第17話 報告
「ねぇ、リサ。残った人の中に子供はいませんでしたよね」
「はい、屋敷に入った次の日にクンペルが全員の素性を改めましたが、子供はおりませんでした」
廊下。書斎へ報告しに向かう途中。
クリシスはさきほど大広間で見かけた女の子を思い出し、隣の付添メイドに確認する。
しかし、口調こそ丁寧だが、リサの琥珀色の瞳。
『どうしたました。お嬢様、お馬鹿さんになりましたか』
みたいなことを言っている、とクリシスは察した。
伊達に何年も主従関係を続けているわけではないので、仕方がなく、クリシスはさっきの大広間でのできごとをリサに説明した。
「だとしたら、あの変態勇者候補さまが気づかないはずがないけれど……万が一に備えて、あとで名簿を確認いたしましょう」
「ええ、そうしたほうがいいわ。もしほんとうに子供がいたとしたら大変なことになってしまいます」
ベーゼはまだ屋敷の捜索に当たっている。
トリアは信者の何人かに手伝ってもらい、葬儀の準備を進めている。
クリシスは一応亡くなったクンペルの役割を引き受けたような形だが、実際のところは何もしておらず、ただこの場にいただけのような気がした。
ファルミの葬儀……あとで出席しないと。
昨晩青年の口から聞いた聖職者への愛慕を思い出し、このことも父に報告しなければと思うと、クリシスの足取りが泥に囚われたように重くなる。
「ところでリサ、お父様は書斎に籠もりっきりでしたけれど、ここ何日の食事はどのように?」
「いつものように、です」
「そうですか。また応急食料だけで済まされているのですか」
封印の祝福を持つズィーゲルは一人で研究に耽ける時は多かった。
邪魔されたくないと思う時は個室に封印をかけ、食料もできるだけ簡単な非常食で解決している。
勇者になれないので、せめて賢者になる。
それがクリシスの小さい頃から聞かされた口癖だった。
「お父様、クリシスです。ご報告したいことがございます」
各種のシンポジウムが刻まれた巨大な扉を、ドアを四回律儀にノックして、姿勢を正す。
扉越しでも、こういう細かいところから雰囲気が出るのだ。
しかし、返事はなかなか来なかった。
一分。
体感ではそれぐらいの時間が過ぎて、クリシスはリサのほうを見る。
彼女の顔もまた若干強張っているように見えた。
ズィーゲルはよく徹夜して研究に耽るため、ノックしても寝ていたケースが多かったが……
非常時であるため、どうして良くない想像がクリシスの脳内に過ぎってしまう。
「お父様、クリシスです」
唇を噛んで、クリシスはもう一度勇気をふり絞ってノックする。しかし、廊下は依然静まり返って、ただ二人の呼吸音がはっきり聞こえてしまう。
徐々に、クリシスの胃がずっしりと重い物をかけられたように疼く。
「リサ、これって……」
窓の外、最終防衛術式は依然薄緑の光を放っている。
ここ何日ズィーゲルが書斎にいたのはほかでもなく、術式を維持するためだと、皆にはそう伝えてある。
だから異形が攻めてこない限り、父の身は安全だと、クリシスは思っていた。
なのに、心のざわめきが止まらない。
ドアのノブを見る。
封印を施した以上、ドアは決して開かないようになっている。
クリシスがまだやんちゃできる年頃に何回もむりやり開けようとして叱られたことは記憶に新しい。そしていま……。
手が震えていた。
クリシスは左手を右腕に添えてなんとか落ち着かせようとして、それでも身体が言うことを聞かない。
たかがノブを回して確かめるだけの動作なのに、億節だった。
カチャ。
―――――
―――――――
―――――――――
「お嬢様、いけません!」
扉が軋む音よりも早く、リサの声がクリシスの頭を打ち抜く。
「入ってはなりません。お嬢様!」
半分も開いた扉を前に、リサは両腕を広げて止める。
小麦色の肌が焦りと恐怖で赤く染まり、いつもの冷淡さの欠片もない。
「どきなさい。リサ」
「しかし!」
二人の声が震えているのに、それでもかつてないほど強気な態度に出ていた。
「いますぐベーゼ様やトリア様をお呼びすべきです。僭越ながら、この際、お嬢様だけでは対処しきれないと判断します。旦那様にもしも本当に何かがあった場合、お嬢様は気を確かに保てるはずがありません!」
クリシスはこんなに声を荒げるリサを見たのは初めてだ。
彼女も分かっている。
今頭に描いた恐ろしいもの、もしそれが本当だったら、自分はきっとリサの言葉どおりになってしまうだろう。だから……。
震える息を、クリシスは口で吸い、鼻で出す。そしてできるだけ落ち着いた声で、噛みしめるように言葉を紡ぐ。
「リサ」
「はい」
「私はクリシス・フォン・ハルトマンですよ」
「承知しております」
「この状況において、他人頼みなど恥を晒すような真似はできませんわ」
「……」
名誉。
