夢で見た、赤い傘を差すあの人は。【夏のホラー2025参加作品】
窓を打ち付ける雨音で目が覚める。ここ数日、断続的に降り続けている雨の音だ。
布団の中でじわりと上半身を起こした少年──景伍は、寝巻の袖で汗に濡れた額をぬぐった。それは窓から入り込んだ雨粒ではなく、昨夜の悪夢に呼応するかのように滲んだ寝汗だ。
景伍少年は何か夢を見ていた。しかしそれがなんだったのか、景伍少年は覚えていない。目覚めと同時にすっぽりと抜け落ちている。ただ、胸の奥底にひりつくような恐怖の余韻だけが、皮膚の下をぞわりと這い、かすかに“誰か”を見たような気配だけが脳裏に残っていた。
景伍はもう一度袖で額の汗を拭い、ふと思い、勢いよく布団をまくって中を確かめてみる。
――大丈夫。漏らした形跡はない。
小学三年生にもなっておねしょをするなんて、考えるだけで顔が熱くなる。ほっとした息をひとつ、景伍は静かに吐き出した。
そして、そのまま勢いよく布団から飛びだす。窓の外では、まだ細かい雨粒が絶え間なく舞い落ちている。
◆
あくる日の夢は、朧げに覚えていた。景伍は雨の中で、赤い傘を差した若い女の人を見た。どこの誰かもわからないその人は、どこか見覚えのある場所で何かをしていた。しかしそれがどこで、具体的に何をしていたのかまでははっきりとわからない。ただ得体の知れない存在に恐怖し、怯えていた。そして、これはここ数日見る夢と同じものだと直感していた。
怖い夢を見て怯えている、なんて恥ずかしくて誰にも言えない。景伍は窓の外を見やり、「今日も雨か」と口の中でつぶやいて、布団から出た――。
◆
ある日の夢は、もっとはっきりとしていた。ここ数日繰り返し見る夢とまったく同じ場面。暗闇の中で、赤い傘を差した女の人が、どこか遠くを見つめて立ちつくしている。相変わらずその女性が何をしているのかまではわからない。今回はっきりとわかったのは、その場所についてだ。
橋の上だ。
景伍の家からしばらく行った先にある、人里離れた橋。橋の名前は知らない。そもそも橋に名前があることすら景伍は意識したことがなかった。
その橋は何度か通ったことがある。記憶にある限りでは人通りも少なく、ほとんど使われていないような場所だ。
景伍は、自分がなぜこんな夢を見るのか、その理由自体に恐怖を覚えるようになっていた――。
◆
その日、学校が休みだった景伍は、夢に出てくる橋へ行ってみることにした。幸い、外は珍しく晴れている。だが、連日の雨のせいで川の水位はきっと上がっていることだろう。水に気をつけながら、景伍は濡れた地面の道を慎重に歩いていった。
遠い記憶を頼りに進んでいたため途中で道に迷ってしまったが、なんとか橋にたどり着くことができた。
川は予想通りに水嵩が増していたが、大きく荒れた様子はなく比較的穏やかだった。川岸は手入れがされておらず、背の高い草が伸び放題になっている。周囲が自然に囲まれているため、一見すると橋があることさえ気づかない。やはり、普段から誰も利用しないのだろう。
景伍は橋の手前に立ち、夢の中と同じ光景を探した。「ここだろう」と思える位置に立って橋を見つめるが、どうもしっくりとこない。もしかすると、違う橋だったのだろうか?
景伍は夢の内容を思い返した。
橋の中央に、赤い傘を差した女の人が立っている。周囲は暗く、おそらくは夜だろう。あるいは分厚い雲に覆われた昼間だろうか。分厚い雲――そう、夢の中では雨が降っていた。
女の人はなにかをじっと見ていた。それはたぶん、川だ。女の人は川の様子をじっと見つめていた。
その理由はわからない。そこから先の夢の続きは、曖昧すぎてはっきりと思い出すことができない。
何かが起きる気がする。
景伍は帰り際、橋の端であるものを目にした。橋名板だ。それはありがたいことに、すでに習った漢字で書かれていた。
『水送橋』
◆
帰り道を景伍は迷ってしまった。どうして来るときにはたどり着けたのに、帰りで迷ってしまうのか。景伍は、「あの道は反対だったんじゃないか」などと考えながら、後悔と不安で胸が押しつぶされそうになった。
空を見上げると、さっきまで晴れていた空が、まるで景伍の心を映すように、雨を降らせそうな雲で覆われていた。――そんな時だった。
「どうしたの?」
突然、女の人の声がした。うつむいていた景伍が顔を上げると、その声の主を見て、驚きで固まった。
夢の中に出てくる女の人に、雰囲気がとてもよく似ていたのだ。
「大丈夫? 迷子かな?」
恐怖に固まった景伍だが、なんとかして言葉を絞り出す。
「だ……大丈夫、です」
「そう? 迷ってない?」
「あ、ええっと……。その……」
