第一話 心を殺して、生き延びる
鉄と血の匂いが、空を覆っていた。
焼け落ちた森の中、まだ燃え残る木々がパチパチと音を立て、風に吹かれて灰が舞う。まるで、世界がため息をついているようだった。
「……また、か」
カイル・ノルドは無感情に呟き、剣についた返り血を払った。切り裂いた敵の名も、顔も覚えていない。ただ命令通り、前へ出て斬っただけ。
それが仕事だった。心など、とうの昔に捨てている。
彼の周囲には、まだ息のある兵士たちの呻き声が響いていた。
「助けてくれ……」と、誰かが泣いていた。
だがカイルは、それを無視した。今さら情けをかけたところで、救えるものなどない。助けたところで、どうせまた明日、戦場に駆り出されるのだ。
彼の名は、仲間内では“氷の剣”と呼ばれていた。
冷たく、情もなく、感情もなく、ただ任務を遂行する兵士。
その冷酷さは、時に称賛され、時に恐れられていた。
だが彼自身は、自分がどう思われようが、もうどうでもよかった。
生き残るために、心を殺しただけだ。
*
その日、戦闘は予定より早く終わった。
敵の指揮官が撤退を命じたらしく、戦線があっさり崩壊したのだ。
カイルはひとり、野営地へ向かう途中だった。
そのとき、小さな声が耳に届いた。
「誰か、手を貸して……この人、まだ生きてるの……!」
女の声だった。驚くほど澄んだ声。
何を思ったか、カイルは歩みを止めた。
焼け跡の先、小高い丘の向こうから、その声は聞こえてきた。
見に行く理由など、ないはずだった。
だが足は、勝手に動いた。
丘を越えた先にいたのは、一人の少女だった。
汚れた戦場服に身を包み、血に染まった兵士の胸元を必死に押さえている。
顔を上げたその目は、涙で滲んでいた。
けれど、震えていなかった。まっすぐに、命を見つめていた。
「おい、その傷じゃ……手遅れだ」
思わず口に出した言葉に、少女は振り返った。
青い瞳が、彼を見据える。
「……手遅れかどうかは、私が決める。戦場の掟なんて知らないけど、まだ温かいの。まだ、息があるの!」
必死だった。真っ直ぐだった。
その姿に、カイルは一瞬、何かを思い出しかけた。
幼い頃の、泣いていた姿。
胸の奥で、忘れていた記憶が軋む。
「……あんた、軍の人間か?」
「違うわ。私は義勇団のリリィ……戦争せいで起こる誰かの涙を、止めたいだけ」
そう言って、彼女は微笑んだ。
その笑顔は、あまりに眩しかった。
戦場という暗闇の中で、ただ一筋の光のように。
*
兵士の命は救えなかった。
だがリリィは、最後まで兵士の胸元を必死に押さえていた。
カイルは何も言わず、その姿を見ていた。
なぜか、目を逸らせなかった。
夜。
野営地に戻ったカイルは、焚き火の前に座って剣を研いでいた。
そこに、ふわりと香る風。リリィがそっと隣に腰を下ろした。
「さっきは、助けてくれてありがとう。傷薬、持ってきたわ」
「いらない。……傷は浅い」
「ふふ、嘘つき。服が赤いわよ」
リリィは、柔らかく笑った。
その声に、心が波立つ。
どうして、こんな場所で、こんなにも優しくなれるのか。
カイルには、それが分からなかった。
「なあ。お前、怖くないのか。死ぬかもしれないのに」
リリィは少しだけ考えて、静かに言った。
「怖いよ。すごく。でもね、誰かが希望を信じなくちゃ、もう全部、終わっちゃうでしょ?
私が信じるのは、この世界が“まだ終わってない”ってこと。
そして——あなたみたいな人が、心を取り戻せるってこと」
その言葉が、胸に突き刺さる。
カイルは思わず目を伏せた。
心なんて、とうに捨てたはずなのに。
この女は、何もかも見透かしてくる。
焚き火の火が、ぱちりと爆ぜた。
夜空を見上げると、満天の星が瞬いていた。
こんな世界でも、空だけはまだ綺麗だった。
カイルは、小さく呟いた。
「……おまえ、変なやつだな」
リリィは笑った。
「うん、よく言われるの。——でも、あなたの方がよっぽど変わってるわよ?」
ふたりの間に、火の粉がふわりと舞った。
それは、長い冬の終わりを告げる、最初の火種だった。