希望の箱・後篇
「ああ、旦那」
酒気と煙草の煙でよどんだ空気の中、待ち合わせていた人物が、こちらに向かって軽く手を振った。
千鳥足の他客を押しのけて、ルエイドは彼のいる、店の隅の席へと移動する。
「よお、クロウ。
もうこんなに飲んでんのか」
テーブルの上に並んだボトルやジョッキの数を数えて、ルエイドは肩を竦めた。彼、クロウとは昔からの付き合いだが、いつも彼の飲みっぷりには感心させられてばかりだ。
クロウは、少し照れたように頭を掻き、「おかげさまで」と受け流した。
「あんたがおごってくれるって言うからさ。金っつー制限がないと、ついつい」
「おいコラ、制限がないなんて言ってねえぞ。目に余るほど飲みまくるようだったら、お前の報酬から引くからな」
「まあ、それでもいいんだけどね。報酬もどうせ、酒代に消えるさ」
「本当に、お前ってやつは…」
ここまでの会話であれば、ただの呑み仲間の与太話であっただろう。
だが次の瞬間、ルエイドは顔からすべての表情を消していた。上着のポケットから小さな紙片を取り出し、テーブルの下で受け渡しを行いながら声のトーンを落とす。
「こいつらを、始末してくれ」
クロウは彼の豹変にも動じることなく、悠々と酒瓶の陰で紙片を開いた。中には、数名の名前が書いてある。
酔いでとろけていた眼が、見開いた。
「この間の計画が失敗したとき、王子を連れ戻しにきた連中だ。
できるか?」
「こりゃあ、旦那――」
言いかけて、途中でジョッキをあおるクロウ。飲み干し、力任せにジョッキを置くと、
「とんでもねえ奴らを敵に回したなあ」
「兄貴にも散々文句を言われたよ。
俺は良く知らねえんだが、そんなにヤバイ奴らか?」
「ああ、ヤバイな」
口だけで笑うと、クロウは独り言のように言った。
「同業の間の話でも、トップを行くヤバイ奴らだ。特に、上の二人。何でこいつらが、仲良く天空王の犬をやってんだか。世も末だねえ」
「憂いてる場合かよ。できるのかできないのか、どっちだ」
切羽詰まったルエイドの声。クロウは「まあまあ」と彼をなだめ、もう一度酒を注ぎ飲み干すと、
「ヤバイっつってもな」
先ほどのものとは別次元の、歪んだ笑みを浮かべた。
「奴らは、それほど殺しに特化した仕事をしてる人間じゃない。一人は、そういうことをしていたようだが、それも大した数をこなしてるわけじゃあねえみたいだしな。
おまけに、こいつらを殺ればオレの名だってハネ上がる。ガキ共に、「熟練者」の力ってのを思い知らせてやろうじゃねーか」
「今回はダメかと思ってたが、良く言ってくれた」
ルエイドは頬を緩めると、空のジョッキ二つにウイスキーを注いだ。
「頼んだぜ。こんなところで足止めされるわけにはいかねーからな」
「ま、顔ぶれが顔ぶれなだけに一筋縄じゃいかないだろうが、気長に待っててくれや」
二つのジョッキが、重い音を響かせぶつかる。
下町の酒場の夜は、まだ始まったばかりだった。
殺人事件が起こってから、数日後。
連日、城下町での情報収集や、旅費稼ぎのために付近の魔獣退治などを引き受けていたエドルたちだったが、思うように情報が手に入らず、鬱々としていた。
というのも、希望の箱に関する情報はいくつか氷海が調べて持って来たのだが、肝心な情報が見つからないのである。
「マジうぜえ。本拠地さえわかれば、とっとと乗り込んでさっさとぶっ潰して、あっという間に解決するってのに」
大して目新しい事も載っていない資料を放り、ディオは眉間の皺をますます増やした。湯気の立つマグカップを両手で抱え、リシェルアもため息をつく。
「かと言って、地区支部みたいな建物も、この町にはないみたいねー。
一体、どこで活動してる団体なのかしら…」
「ここが魔界だったら、本部の場所は十中八九、アトリクスなんだけどな」
アトリクスとは、魔界にある都市である。「神聖都市」とも呼ばれ、魔界で興った宗教の本部がほとんどここに建てられているのだ。地方の信教者にしてみれば聖地のひとつと言っても良く、神官や僧侶を志す者の憧れの地となっていた。
「とりあえず、昔から排他的な団体で、特に天空教とは、悪い意味で因縁のあるところだったていうのはよくわかったよ。
それにしても、当時の天空界で最大の宗教勢力だったはずの天空教と張り合うとは、とんでもない度胸だよな」
「張り合うと言っても罵り合う程度で、さすがに物理的な行動に出るほどの力はなかったようだがな。
しかし現在は、これだけの事件を起こせるほどの勢力を密かに抱えていたということか」
「でも」
リシェルアが、可憐な仕草で首を傾げた。
「現代にはもう、天空教は存在してないわー。派生の創造主教も、今となってはそれほど大きな宗教とは言えないし…。
今の彼らは、何が目的なのかしらー?」
「天空王子をあっさり手放したところからも、王家転覆ってセンは薄くなったしな」
そう言って顎に手を当てるディオを流し目で見る。
その時、エドルは不意に、天空城で王に報告をした時のことを思い出した。
現れた疑問を思ったまま、何気なく口にする。
「そういや、ディオ。お前、この間天空王に希望の箱の事訊かれて、何か知ってるような素振りしてなかったっけ?」
後悔したのは、相手の反応を見る直前だった。
案の定、見合った黒い目が、本当に刺さるのではないかと思うほどこちらを射抜いてくる。
