第16話 眺望
朝日を受けて輝いて、丹念に刈り込まれた草木。大通りの両側に並ぶ清潔で豪華な屋敷。人々は道中で談笑を交わし、往来する人の流れは絶えることなく、視線のずっと先まで続く。身を乗り出して眺めると、白い石畳の上で手を取り合って踊る男女さえ見える。
記憶にある、賑やかで、活気の溢れる町並み。
その……真逆の光景が広がっていた。
血臭さと腐臭が一気に鼻に押し寄せ、クリシスは思わず息を止めてしまいそうだった。
破壊された道路にできた血溜まりの表面、泥と贓物が混ざった土色が光る。華美な屋敷は当然存在するはずもなく、あるのは柱も壁もいびつに折れ曲がった廃墟のみ。
そして、異形。
群れを成し、人の住宅を跋扈し破壊を繰り返す。周囲を圧倒する質量と数量を持って、この場所の真の所有者のように振る舞い、踏み抜いていく。
魔王の手によって作り上げた造物が待っているのだ。
――最終防衛術式が解ける瞬間を。
そうすれば圧倒的な勝利を土産に、次なる壊滅へ赴ける。
この戦略的思考を持たない愚直さは、籠城するこの時期に果たして喜ぶべきか否か。
上ベリーの城壁に立って、クリシスは溜息を零す。
昔から何か思い詰めた時、彼女はこうして下町を眺めるのが好きだった。
しかしいまは……。
「ん?嬢ちゃんじゃねぇか」
やや不遜混じりの声。なによりその呼び方、振り向くと、案の定みすぼらしいマントを羽織った中年男性がそこにいた。
「どうやってここを知ったのですか」
ここに来る時、クリシスはリサも傍に置かないことが多かった。
一人でいたい時に邪魔されるのは、正直不愉快な思いである。
「知ってるもなにも、屋敷をくまなく調べてるんで。たまたまこんなところにきただけさ。ふむ、にしても、異形どもが無ければさぞいい眺めだろうな。残念残念」
クリシスの視線を辿って、ベーゼは腕を組んで隣に並ぶ。
帰ろう。
失礼を承知ながらも、クリシスが真っ先に浮かんだ考えはそれだ。
この男ならどうせ気にもしないだろうし、帰って、父に昨晩のことを報告しなければと思った。
「んで、どうした」
男が切り出す。
踵を返そうとするクリシスの足が止めて、思わず目を見開いた。
この男、まさか相談役にでもなるつもりでは……。
「おいおい。顔に出てるぞ嬢ちゃん。せっかく親切にしてやろうと思ったのに、なに?もしかして下ネタのほうがよかったのか」
髪を掻いて、ベーゼサラリと嫌なことを口にした。
だから帰ろうと思っていたのに。
クリシスは半眼になる。でも、すぐにその場から立ち去らなかった。
ふと、彼女は昨晩の食堂でのできごとを思い出す。
「ベーゼさんは、その……一応お子さんがいらっしゃるんですよね」
「ああ、もう何年も会っていないけどな。ってか一応は余計だ」
「では、その……ベーゼさんは娘さんをどんな風に思っています、か」
はっきりしない物言いをするクリシス。
結局父に会うのが怖くて、彼女はここに立ち竦んでいる。昨日ドア一枚を隔てて感じてった突き放した口調。それが不安で、ついいつもの場所に訪れてしまった。
「なるほど、ハルトマン卿か……」
まさか少女がほんとうに相談を切り出すと思わなかったのか、ベーゼは一瞬気まずい素振りを見せて、咳払いを一つ。
「まぁいいぜ。少し話をしよう」
もったいぶるように、ベーゼは腕を組んだ。
出会った時からまるで見せなかった父親としての一面を、なんとか格好をつけようとしているようにクリシスは見えた。
「嬢ちゃんは父親に疎まれてたよな」
「それは……はい」
「理由は心当たりがあるかね」
頭に遊離する過去の思い出。
けど全て説明するわけにもいかず、クリシスは言葉を選ぶことにした。
「たぶん、いま目の前に跋扈する異形、彼らにも戦う理由があるか考えているせいではないでしょうか」
「ほほ、これはまたなかなか……とても勇者の家系の人間とは思えない考え方だな」
驚きはなかった。皮肉にも冗談にも聞こえる口調でベーゼは返事する。
「分かっています。でも……」
それでも、心は言うことを聞かないのだ。
言葉を半分呑み込んで、クリシスは頭を振って、自制した。
「ベーゼさんの娘さんは言うことを聞かないことがありますか」
「ハハハッ、そりゃ言うことを聞くもなにも、いつもわがままを通してきたからな」
そう言っているわりに、ベーゼの顔は清々しいほどの笑みを帯びていた。
「妻も神職に就いてるから、その仕事の辛さを知っているつもりだ。それで娘に冒険者と神職だけはやめておけと言ったら、一人で神官の選抜に行ったものよ。まったく困ったものだ」
「それで、ベーゼさんはどう対処しましたか」
「どう、対処しました、か」
遠い目をして、ベーゼは朦々の煙に覆われた空を見上げる。
「オレはな。子供がちゃんと成長して、守るのが親の務めって思うのよ。まぁ、五年も家に帰ってないから、正直言える義理じゃないけど。自分も子供の頃はやんちゃだったしな。それで何かあれば親が尻を拭けばいいと考えてる……んで、娘にはすきにさせてやった」
「そう、ですか」
親には子供を育てる責任はある。
そうベーゼは言おうとしているだろうと、クリシスは感じた。
でも、これが果たしてクリシスの状況が当てはまるかどうかというと、やはり違ったと思った。
――弱き者の盾となれ。
ハルトマン家の家訓を、物心がつく頃から、クリシスはずっと言われ続けてきた。
上に立つ者は常に正しさを求めなければならない。その決断のひとつひとつが多くの者に影響を与え、あるいはは死へ追いやることさえままある。
勇者の家系に生まれた者はより多くの者のために自分を、家族さえ二の次にする必要がある。
だから、わたしは欠陥品になるのでしょう。こういうの、聞くだけ虚しいことぐらい、最初から分かっていたのに……
苦笑して、クリシスは胸のうちにためた虚しさを吐き出すようにため息をつく。
そもそも、普通の家族愛を求めるのはそもそもの間違いかもしれないと思った。
「ベーゼさん、ありがとうございました」
軽くお辞儀して、クリシスは今度こそ屋敷のほうへ踵を返す。
そのうしろ、遠ざかっていく少女の背中を見つめて、「やっぱらしくないわ」とベーゼの自嘲混じりの声がした。