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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

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短編集

Memories in the Rain

作者:

毎日、同じルートで会社に行き、同じカフェでラテを飲み、同じ夜にベッドに沈む。

恋なんて、遠い記憶の彼方。

25歳なのに、恋人の一人もいない社畜人生突進中。

自分でそう考えてると本当に嫌になってくる・


 そんな私があんなことになるなんて思わなかった。

正確に言うと、女の子同士の恋なんて、考えたこともなかった。

百合?そんな言葉を、友人たちの飲み会で笑い話にしたぐらいだった。。


 あの日、雨が降っていた。六月の梅雨入り直後で、空はどんよりと沈んでいた。

私はいつものように渋谷のスクランブル交差点を渡ろうとしたが、信号が変わるのを待てず、傘を片手に駆け出した。


 濡れた靴底が滑り、転びかけたその瞬間、誰かの手が私の腕を掴んだ。

「ヘイ、気をつけて!」


 英語だった。振り返ると、そこには金髪の女性が立っていた。背が高く、青い目が印象的だ。コートの下にジーンズをはき、肩には大きなバックパック。まるで旅の途中の外国人観光客のように見えた。

 彼女は私を見つめ、ふっとにっこり笑った。


「ありがとう。びっくりしたよ」


 私は慌てて日本語で返した。彼女は首を傾げて、スマホを取り出した。翻訳アプリを起動し、画面を私に向ける。


「どういたしまして。東京の雨、すごいね?」


 そう、アメリカ人だった。名前はエミリー。ニューヨークから来た二十七歳のフォトグラファーで、東京を旅していると言った。

 信号が変わるのを待つあいだ、私たちは少しだけ話した。彼女の日本語はたどたどしかったけれど、翻訳アプリのおかげで会話は意外とスムーズだった。

雨宿りのつもりで近くのカフェに入ろう、とエミリーが笑って言った。私はなぜか、その誘いを断れなかった。


 カフェは小さくて、静かだった。窓際の席に腰を下ろすと、ガラス越しに雨粒が流れていくのが見えた。

私たちは向かい合って座り、ラテを注文した。ミルクの泡が静かに沈んでいく。


 エミリーはバックパックからカメラを取り出し、レンズを拭ってから、外の景色に目を向けた。

シャッターの音が一度、二度と響く。

その音が、なぜか胸の奥に届いた。雨を撮る彼女の横顔は真剣で、どこか寂しそうで、少しだけ美しかった。


「東京の雨、好き?」

私は尋ねた。彼女はカメラを下ろし、目を細めて笑った。


「大好きよ。まるで……詩みたい。家では雨は悪い日を意味するけど、ここではロマンチック」


 ロマンチック、か。彼女の言葉が、胸の奥をくすぐった。

私は自分の日常について話した。会社のこと、終わりの見えない残業、そして繰り返すだけの毎日。


 エミリーは真剣に聞いてくれて、時々、静かにうなずいた。その瞳の青が、まっすぐ私を見ていた。

 彼女の人生は、私の人生とはまるで正反対だった。フリーランスで、世界中を飛び回る。

インドの寺院を撮ったり、パリの街角を歩いたり、時には砂漠や港町にも足を伸ばすという。どの話も、光に包まれていた。自由で、眩しくて、少しだけ羨ましかった。


「綾、もっと旅行するべきよ。人生は短いわ」


 彼女が私の名前を呼ぶと、胸の奥がかすかに跳ねた。

綾。日本語の響きが、彼女の柔らかい英語の発音に溶けていく。


 雨が上がる頃、私たちは自然に連絡先を交換した。

LINEを教えると、彼女はすぐにスタンプを送ってきた。小さなハートの絵文字が、画面の中で静かに光っていた。


 それから、エミリーの滞在は二週間。毎日、メッセージが来た。

最初は観光地のオススメ。「浅草、行ってみて!」「原宿のクレープ、最高!」

私は仕事の合間に返信し、時々会うようになった。三軒茶屋の小さなバーでビールを飲んだり、代々木公園でピクニックをしたり。彼女の笑顔が、だんだん私の日常に溶け込んでいった。