初対面の大人に話しかけられることも初めてなのに、それが悪夢に出てきたような人だと、なおさら何を言っていいのかわからない。
「このあたりでは見かけない顔だね。もしも迷ってるなら、お家まで送ってあげようか」
景伍は言葉が出てこなかった。どうしたらいいのかわからず、あいまいに首を縦に振ってしまう。
そのとたん、女の人が景伍の右手をやさしく握った。
「住所……お家の場所は言える?」
景伍は流されるまま、小さな声で自宅の場所を伝えた。女の人は景伍の手を引きながら、「じゃあ、こっちだね」と歩き出した。
◆
道中、女の人はあれこれと話しかけてきた。それにより、景伍もだんだんと心を開いていった。
年上の女性と手を繋ぐことも初めてのことで緊張の上、夢に出た人にそっくりな人が隣にいることも、どこか強張る原因だった。だが話してみると、どこにでもいそうな優しいお姉さんだった。この人が、夢の人と同じ人なわけがない。
そもそも景伍は夢の中で、その女の人の顔をはっきりと見たわけではなかった。夢の中で景色だけははっきりしているのに、なぜだか顔だけははっきりと思い出せないのだ。なぜはっきりとしなかったのだろう。前髪が長かったわけでもないというのに。
そのお姉さんは、景伍に「水沙」と名乗った。
水沙さんの黒髪は、後ろでゴムを使いひとつにまとめられている。よくある、普通の髪型だった。
「どうして、あんな場所にいたの?」
水沙さんが訊く。
景伍は本当のことを言おうか迷った。だが、やめた。夢の話なんて信じてもらえるかもわからないし、それ以前に、その夢を怖がっていることを知られるのが、どうしようもなく恥ずかしかった。
だから、景伍は咄嗟に嘘をつくことにした。
「都市伝説があるって聞いて……」
「都市伝説?」
「えっと……近くに橋があるじゃないですか」
「水送橋のことかな」
「その橋で、赤い傘を差した女の人の幽霊が出るっていう、そういう……」
都市伝説も幽霊も、その場で景伍が思いついたものだった。夢の話はできないし、幽霊にしておいた方が説明がしやすい。
「それを調べに?」
景伍は無言で頷いた。水沙さんは「うーん」と唸るように声を漏らした。
「そういう話は聞いたことないなあ。もうちょっと詳しく教えてくれる?」
「たとえば、どんなですか?」
「そうだねえ……その幽霊の特徴とか、何をするのかとか。ただ現れるだけ?」
「それは……わからないです。何かするのかも……もしかしたら、何かした“後”なのかも」
「特徴は?」
「……暗い雨の日に赤い傘を差してて、髪はお姉さんみたいに後ろで束ねてて、白髪で、服は黒っぽくて……」
「白髪? じゃあおばあさんってことかな? それにしても、ずいぶんと詳しいんだね」
「あ、ああ、その……」
話しすぎた、と景伍は不安になる。まさか、夢で実際に見たと気づかれたのではないか? そんな曖昧なものを怖がって調べているのではと思われたのではないか?
咄嗟に景伍は、嘘を重ねる。
「って……友達が言ってたような気がします」
水沙さんは「へえ」と声を漏らした。
「知らなかったなあ。あの橋って、昔から雨のときは危ないって言われてるし、実際に流されて亡くなった人もいるらしいし。だから普段から誰もあまり使わないのよ」
「そう、なんですか」
「君も、あんなとこには近づいちゃダメだよ。最近は特に雨が多いからね」
「……はい」
ただの注意のはずなのに、景伍はなぜかひどく怒られたような気がした。
ふと周囲を見渡すと、知っている場所まで戻ってきている。
景伍は水沙さんにお礼を言うと、そのあとは一人で家へと向かった。
◆
翌日の昼寝で、景伍は今までにない夢を見た。
夢の内容自体はこれまでとほとんど同じ――水送橋、赤い傘、女の人――。けれど今回は違う部分があった。なぜ自分がその夢を恐れていたのか、その理由がはっきりとわかる内容だった。
誰かが水送橋から人を突き落としていた。
落とされた人物は、体格から見て大人の人だった。ただやはり、その顔や性別はわからない。景伍が夢で見たのは、ちょうどその人物が橋の欄干から落とされる、その寸前の光景だった。
川に落ちたその人がその後どうなったのかはわからない。ただ、雨で増水した川は荒れ狂い、その流れは濁流となっていた。
――これは現実に起きる。
景伍は直感的にそれを悟った。これは“正夢”だ、と。
その日も学校は休みだった。景伍は布団から飛び出し、いても立ってもいられず、雨合羽と長靴を身に着けて外に飛び出した。何をすればいいのかわからない。ただ、とにかくあの橋へ行かなければならない。そんな気がして、景伍は大雨の中を走った。
昼と夕方の間の時間帯。雨は降っているが、思いのほか外は明るく、不思議なオレンジがかった光が空を覆っていた。景伍は迷うことなく、水送橋の近くまでたどり着いた。
