第13話 火事
慣れ親しんだ部屋で、クリシスは目を開く。
ふかふかの天蓋付きベッド。綿と羽根が詰まった寝具。周りに飾られた調度品も明らかに意匠を凝らしたもので、一瞬まだ夢の中だとクリシスは錯覚した。
確か、昨晩は食堂で……
記憶を辿ろって身を起こすと、クリシスはふと柔らかい何かに触れた。
付添メイドのリサが隣に寝ていたのだ。
やや褐色の肌に、薄いピンク色の唇。長いまつげは鼓動に合わせて上下し、昔と変わらず抱きつきたくなるような精緻な顔立ちだとクリシスは思った。
頬に触れてみて、吸い付くような感触も実に悪くない。
もし、部屋中に漂う品の良さをかき消すような戦場の焦臭がなければ、きっと、クリシスは男と出会ったこの一日が嘘だと思っただろう。
「リサ、リサ起きて!」
現実を意識した瞬間、悪寒がクリシスの脊椎を打ち抜く。
「ん~?どうなさいましたか、お嬢様」
「どうなさいました、ではありません。大丈夫?どこか不具合はありませんの」
二人とも着衣のままベッドに寝転んでいる。
恐らく術式が作用した瞬間ぱったり意識が止まっただろうとクリシスは思った。
ただ皮肉なことに、術式の影響とはいえまさかここまで心地よい安眠になるなんて、クリシスはとても複雑な気分になってしまった。
「いいえ、いたって健康だと思いますが」
大きくあくびを一つ。
リサは目を擦ってあたりを見回す。
そして何秒か経てようやく状況を呑み込んだのか、ゆっくりとベッドから下りる。
「おはようございます、お嬢様。今日はいいお天気ですね」
「そういうのはいいですから」
軽い頭痛を抑え、クリシスはブーツを履き込んで慌てて部屋の外へ向かう。
ドアに棚などの家具が立て掛けられて外部からの侵入を防いでいる。
クリシスの記憶にないものだが、とりあえずリサに手伝ってもらって、撤去することにした。
「朝は昨日のように食堂で集まりますか」
「はい、そのように決まってはいるんですが」
「ですが?」
「それを決めたクンペルは既に亡くなりまして、サポートするファルミたちもかなり厳しい状態だと。恐らく食堂に集まったところで、昨日のように死者を改めることはできないでしょう」
「……そうですか。でも食堂に行くこと自体は意味があるはずです。人数の確認とか、!」
最後の椅子を撤去して、ノブを回す。
するとヒリヒリした感触が突如クリシスの指先を撫でた。
「これはっ」
「いけません。お嬢様は部屋のほうにいてください!」
空いた隙間から薄らと黒い焦臭が漂ってくる。
クリシスはこの臭いを知っている。
裸足で丘を駆け抜けた最中、その時もこんな肺を焦がすような圧迫感に襲われていた。
火事⁉
「お嬢様は屋敷の外へ避難してください!」
リサが飛び出していった。
目に留まらぬ凄まじい走り方で、メイド服の姿は遠ざかっていく。
唇を噛んで、クリシスはすぐに覚悟を決めた。
この状態を放置するのは彼女にとってありえないことだ。
右、左。
角を曲がるたびに煙の密度が増していき、喉が火傷しそうに熱くなる。そして一階に降りた時、武芸の心のないクリシスは既に立っているだけで目眩がしそうだった。
――火元は、倉庫にあった。
早く水を汲んでこなきゃ。
そんな思案が頭を一周回るよりもはやく、クリシスの身体が宙に浮いていた。
爆発?
空白となった脳にこの二文字が現れた直後、ありったけの空気が肺から押し出される。
「かっ、っか、は、っく」
吹っ飛ばされた壁にぶつかったせいで激痛に襲われ、それでもクリシスは酸素を求めて口は大きく開く。無論、煙で充満した空間にあるわけがなく、鼻と喉にもたらした激痛だけが身体の内側に深く入り込んでくる。
だめ、これは……。
「神よ」
炎でミシミシと鳴る木材の悲鳴に、透き通った音色が転がり込む。
「聖霊の導きに与り、神の国の力、栄光を悟らせてください!」
金色が反転する。
思わず目を瞑るほどの光が乱射し、すっとクリシスの喉から熱気が薄れていく。
「クリシス様、ご無事ですか」
差し伸べられる神官の手を、クリシスは呆然と見つめる。
「ええ、大丈夫。でも、これはいったい、」
少し離れたところに、リサが立っていた。
急いで水を汲んできたのだろうか、手には大きな樽二つを持っている。それをぽんと地面に置いて、ほっとしたように息をつく。
周りにいる何人の領民もそれらしい格好だったが、やはり彼女の反応が一番薄かった。
――樽の中の水と、目の届く範囲が全て凍りついたというのに。
息を吸って、今度クリシスはまた別の意味で胸の奥が痛くなった。辺り一面が半透明に染まっていたから当然吐き出す息も白い。温度が激しく変わったせいで、ギスギスした痛みが胸の奥を軋ませる。
