そろきゃんは最高だべし
階下にはまだ猪の気配がある。人が減り車が減り、野生動物はあまり人を恐れなくなった。門番と思えば寧ろ心強いか。どうせアイツは2階に上がれない、人間様を舐めるなよカスが、あっはっは。
と、思っていた時期が私にもありました。
ドスドスと足音がする。意を決した猪が階段を上がってきたのだ。傾斜がきつくて大変でも着実に登ってくる。絶対に侵入者を許さないという、闘志の滾りが感じられる。ブルルン! 元気な野郎だぜ。
躊躇う前に動け! 俺は上り口に駆け寄り、段上から必殺の鉄筋で叩きまくる。
ドカン! バゴ! ガン!
「美味そうだな! この豚野郎! トンカツにしてやるぁ!」
三十回も叩いたろうか、ついに根負けした猪が階下へ転がり落ちた。息を荒げ、やったぜ! と思ったが奴はよろめきながらも身体を起こす。なんて奴だ! まだやる気なのか、と戦慄するもやっと負けを認めたらしい。ブルブルと嘶き去ってくれた。
ぶはあ、と大きく息をつく。
こうして俺は新たな縄張りをGETしたのである。
今度こそようやく、ささやかな平穏が訪れた。
窓を開けて空気を入れ替える。窓から1メートルほど退がった日陰から外部を確認する。あまり窓辺に近付くと外から見つかりやすいので気をつける。柔らかな風が吹き抜けた。雲雀の囀りが聞こえる。気持ちの良い天気だ。
泊まる準備、というか持ち物を確認する。汚れたベッドの上にブルーシートを開く。非常用のお茶のペットボトルと魚肉ソーセージが現れた。ブルーシートはそのまま寝床にもなる。新聞紙でも仕込めば充分暖かい。さらにリュックサックの背中のポケットからは、ヘッドランプ、ペンライト、サバイバルナイフ、百円ライター、歯ブラシを取り出した。今日の持ち物はこれで全部になる。全て点検して異常無かったのでまたリュックサックにしまう。
今夜はここに泊まるのだが、籠もるにはまだ日が高い。猪を警戒しながら階下に下りる。何もいない。小洒落たレトロモダン(意味不明)な内装の居間や台所を漁って米とポテトチップスをGETした。米は専用の保管箱にあり濡れた痕跡も無く多分大丈夫だ。らっき〜⤴。冷蔵庫の野菜など生鮮系は当然腐っている。
それから周辺の探索に出発だ。危ないとは思うがいつものことだ。閉じ籠もるだけでは先が無い。だから行くと決めている。暗くなる前に食事を終わらせたいから探索は三十分だけだ。
この辺りの探索は初めてだ。
とりあえず周辺で一番高い5階建てのマンションを調べる。周囲を一周してみる。比較的綺麗だが住人の気配は無い。駐車場には何かの生き物の残骸があった。エントランスのガラスが割れていて、そこから入れる。何か油でもぶち撒けたのか黒く変色している。当然エレベーターの釦を押しても反応しない。泥による足跡が無数にある。比較的明瞭で新しいものもありそうだ。なるべく静かに非常階段を3階まで登ると、古タイヤと金網のバリケードがあった。ただし破壊され隙間がある。あちこちへこみ削られ、金網には何かの付着物、そして血痕と思しき、夥しい黒い染み。通路脇にいたカラスが飛び去った。ここにも生き物の残骸があった。骨が飛び出している。干乾びて異臭はない。
最上階まで登った。
街並みを見渡す。全体的に古い家が多い。ゾンビ騒動以前は爺ちゃん婆ちゃんの多い、静かで平和で少し寂しい、日本のどこにでもある街だったと思う。半分ほどの建物に何らかの破壊が見られた。先程感染者と戦った場所を見下ろす。太田川の堤防が盛り上がっているのが見える。その向こうには北阿武山など安佐南区の山々がある。遥か南の広島市中区の方向に一筋の煙が上がっていた。目を返し幹線道路沿いにバイク屋を探す。何となく北の方にあったような気がするが見つからない。明日はあちらへ行ってみるか。中学校と思しき建物に目を凝らす。これは破壊が酷い。避難所だったようだが塀が低すぎる。あの程度の高さでは感染者を防げなかっただろう。
