第10話 昏睡
バタバタと、人は倒れていく。
少しずつ身体中の力が抜けて、壁や椅子に寄りかかって、最後は意識を失い、地面に横たわる。
この光景を、ファルミはこの一週間で繰り返し見ていた。
屋敷内の人数が減るにつれて、昏睡状態に陥る時間もだんだん早まって、今回は夕食の片付けを終えたばかりの時に発生した。
ファルミは時計を確認する。
八時五二分。
――昨日より一時間も早かったことになる。
このままいくと、おそらく明日は夜の帳が降りる前に昏睡状態に陥ることもありえるだろう。そして、限界値まで減ると、最終防衛術式は解除してしまう。
誰よりも、ファルミは重々承知していた。
食堂の床で静かに寝息を立てているトリアを、ファルミは不器用に、それでもできるだけ優しく抱えあげる。
見習い神官がいつも後生大事に持っている錫杖は、所有者が眠りにつく瞬間に姿を消した。いったいどんな仕組みなのか、ファルミには分からない。興味もない。
自分は馬鹿だから、説明されたところで理解できないだろうと、経験から学んだからだ。
少女の華奢な身体は細く、神官服越しに伝わる感触といい、ファルミは赤ん坊を抱いているような頼りなさを感じた。
少しでも力をいれるとこのまま折れてしまうのではないかと、かすかに心配するほどに。
もっとちゃんとしたところに寝かせてやりたい。
そう思うものの、ファルミはここ何日彼女がずっと領民の傍にいたことを思い出す。部屋まで運んでやるのは本当にいいのか躊躇して……思案したあと、結局、トリアを部屋の隅に座らせた。
こうしていれば、少なくとも身体は冷えないと考えた。
しかし……
「ごめんなさい。わたくしのせいで……」
ぽつりと、一筋の涙が見習い神官の閉じた瞳から溢れる。
その涙の意味を、ファルミは無論知っている。
だからこそ、余計に辛くなった。
「ファルミ、さきに失礼いたしますわよ」
女性の声だ。
ファルミが知るこの状況で動ける唯一の人物。
――リサ。
無愛想なメイドが屋敷に戻った主を背負って、食堂を出ようとしているところだった。
「隠し通路はお願いした」
そう部下に作戦を伝える要領でファルミが短く言葉を切ると、メイドは明らかに不機嫌になり、白目をむく。
「分かっております。お嬢様がお戻りになられた以上、わたくしもちゃんと責務を果たします」
まるで最初は責務を果たすつもりはなかったような言い草だが、これでようやく一安心と、ファルミは心底ほっとした。
最後脱出時に使う地下通路を、ファルミはリサに任せている。
入り口がお嬢様であるクリシスの部屋にあり、自分を含めた者が安易に出入りすると不都合が生じてしまう。対してリサは最終防衛術式の影響を受けず、加えてクリシスの付添メイドだった。
身分的にも実力的にも一番適任の人選である。
「では、さようなら、ファルミ」
リサは冷ややかな顔を崩さず、軽くお辞儀してクリシスを背負って歩き出す。
ここでおやすみと言わないのは、さすがリサだとファルミは思った。
明日もう会えないだろうしなぁ。
苦笑して、ファルミは立ち上がる。
「では、トリア様。自分もこれにて失礼いたします」
ビッシと背筋を伸ばし、ファルミは己の拳を力限り胸元にぶつける。
「どうかお元気で」
軍礼を全うし、今度こそファルミは迷わない足取りで廊下へ向かう。
最終防衛術式は内部の人間から生命力を吸収して外敵を防御する大魔法。身体能力の不足の者であれば、夜になると昏睡状態になる。
ただ、ファルミとリサはその範疇にいない。そしてさらに厳密に言えば、実は最初の夜、動ける人間は八人もいた。
そのことを、ファルミは誰にも言わなかった。
なぜなら……
鞘から剣を抜き、すっと引く。
無抵抗な相手を殺すのに、それだけの動作で十分だった。
後頸部から血がぼとぼと溢れ、守備軍の装備を濡らす。
静まり返った廊下に、ファルミは一人で歩く。
城塞の警備隊長として、これはいつものことだ。
屋敷の構造や隊員たちの配置は手に取るように分かるし、侵入を許した賊をどこから狙えば最善なのか、ファルミも常々考えていた。
だから、ここ何日の任務は度し難いほど簡単にこなせた。
隠し通路といい、兵舎裏の井戸といい、難を逃れようと中庭に行って、異形の死体を隠れ蓑にする仲間まで。全部ファルミが探し出して、手にかけた。
馬鹿の自分にしては気持ち悪いぐらい綻びのない殺人だと、ファルミは思う。
途中、何人か勘が鋭い隊員がファルミに相談を持ちかけたことがある。仲間が守備軍しか知らない場所に隠れたのに殺された。もしかして裏切り者がいる、とか。