それは一個人に属するものではなく、ひいては関わり合った者全てで共有するものだった。
良き師に恵まれた弟子、徒弟の大成に感慨する師。
そういう相互関係があって誉れが成立する。
苛烈な戦争に勝利を収めた将官は民衆に誇りだと思われ、そこで初めて自身の誇りになる。
ゆえに勇者の家系に生まれた者は、生を受けた瞬間から多くの責務を背負っていた。決して逃れられない、たとえ失敗品であっても行うべき宿命。
――それは絶望に立ち向かう勇気を、身を持って示すこと。
クリシスは自分の不出来に引け目を感じている。
一方、それは致し方ないことだと納得する部分もあった。
世の中は仕方がないことが往々にしてあるから、受け入れざるを得ないとも思っている。
しかし、自分が不甲斐ないばかりに他者の誇りを踏み躙ることは絶対に許せない。まして、ハルトマン家代々が命を散らし、民衆が信じていた誇りであれば、彼女はこの身をいつでも捧げる覚悟も持っている。
でなければ、最初から要塞に戻るという愚行を選ばないだろう。
「ならせめて、わたくしも同行させてください」
言っても無駄だと悟ったのか、リサは震えながら深々頭を下げる。
本来、書斎は執事長であるクンペル以外の使用人は立ち入り禁止の場所だ。
領主ズィーゲルの研究成果が積まれた極秘区域として扱われている。
でも、いまは……。
「ええ、分かりました。頼みましたよ、リサ」
ここ何日かのことで、クリシスは分かってしまった。
燃えたハルトマン領を見て崩れ落ちたことといい、今朝焼き焦げた遺体を目にして吐いてしまったことといい。危機的状況において、自分はいかに身体を制御不能なのか。
目を瞑り、クリシスはスカートの裾をギュッと握りしめる。
「お父様、お許しください」
一歩、ドアを押しのけ、二人は書斎に踏み入れる。
うずたかく積まれた書類の山。雑然と並べられた羊皮紙のスクロール。あちこちに転がる魔石。すべてはクリシスの記憶通りの風景だった。
冷遇されて以来、才能がないとの一言で、クリシスは剣の道を取り上げられてしまった。そのため無為な日々を過ごすよりせめて知識を蓄えるべく、書庫には足繁く通っていた。
なのに、慣れ親しんだ場所なのに、クリシスはなぜか突如迷路に呑み込まれたようにとてつもなく恐ろしく感じた。
地面に転ぶ書籍の隙間を縫って、さらにぎっしりと並べられた本棚を何台もくぐる。
クリシスは身体中から込み上げてくる震えを堪えて進んでいく。
カチ……カチ……。
ただ時計が精密に、一秒の狂いもなく音を立てて回っていく。
そして、クリシスの目にあれが映った。
鈍色の光沢を放つ、不規則な模様が浮かぶ剣。
いわく、切断の性能を高めるため、鉄板を幾度なく炭火で焼き、最後に刻んで合わせ、薄く引き伸ばしたそうだ。複雑な工芸により、剣身は戦闘中に曲がりこそすれ、折れることは決してない。
一説によれば、神秘的な力さえ宿っているとされる。
こんな武器、守備軍の中でも一振りしかない。
『気』の祝福を受け、切断の異能を特化した武具。
勇者サルースに救われ、亡き城塞警備隊長ファルミの剣が、ここにあった。
だが、しかし、主を守るために鍛え抜いた刃は、いまや皮肉にも勇者の血族の長――ズィーゲル・フォン・ハルトマンの後頸部に突き立っていた。
着込んだローブは雑然と並ぶ資料とともに血の赤に染められ、無力に垂れる。俯く頭に、いつもクリシスを見るなり嘆く色を滲ませる真紅の瞳は、既に過去の威厳の欠片も抜け落ちて、ただの空洞が残される。
椅子にしがみつかれたように座る領主は、すでに抜け殻と化していた。
クリシスの頭が真っ白になった。
悲鳴。
絶叫。
声にならぬ嗚咽。
それがクリシス自身の声だと気づいた時、少女はすでに乱暴に自分の身体を掻きむしっていた。
爪が至るところに食い込んで、力強く割いていく。
痛みは、いますぐにでも消える彼女の心を辛うじてつなぎとめる唯一の感覚になっている。
「お嬢様!お嬢様、気をしっかり保ってくださいませ!お嬢様!」
リサは後ろからクリシスを抱えた。
朝のように巨大の樽を二つ軽々しく持ち上げるメイドは主を傷つけることを恐れ、結局クリシスをうまく抑えられずにいる。
「おいおいどうした。っつ!これは……」
「ベーゼさま、お嬢様をお止めください。このままでは!」
「ああ、分かってる。厄介な、声を聞いて駆けてみればこのざまか!」
どこかで聞いたことのある声が少女の耳に届く。
でもそれも聞こえるだけ、少女は、もう自分でいることを諦めた。
「嬢ちゃん、もう叫ぶのはよせ!ほかの奴らに知られちまったら混乱が起きるぞ!」
「駄目です。お嬢様はもうっ」
「チッ!」
「ベーゼ様!」
クリシスはどこかで衝撃を受けたような感じがした。
ぱったり身体の動きが止まり、視界が暗闇に支配される。
溺れるように、薄っすらとしがみついた意識は重く沈んで、堕ちていく。