第二話 涙の意味
その夜、カイルは眠れなかった。
いつもなら、眠れない夜は珍しくない。
夢を見ないように、ただ身体を横たえ、夜が過ぎるのを待つだけ。
だが、今日は違った。
目を閉じれば、あの少女の声が脳裏に響く。
——「あなたの方が、よっぽど変わってるわよ?」
笑いながら、涙をこらえるような目で。
カイルはそれを、知らず知らずのうちに思い出していた。
胸の奥で、何かが微かにきしむ。
壊れたはずの心が、かすかに動こうとしているのかもしれなかった。
*
夜半。
喉が渇いて起きたカイルは、水筒を手に野営地の外れへ向かった。
月明かりの中、小さな川のほとりに差し掛かったとき、誰かの声が聞こえた。
「……ごめんね、助けられなくて……。
私、もっと強くならなきゃ……」
その声に、カイルは立ち止まる。
川辺の岩に腰かけ、ひとり膝を抱えるリリィの姿があった。
顔を上げないまま、ぽつぽつと語りかけるように呟いている。
「また……誰かが目の前で消えていった。
笑ってほしかったのに、私、何もできなかった。
こんなじゃ……ただの、理想だけの子どもじゃない……」
言葉の途中で、彼女の声が途切れる。
その目から、音もなく涙が流れていた。
声を殺して、ただ静かに、肩を震わせていた。
——戦場で泣く奴なんて、何人も見てきた。
けれど、こんなふうに人のために泣く姿は……初めてだった。
「……泣いてる暇があるなら、剣を磨けよ」
無意識のうちに、カイルは言葉を発していた。
リリィがはっと顔を上げる。涙で濡れた目が、月明かりに揺れた。
「……そんなの、分かってる。
でも、泣いちゃいけないの? 私、悔しいの。
ちゃんと強くなりたい。誰も死なせないって、言えるくらいに……」
言いながらも、彼女は笑っていた。
泣き顔のまま、笑うという矛盾。それが痛いほど眩しかった。
どうしてこの子は、こんなにも折れないのか。
カイルは、川のほとりに腰を下ろした。
何かを言おうとして、けれど何も出てこなかった。
喉が詰まるように、言葉が出てこない。
「お前さ……前に、“希望を信じる”って言ってたろ。
あんなの、ただの幻想だ。戦場で生きてきたなら、分かるはずだ。
どんな願いも、すぐ血に塗れる。正しさなんて、武器にはならない」
「——うん。そう思ってた時期もあるよ」
リリィは少しだけ遠くを見て、言った。
「でも、誰かが希望を口にしてくれたことで、私は立ち上がれたの。
正しさが武器にならなくても、“あの人がそう言ってくれたから、もう少し頑張ってみよう”って、思えたの」
その声には、何の飾りもなかった。
ただ、本音だけが乗っていた。
カイルの胸に、小さな衝撃が走る。
「私は、あなたにもそうあってほしいの。
誰かを救うなんて言わなくていい。
でも、あなた自身が……あなた自身のことを、見捨てないでいてほしいの」
その瞬間、カイルの中で何かが崩れた。
張り詰めた氷が、少しだけ溶けていく音がした。
こんな言葉を、かけられるとは思っていなかった。
こんなふうに、自分を“人間”として扱ってくれる人がいるなんて、思ってもみなかった。
ふと、カイルは自分の手を見つめた。
無数の傷。乾いた血の跡。
それが、彼の過去だった。
だが今、誰かがその手を取ろうとしている。
「……バカだな。お前みたいな奴が、戦場に来るべきじゃない」
「そうね。バカかもしれない」
リリィは苦笑して、カイルの肩にもたれた。
「でも、バカでいられる世界を、私は信じたいの。
ねぇ、カイル。もし……私が壊れそうになったときは、あなたが引き止めてくれる?」
その問いに、カイルは答えなかった。
けれど彼の指は、そっとリリィの手に触れていた。
熱が、確かにあった。
それは、心を閉ざした少年が、初めて“誰かの手”を取った瞬間だった。
*
翌朝、カイルは誰よりも早く目を覚ました。
剣を磨きながら、ふと空を見上げる。
夜が明けていく。世界が、また少しだけ動き出す。
リリィが目覚め、笑顔で「おはよう」と言った。
カイルは無言で頷いた。
その頷きには、昨日までにはなかった何かが宿っていた。
——心を殺して生きてきた。
けれど、あの涙に触れた夜から。
何かが、確かに変わり始めていた。