そんなクリシスの手を、見習い神官は力強く握った。金色の瞳に若干涙を浮かべながら、しゃがみ込んで俯く。
「尊き神よ」
祈りの言葉とともに、錫杖が光り出す。しかしその光はさきほどと比べて暖かく、安心できるものだった。
クリシスの身体を軋ませる痛みは、すっと消えた。
「ありがとう、ございます」
感謝を口にしながら、クリシスは慌ててさっきメイドが立っていた場所を一瞥する。
リサ……
褐色肌の少女は、すでにそこにはいなかった。
それでようやくほっとした表情がクリシスの顔に浮かぶ。
「いいえ、わたくしのほうこそ申し訳ございません。もっとはやく目を覚ますべきでした」
やはり涙ぐんだ目で、トリアは細い声を出す。
ええと……、こういう時はどう言葉をかければいいんだろうか。助けてもらったのに、助けた人が泣いてしまうなんて。
「あれ、嬢ちゃん、これってもしかしてもう解決しちゃってる?」
階段。
酒瓶を手に携えた無精髭のおじさんがゆっくり二階から降りてくる。
ふらふらとした足取り、寝たせいか更に乱れた髪。
ベーゼという男はいつものように不遜な笑みを浮かんでいた。
そのあまりにもこの場に似つかわしくない雰囲気で、クリシスは目の前の人間がまるで別の世界から来た気がして、唖然とした。
「ちょっとばかし寝すぎたわ。これだから歳を取ると、あぁ~やりづれぇわぁ」
寝起きのだるさを振り払うように、ベーゼは大きく背伸びする。
「しかし、こりゃまぁ~こんだけ死ぬとは」
?
困惑。
言葉自体はよく聞き取れたが、クリシスはその意味を理解できなかった。
死ぬ?
何が?
そして、彼女はすぐに自分の愚鈍さを思い知らされることになった。
冷気に混ざり、未だ周りに漂う焦げた異臭。
中に微かながらも香りが存在していた。
そう、本来なら食欲を誘うはずの、肉の匂いだ。
跡形もなく焼き払われた倉庫に、横になる十数に並ぶ人の形をするもの。すでに凍りついて、固まって、いびつに歪んだ亡骸。
炊婦や領民たちは各自決まった場所で休むとクリシスは聞いていた。
部屋にしろ、地下室にしろ、鍵がかけられる安全なところであれば、集まる。だから……
「ふん~こりゃ生きたまま焼かれたな……エグいやり方だ」
酒瓶を握ったまま、ベーゼは死体の傍にしゃがみ込む。
焼かれて、凍らされて、それでもまっすぐ天井へ差し伸べる黒焦げた手を、男はしばし見つめ、手を合わせて黙礼をした。
死んだ人は、果たして最後に何を思い、何を掴もうとしたのだろうか。
それを想像すると、クリシスは途端に息苦しくなって、目眩がした。
「どうやら経緯は分かるらしいぜ」
そう言って、ベーゼは氷に固められた地面をとんとん叩く。
鈍く光る青の下、焦げたドアの破片が埋められていた。
「ふむ、簡単に言うと、閉じたドアを力ずくで破って火を放ったってところか。しかし、なぜ先日みたいに後ろ首を狙わなかったんだろう。あえてこんな残酷なやり方で。解せんな」
顎を撫でて、ベーゼは考え込む。
「そういや嬢ちゃん、守備軍の野郎たちは見なかったか」
いえ……
そう答えようとして、クリシスは手で口を押さえた。
胃が痙攣して、何かが口の中に逆流してきたのだ。
なぜ?
理解が追い付くよりもはやく、ありったけの胃液を地面にぶちまけた。
目が潤んで、クリシスは泣きたい衝動に駆られる。
どうして、どうしてこんなに弱いの。たかが、たかが人が死んだぐらいで……。
人が、死んだぐらいで?
悔しさと自分の疑念に対する恐怖心が、クリシスをさらに錯乱させてしまった。
「クリシス様!」
「おいおい、人の話を聞いて吐くなんて失礼だぞ。まぁいいや、おじさんだから許すけど」
トリアが心配そうに覗き込む。一方、やれやれと、ベーゼは頭を掻く。
「で、取り込み中ですまないけれど、神官ちゃん、守備軍の野郎たちは見なかったか」
涙目で、それでも慌ててハンカチを取り出してクリシスの口を拭くトリアの動きはぱったり止まった。
「厨房に近い廊下のほうに、おりました」
「そっか……じゃこの中にはいないんだな」
酒を一口呷って、ベーゼは一瞬遠い目をした。
「二人ともあまり無理すんなよ。思い詰めると身体より先に心が壊れちまう。ここはオレに任せろ」
「待って」
この場から消えようとするベーゼを、クリシスは呼び止めた。
胃はズキズキ痛む、全身から力が抜けそうだ。でも……。
「私も一緒に行きます」
どうしても無力のままでいたくなかった。
懇願ではなく、しっかり意識を込めて、クリシスは口にする。
それがおかしかったのか、ベーゼの口元は緩む。
無精髭と相まって、ある種の不気味ささえ感じたほどに。
「ハハッ、好きにしろ」
それが答えだった。