その時、ファルミは士気を乱すと厄介だから秘密裏に調査を進めようと念を押して、夜のうちに消した。
昨晩のクンペルもそうだった。
執事の老人はさすがに長年領主の側近を務めたことはあって、犯人を絞り出すための策を用意した。もし最後の最後で犯人候補のことをファルミに話さなかったら、いまやとっくに一巻の終わりだっただろう。
この城塞において、ファルミは自分ほど勇者に恩義を感じている者はいないという自負はある。
屋敷の警備隊長に任命されたのも、その忠義の心にほかならない。
だからこそ、誰もファルミを信じて疑わなかった。
――しかし、過去とは追いかけてくるもの。
『どこかに不死者が隠れています』
屋敷に閉じ籠もった最初の日。見習い神官のトリアがファルミにそう告げた。
不死者はいわば時限爆弾のようなものだ。
災厄をもたらす力を持ちながら、本人は自覚を持たず普通の人間のように振る舞っている。ゆえに発覚された時、すでに手遅れな状況が殆どだ。
ファルミはこの目で不死者による災厄を見た。
八年前、彼らの生まれ故郷であるヒルンドー王国は王族に不死者が誕生したゆえ災害に見舞われ、跡形もなく氷に埋め尽くされた。
当時王国最年少の近衛隊員だったファルミは勇者に救われて生き延びたものの、繰り返された惨劇を、ただ為す術もなく見守るほかなかった。
その時の反動もあり、ハルトマン領に来てからもファルミは誰かを守る立場に就いた。馬鹿なので理屈は言えないが、こうするほうが安心だと、彼は感じた。
『祝福を受けた者と洗礼を受けた教会の者であれば不死者ではない』
トリアが強張った顔でこうファルミに切り出した時、ファルミは相手にするつもりはなかった。
彼はハルトマン家に忠誠を誓った身、そもそも不死者の処分は聖王庁直属の異端討伐隊の領分で、素人がやったとしてもどうしようもなかった。
しかし、ファルミはすぐ見習い神官の正体に気づいてしまった。
トリア・ファベル・ヒルンドー。
滅んだヒルンドー王国の姫。
かつてファルミが仕えていた王家唯一の生き残り。
そして不死者に成り果てた王族シーベル・ファベル・ヒルンドー。
その双子の姉でもあった。
「ダミ」
自分以外守備軍最後の一人。いまや血に溺れ、生気の失せた仲間の名を口にして、ファルミは痛いほど柄を握りしめる。
悲しみを覚える資格がないのは知っている。
それでも……罪の意識に苛まれずにはいられなかった。
もっとうまいやり方はきっといくらでもあるだろう。
でも……いつもやり方を教えてくれる勇者は傍にいない。
罪の歯車は、一度動き初めればもう止まることができない。
トリア神官の意志はかたい。
なんとしても不死者をあぶり出す。
不死者の弟で何もかも失った彼女にとって、不死者ほど危険でおぞましいものはないだろう。
先日の防御戦で大勢の命を救った、いわば恩人とでも呼べる神官を前に、かつて忠誠を誓った近衛軍の一人として、ファルミは苦しい決断を下した。
分かっている。
分かりきっているからこそ、ファルミは仲間を手にかけた。
より多くの者を救うために誰かが犠牲にならなければならないなら……。
まずは守備軍が盾になるのだ。
外、薄緑の光膜一枚越しに、異形どもは相変わらずうじゃうじゃいやがる。
休むことを知らず、鋼鉄めいた脚でバリアを叩き、強靭な尾を振り回す。
初めてあの軟らかい胴体についた目玉を向けられた時、ぞっと悪寒がファルミの体中を駆け巡った。
ハルトマン領の護衛軍は入隊当初から覚悟はできていたはずだ。
魔族を迎え撃つべく、人間の領地を護るために命を落とすことを。
勇者の家系に属することはつまり最前線で戦うことを意味し、だから大地が焦土となっても、屍が山積みになっても、ファルミたちは自ら地獄へ向かう。
しかし誰か想像し得ようか。
領地を襲ってくるのは魔族ではなく、こんなにもおぞましい肉の塊だと。
ファルミが目を閉じる度、総隊長が戦死した時の光景が瞼に浮かぶ。
異形どもに体の半分も喰われたというのに、あの深い毛に覆われた口から剣を振るい、目玉を潰した。
『戦え!戦って死ね!』
異形どものキイキイと発する甲高い声を切り裂いて、上官が最後の力を絞り出して叫んだ。
あの場で、もはや誰も生きて帰れると思わなかった。
逃げても生き延びられるわけがない。ここで戦わなければ、向かう先は真っ黒な太陽が昇る空。なら、どうせ死という道しかないなら、せめてハルトマンの家訓通り
――弱き者の盾になれ。