橋の手前に一台の車が停まっている。大きな車だ。その車と、周囲の背の高い草に視界を遮られ、橋の上がどうなっているのかは見えなかった。
景伍が恐る恐る橋に近づいたそのとき、バタン! とドアが開いたか閉じたかする音がした。近くに車はそれしかなく、間違いなくこの車から出た音ではあるのだが、車の向こう側の出来事だったため、どちらの動作かはわからなかった。
景伍はゆっくりと車の横を回り込む。すると、橋の中ほどに傘を差した女性が立っていた。
まさか――。
景伍の心臓が一気に跳ね上がる。だが恐ることはない。その傘は警戒すべき夢の中のような赤色ではなく、緑色だった。
その女性がこちらを振り向き、景伍は女性と目が合った。
「え。やあ、君は――」
先日、道に迷った景伍を案内してくれた水沙さんだ。景伍は驚きつつも、知っている相手だったために警戒心を緩めた。少し近づいて、会釈する。
「どうしたの? こんな大雨の中に」
「ええっと……」
夢のことは言えず、景伍は黙り込んでしまう。水沙さんもそれ以上は聞かなかった。黙って川を見つめている。水沙さんの左耳で、イヤリングが黒光りしていた。
景伍はその横顔に訊ねる。
「……水沙さんこそ、何をしてるんですか?」
しかし、水沙さんは答えなかった。視線を合わせることなく、じーっと濁流を見つめていた。
……と、ふいに口を開いた。
「なに、君に言われてちょっと橋を見に来ただけだよ。こう見えて、怖い話が好きなんだ」
水沙さんが微笑む。その笑顔に、幼い景伍の胸が一瞬ドキリと高鳴った。けれど、その直後――
「それにしても、君は人の話を聞かないんだね!」
突如、響いた大人の怒声に、景伍はビクッと肩を震わせた。
「昨日、この橋には近づいちゃダメって言ったよね?」
「そ、それは……」
「危ないとは思わなかったのかい?」
「すみません……」
「まったく。ほら、あそこの車に乗りなさい。私の車だ。家まで送ってあげるよ」
景伍はおとなしく従った。水沙さんがポケットから車のキーを取り出し、車に向けて操作する。
ピピ、と音がしてロックが解除される。
「助手席に乗って」
水沙さんは、橋の真ん中からそう言った。
景伍は車に近づき、助手席のドアを開け、車内に乗り込む。フロントガラス越しに水沙さんを見つめ、彼女が乗ってくるのを待っていた――そのときだった。
強烈な既視感に襲われる。
それがなんなのか、脳が状況をはっきりと理解する前に、体は完全に理解した。これは――夢で見たあの景色だ。景伍が先日橋を訪れて、どの位置から見てもしっくりこなかった理由はそこにあった。車の中から見た景色だったのだ。今の状況は、それと酷似している。
……となれば。
あの夢――人が橋から突き落とされる夢――は、まさに今日、これから起こる出来事なのではないか。夢の中の景色は酷く暗かった。今はまだ明るい。いまだに周囲はオレンジがかった光に包まれている。今日の夜、あるいはこれからすぐに暗くなっていくのだろう。そのとき、誰かが突き落とされるのではないか。
そんなことを考えていると――背後で物音がした。
(えっ……?)
なんだろうと景伍が振り返ろうとしたそのとき、後部座席で何かが大きく動いた。
――細い紐が景伍の首に回される。
強く、後ろに引かれた。
「うぇ……っ、ごぁ……っ」
かすれた音が、景伍の喉から漏れる。声にならない。景伍は小さな手で首に手をやり、必死に足をばたつかせる。
だが、子どもの力ではどうにもならない強さがあった。
呼吸が――できない。
酸素が脳から抜けていく。
景伍の視界が歪む。視界が──世界の色が反転していく。見慣れたはずの世界が、まるで違うものに変わっていく。
そのとき、景伍はすべてを理解した。夢の中の状況はこれから起きるのではなかった。もうすでに起きていたのだ!
だが、そう理解できたときには、もう遅かった。
景伍の腕はだらんと垂れ、頭が前にがん、とぶつかる。口が半開きになり、その隙間からとろりと唾液が垂れてくる。
やがて、水沙さんが運転席のドアを開けて戻ってくる。
後部座席にいた男が、肩越しに言う。
「やったけど、いいよな?」
「ええ、仕方ないわ。いつから見られていたのかわからないし」
「なんか話してたみたいだが、知り合いか?」
「昨日の下見のときに、ちょっとだけ話しただけよ」
「それ大丈夫か? 一緒にいるところを誰かに見られてたりしてないか」
「大丈夫よ。話してたのなんて少しだけだし。それに――この大雨。ははっ。水っていいわよね。過去も証拠も、すべてを洗い流してくれるんだから」
彼らを乗せた車は、水送橋から離れ、どこかへと向かって走り始めた。