも登場する人物です。二人の関係や過去が気になった方は、そちらも覗いていただけると嬉しいです。