もし不死者が存在することで、領民を先に生贄にしようという合理的思考が多数決で決まってしまったら、自分たちはなんのために戦い、ここにたどり着いたのか。
それこそ確かな信念を胸に散った戦友たちに顔向けできない。
たとえ惨めな最後だとしても、せめて最後まで矜持を失わず、誇り高く。
自分にはそういう義務があると、ファルミは思った。
「よっ~小僧、用は全部済んだか」
廊下を歩き、ファルミは突き当りに着く。
そこに男が壁に寄りかかっていた。
ボロいマントを羽織り、腰には二本の剣。
無精髭の顔に不遜な笑みを張り付けて、一見隙だらけのように見える。
しかし彼は当代英雄候補の一人――モイラ。
そして会って一目でファルミが犯人だと見破った男でもある。
「二つお尋ねしたいことがある」
「どうぞ」
軽々しく肩をすくめて、男は応対する。
「どうして自分が犯人だと分かったか。それを知りたい」
「経験だ」
「けい、けん?」
短絡過ぎる答えに、ファルミは思わず繰り返してしまった。
「何十年もこの手の仕事をやっていりゃ、自然と分かってくるんだよ。人を殺したことのあるヤツの顔と、そうではないヤツの顔がね。それに、あんただけ血の匂いがぷんぷんしやがった」
「それだけで自分が犯人だと特定できた、と」
「いやいや、そんなまさか。あの時も言ったじゃねぇか。かまをかけてみたって。おまえ、あんまりにも清々しい顔してたからさ。外れだと思ったのよ。よほどの悪人でないとできない芸当だぜ、そんなヤツが勇者の家系で警備隊長なんぞやってたら話にならんだろ。だからいいやと思ったわけよ。どうせ殺人鬼さんとは夜に会えるわけだから……でも、夕食の時に話しかけてきたのは失敗だったな。あの会話でいろいろ台無しにしてしまったんだぞ」
「なるほど、お願いするのが早計だったのか」
こう言っているものの、ファルミの心には悔い一つない。
最初から、明日の太陽を迎えるつもりはなかった。
「それで二つ目の質問だ。ベーゼ殿、さきほど仲間を手にかけている時、どうして止めなかった」
みなが昏睡状態になる直前、男は便所だと言って、席を外した。
この男の実力なら術式の影響を受けずに行動できるとファルミは予想していた。
ただ、わざとこんな隙を与えてくれるとは思わなかった。
「あぁ、それかい?いや~これは少々口にしづらいかな。強いて言えば、異教徒、だから?」
「勇者候補にしてはキツイ冗談だね」
「ハハハッ、オレもそう思うよ」
この男の話すことはいったいどこからが真実か、それを見抜けるほどファルミの頭は良くない。もしかして男はこの短時間で状況をすべて把握できた、かもしれない。
でも、今となってはファルミにとってどうでもいい話だ。
「ベーゼ殿、自分と手合わせしてもらえないだろうか」
人は都合に合わせて嘘を吐くが、剣は決して偽りを語らない。
果たして男の真意はどこにあるか、剣を交えれば自然と分かることだ。
ファルミにとって、これが一番望ましい結末でもあった。
男は驚かない。寄りかかった壁から離れる。
「ふん、やはりただでは死んでくれないのか。まぁ、いいよ。餞別だ」
そう言って、手を短剣に添えた。
「でもな小僧、さきに言っとくが、もしお前が裁かれたいなら人違いだぞ。オレより、嬢ちゃんのほうがお似合いだ。オレがやるのは正義ではなく、ただの殺人だからな」
「人を殺すことは等しく悪だ。正義とは、人のために命を落とすこと。お嬢様にそのような罪を背負わせたらそれこそ勇者に顔向けできない」
「ほほ、人を守るのが正義か。なかなかいいセンスしてるね」
男は剣を抜き払って、斜め下に構える。
うっすら暗い闇の中でも、その武器は光を反射させ、ファルミの顔を映す。
使い古された外見と違い、使い熟した達人こそ発する鋭さが伺えた業物である。
「そっちの剣は抜かないのか」
男が左に下げた包帯で巻かれた剣に視線を落として、ファルミは問う。
「必要があったら抜くよ」
別に軽蔑を込めたわけではなく、ただ当たり前のような口調で、男は肩を竦める。
「なるほど」
さっき異教徒で質問を誤魔化したことといい。おそらくこれが男の切り札だとファルミは踏んだ。出し惜しみすう余裕があるとは癪だが、やることは変わらない。
「86代目の勇者サルース・フォン・ハルトマン直属。ファルミ。ご教授願います」
「ベーゼだ。以上」
ファルミは地面を蹴った。
声がまだ尾を引きずっているうちに先手を取り、切り込む
鞘から奔る閃光が一直線で男に襲いかかり、しかし男の顔色はブレず依然飄々とした雰囲気を放っていた。