 ある夜、二人で新宿の屋上バーに行った。夜景が広がり、ビルの灯りが星のように瞬いていた。

エミリーはカクテルを傾けながら、長い息を吐いた。


「綾、帰りたくない」

その声が、夜風よりもかすかに震えていた。私はグラスを握りしめ、言葉を探す。


私も。もっと話したいよ、エミリーのこと」

彼女は私の手を、そっと包み込んだ。指先のぬくもりが伝わってきて、胸の奥が熱くなる。

青い瞳が、夜空よりも深く私を捉える。


「私もよ。綾は特別。夢の話をする時の笑顔が、心臓を高鳴らせるの」


 心臓が跳ねた。女の子に、そんなふうに言われたのは初めてだ。

いや、誰かに、こんなまっすぐな想いを向けられたのも初めてだった。

エミリーはアメリカ人らしく、ストレートだ。それが文化の違いなのか、彼女自身の優しさなのか、私にはまだわからなかった。 

 彼女は私の頰にそっと触れた。指先が冷たくて、それなのに、触れた場所から熱が広がっていくようだった。

ゆっくりと顔が近づいてくる。時間が止まったみたいに、周りの音が遠のいていく。


 唇が触れる瞬間、私は目を閉じた。

柔らかくて、甘くて、少し切ないキス。胸の奥がきゅっと縮む。

雨の匂いがかすかにして、彼女の香りと混ざり合う。

どこまでが自分の鼓動で、どこからが彼女の鼓動なのか、もう分からなかった。


 それから、私たちの時間は急に速くなった。

エミリーのホテルの部屋で、夜が明けるまで話した。

旅の話、写真の話、そして互いの過去。言葉を重ねるうちに、距離がどんどん近づいていった。


 気がつけば、彼女の指が私の髪に触れていた。軽く撫でられただけなのに、息が詰まるほど熱かった。

白い肌に落ちる光が、やわらかく揺れている。首筋のそばかすが小さな星みたいに見えて、目が離せなかった。

私の指がそこをなぞると、エミリーは小さく笑った。


「くすぐったい。でも好きよ」


 その声が耳の奥に残ったまま、彼女の体温が伝わってくる。

肌と肌のあいだに、何かがほどけていく。

これは、ただの友情なんかじゃない。

もっと深くて、熱くて、名前をつけられない何か。

百合? そんな言葉は、もうどうでもよかった。

ただ、エミリーが好きだった。彼女の声も、匂いも、息づかいも、すべてが愛しかった。


 けれど、現実は静かで残酷だった。

エミリーのフライトは、あと七日。私たちはそのことを、どちらも口にしなかった。代わりに、思い出を重ねた。


 浅草の寺で手を繋ぎ、秋葉原でお互いに笑い合いながらアニメグッズを選んだ。

鎌倉では、夕暮れの海をただ見つめていた。寄せる波の音が、沈黙をやさしく包み込んでいた。


 出発前夜、私はエミリーのホテルを訪れた。何も言わずに抱きしめた瞬間、涙がこぼれた。

「行かないで。もう少し、いて」

声が震えて、言葉の端が滲んだ。エミリーは私の髪を撫でながら、頬を寄せた。


「行かなきゃ。でもこれはさよならじゃない。戻ってくるわ、綾。約束よ」


 その声があまりにも優しくて、信じたい気持ちが胸の奥で溢れた。

私はキスで答えた。最初はそっと、けれどすぐに止められなくなった。

指が彼女の背を探り、息が絡む。熱が伝わり合うたびに、時間が遠のいていく。


 夜が明けるまで、私たちは互いの温もりを確かめ合った。

言葉の代わりに、何度も名前を呼び合った。彼女の息が、耳元で囁く。


「愛してる」

愛してる -英語の響きなのに、不思議と心の奥に沁みた。


 朝、空港へ向かうタクシーの中で、エミリーはずっと私の手を握っていた。

指先が離れそうになっても、名残惜しそうに絡め直す。

窓の外には、夜明けの光が滲んでいた。


 成田のゲート前。

エミリーはバックパックを背負い、私の方を振り返った。

「待っててくれる?」

私はうなずき、涙がこぼれないように唇を噛んだ。

「うん。永遠に」

彼女は微笑んで、手を振った。

その姿が人ごみに溶けていく。


 外へ出ると、また雨が降り始めていた。

傘を忘れた私は、濡れるまま歩き出した。

頬を伝うのが雨なのか涙なのか、もう分からなかった。

それでも、心の奥には彼女の温もりが残っていた。


 それから、二ヶ月。エミリーからのメッセージは、毎日届いた。

ニューヨークの喧騒、セントラルパークの紅葉。送られてくる写真のどこかには、いつも私の影があった。笑っている私、キスをしている私。彼女のレンズの中に、私はまだ生きていた。


 私は変わった。仕事のあと、旅行の本を開くのが楽しみになった。

貯金を始め、英語も勉強した。あの日から、世界が少しだけ広く見えるようになった。

彼女に会いたい。その気持ちだけで動き出したはずなのに、いつの間にか、生きること自体が少し好きになっていた。

「いつかまた会える」と信じて、毎日を丁寧に過ごした。

エミリーがくれたのは、恋だけじゃない。自分の心を動かす勇気だった。


 十一月、エミリーが戻ってきた。

同じ空港、同じ雨。

ロビーの照明が、濡れた床にぼんやりと反射している。

人の流れの中で、私はただ一点を見つめていた。

どれだけ時間が経っても、この瞬間だけは鮮明に思い描いてきた。

彼女が現れる、その光景を。


 金髪が人波の向こうで揺れた。

それだけで胸の奥が熱くなる。

足が勝手に動いた。

傘を握りしめたまま、気づけば走り出していた。


 彼女の体に腕を回した瞬間、世界の音がすべて遠のいた。

空調の音も、アナウンスも、何も聞こえない。

ただ、彼女の体温だけが確かにあった。

それはあの日と同じ温もりで、でも今は、少しだけ深く感じた。


「すごく恋しかった」


「私もよ」


 彼女の声を聞いた瞬間、胸の奥がほどけていくのを感じた。

あの空港で抱きしめた体温が、まだ掌に残っている。

私たちは手を繋ぎ、東京の街へ歩き出した。


 雨はもう上がり、アスファルトの上に小さな水たまりが光っていた。

その向こうに、薄く虹がかかっている。

まるで、あの日の続きを見ているみたいだった。


 エミリーと私の、初めての雨。


 これからどうなるかは、まだわからない。

距離も、文化も、未来も。

けれど、今だけは確かに、彼女と同じ空気を吸っている。

それだけで、世界が少し優しく思えた。


 彼女の横顔を見ながら、私は静かに思う。


 愛は、雨のように、静かに訪れて、ゆっくりと永遠になる。

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