「…してねえし」
視線はそのまま、宿の窓の外へと向けられた。帰って来たのは予想通りの反応。
不機嫌の絶頂に達した横顔を眺め、エドルは、氷海が彼のこの反応に食いつくのではと内心冷や冷やしていた。だが、今の月傷に安易に触れるとどうなるかというのは、氷海も心得ているようだ。何も言わず、手帳を読み返している。
凍りつく空気。煮詰まる話し合い。
わざわざ場の雰囲気を崩した自分の無遠慮な言動を反省していると、急に相棒が、三度目の疑問を投げかけてきた。
「…エリス、また来てないのねー」
またか、と、一同は同時にため息をつく。
夕食後に、今後の行動を決めるから集合するようにと、彼女には言っておいたはずなのだが。
「奴の行動は、良く分からない」
独り言のように応える氷海。
「宿でごろごろしていたかと思えば、知らぬ間に出かけていなくなる。一緒に歩いていたかと思えば、いつの間にか姿を消す。
自由奔放というか、気まぐれというか、落ち着きがないというか」
「まともに付き合ってると、振り回されてばっかりだよ。
ぶっちゃけ、居てもあんまり役に立たねーし、放っとこうぜ」
これ以上あのわがまま少女に振り回されるのは、エドル自身、あまり面白いことではなかった。彼女の旅行に付き合っている場合ではないのだ。こちらは、二百万コイルという大金のかかった大仕事をしているのだから。
「この王都で情報収集を続けてても、もう何も出てこないぜ?別の町を当たった方がいいんじゃねーの?」
「…それもそうだな。王都内に本部があるとも限らねえし」
ディオが頷く。
「考えてみれば、天空王子を誘拐するという事件を起こした後に、その膝元である王都で活動をしていては、すぐに目をつけられる。奴らがのうのうとそんなことをしているはずがない。
やはり、ここに本部や関連のある場所はないとみていいだろうな。それに、」
氷海の瞳が、細まった。
「私たちも、そろそろここを離れた方が身のためだな」
「ここ数日は何もなかったけど、向こうが何をしてきてもおかしくないわよねー」
これだけ傍若無人に嗅ぎ回っているのだから、希望の箱も、エドルたちのことを煩わしく思っていることだろう。
「明日、隣りのアスレイナの町に向かって、そこからまた調査をする事にしよう。しらみつぶしになってしまうが、地道に聞き込みをするしかない」
「急ぎの仕事でもないし、ゆっくりでも大丈夫よー。
…でも、問題は…」
開く気配のない部屋の扉を、見つめるリシェルア。
言わんとしていることを悟ったエドルは、同じように扉を眺めて代わりに呟いた。
「エリスがごねたらどうするか、だな…」
今回も、彼女のいないところで今後の行動を決定してしまったのだ。後になってエリスから、「まだ王都にいたい」「勝手に話を進めるな」などと文句を言われる可能性は十分にある。
「奴を説得するのは、仕事の範囲外なのでな。
ここは、二人に何とかしてもらわないと」
氷海は無情に言い放ち、エドルの不満顔から、関係ないと言わんばかりに顔を逸らした。
「えーっ…」
「あの女がごねようと、計画の変更はなしだからな。
ちゃんとねじ伏せとけよ」
ディオも、手助けすらする気がないようだ。
エドルとリシェルアは顔を見合わせ、途方に暮れるしかなかった。
「大丈夫かしら…」
「あいつ、文句言い始めたら手に負えないからなあ…。
ほんとに、とことん迷惑な女だよ…」
つかの間の静寂の中にいる四人を抱えて、夜は更けていく。
その夜の裏で、今、何が起こっているのかも知らずに。
彼らの立てた計画は、既に手遅れだったということも知らずに。
「こんばんは、お嬢さん」
闇夜に溶けた街を、少女が一人、さまよい歩いていた。
名前も素性もわからないが、調べていく上で知ったことが一つ。この華奢な娘は、依頼の対象と共に行動しているという事。
「こんばんは」
娘は振り返ると、何の屈託も見せずに挨拶を返してきた。目を瞬かせ、こちらの次の言葉を待ちわび首を傾げる様は、あまりにも純粋だ。
「こんな夜中に、あんたみたいな可愛い娘が出歩いてちゃダメだよ。
家族とか友達とか、連れの人はいないのかい?」
「知り合いが四人、宿にいるんだけどー。あいつら、いっつもあたしを仲間外れにするもんだから、今日は自分から外れてきちゃった」
いかにもつまらなそうに、ため息をつく少女。俯きがちの目が寂しげだ。
「そうかい」
一言だけ残して、前触れなく少女との距離を詰めた。不審感を抱かせる間もなく、素早く、足音を立てずに。
「じゃあ、おじさんが楽しいところに連れてってあげよう」
はっとして顔を上げた少女の目が、自分の顔を捉える寸前。彼女は、全身にはしった電流に身体を震わせたかと思うと、声も上げずに倒れこんだ。
腕の中で身じろぎ一つしない少女を眺め、手に残った魔力の電気を打ち消す。
「さあて――」
口元を歪めたまま、顔を上げる。道なりにぽつぽつと灯っている明かりの一つを見つめて、せせら笑った。
「こんな可愛い娘を仲間外れにするような連中は、皆殺しにしないとなあ」
少女を抱いた男は、まるで元の姿に還るかのように、ゆったりとした足取りで闇へと同化していった。
月も星もないこの夜は、家々の灯火も、今起こった出来事をも飲み込んで、ただ、静かに深まっていくばかり。