動くものの姿は一見すると無い。しかし家々の窓に目を凝らすと人影があるようにも見える。油断はできない。遠くの高層マンションの一室から、誰かこちらを見ているような気もする。この街の健常者がどれほど生き残っているのか知らないが、いてもおかしくないとは思う。それはDQNかもしれない。
居室のドアノブに手をかけた。ピッキングスキルが無いので大抵のマンションには入れない。今の御時世、戸締まりは生死に直結する。開いている居室はやはり無かった。ドアを引いて音を立てたが4件目の居室504号からは唸り声が起こった。感染者がいたか。
「グギョエアギウ!」
訳のわからない唸りと共に、ドアがガンと揺れる。
飛び退がって鉄筋を構えた。感染者の知能では開錠できないが、暴れた拍子に手が当たって開錠されるかもしれない。もしも他の部屋にも感染者がいたらこの物音で出てくるかもしれない。微かな死臭に気付く。
ここは日陰だ。
早く帰ろう。欲張らず先程の民家に帰った。
帰り道、電柱に新しい貼り紙を見つけた。コピー用紙をガムテープでベタベタと貼りつけたものだ。貼り紙には黒マジックで『集え若人! ピュンテンドー加部南店の攻略戦を開催します! 溢れる物資を山分けだ! 4月20日朝九時現地集合、雨天順延、飛び入り歓迎、安佐南区ガーディアンズ主催』とあった。
ピュンテンドーとは中規模ホームセンターのチェーン店である。加部南店はここから歩いて行ける。
4月20日とは2日後。胸が騒ぐ。社会崩壊後、初めて聞くイベントだ。
ホームセンターは窓が少ないため、感染者の巣窟になっていると思われる。危険だが大きな見返りが見込めるのは間違いない。それにしても安佐南区ガーディアンズとは初めて聞いた。いつの間にか自治組織のようなものができたのか。DQN組織かもしれないし、見知らぬ他人との共同作業には不安しかない。それでも、一応顔を出してみよう、とも思った。何か新しいことを始める良いきっかけだ。もしかしたらバイクのチェーンや工具を入手できるかもしれない。陰キャでも仲間ができるかもしれない。何事も最初の一歩が大切である。明日、ツンデレアスカ号の修理ができなければ参加確定だ、大丈夫、合コンに参加するようなもんだ、よしやるぞ!
今日の宿の民家に戻り、もう一度探索。カセットコンロと鍋とアダルトのふりかけ、新品ストッキングを見付けた。川の水を汲んでくる。ストッキングで濾過してから煮沸し米を炊く。どうせ全てを持ち帰るのは不可能だから3合炊こう、この幸せ者!
外部から火が見えぬよう2階の廊下に調理場をセッティングした。鍋で炊くのも慣れたもの、ゴキゲンで作業した。アダルトのふりかけご飯は最高に美味かった。久しぶりの満腹感だ。別にしておいた湯でハミガキを済ませた。ベッドの上で寝床を作る。ブルーシートに包まり、内部には新聞紙を敷き詰める。窓は閉じておいた。予想通り雨が音も無く降り出し、暗さが増した。窓辺にもたれ、眼下の通りを眺めて物思いに耽る。
小一時間もぼんやりしていたか、通りに感染者が現れた。髪を振り乱した老婆だ。知性の欠片もなく欲望のまま獲物を探して彷徨する姿は、芥川龍之介の羅生門を思わせる。感染者は視覚と聴覚で獲物を認識する。黙っていれば普通にやり過ごせる。
街灯がひとつも無いので夜闇の訪れは急激で深い。雨が音を吸収するのだろう、本当に静かだ。
そのままの姿勢で眠気に微睡み、どれほど経っただろう。夢のような夢を見て、何かの気配にハッとする。
通りを感染者の群れが行進していた。星明かりも無い街は怖いほど暗い。その中を蠢く気配は50を超えるか。なんとなく同じ方向へだらだらと歩いているようだ。暗すぎるから側溝にはまりゴミに躓き、そのたびに呻きをあげる。まさに百鬼夜行だ。これほどの数に追われればとても逃げられないだろう。押し潰されそうな緊張に心が冷える。絶対に物音を立てるな。
暗闇の気配を探る。階下に何かがいるような気がして仕方ない。
研ぎ澄まされた静寂の中、軒下に落ちる雨音が妙に大きく聞こえる。