天空王子誘拐事件・後篇
案の定、寝坊をして遅れてきたエリスを口々に罵りながら、一行は王都の近くの港町から船に乗った。隣の大陸に着いて山の麓まで行き、そこにあった小さな村で一泊すると、山を越えて、エヴァスタ旧天空教会のある谷へ。
エヴァスタ旧天空教会が見えたときには、すでに夕日が山の向こうに落ちてしまっていた。ふくろうの静かな鳴き声だけが、不気味に谷に響いている。
教会の傍までやってくると、一行は一旦森の木の陰に身を潜めた。旧教会の外に人影がないのを確認し、入口に集合する。
「昔、火事に遭って焼け落ちたって聞いたけど…案外、建物自体はしっかり残ってるんだな」
夜闇の紛れて尖塔の錆びた風見鶏がぎこちなく回っているのを、エドルは感慨深げに眺めた。
「外側はまだ綺麗なものだが、内部は見る影もなく崩壊している。
一番危険なのは地下だ。浸水や魔獣だけではなく、いつ天井が落ちてくるかわからないというのがやっかいだ」
「へえ、氷海お前、来たことあるのか?」
「私に追われていた馬鹿な賞金首がここに立てこもったことがある。私が見つけたときにはすでに、魔獣にやられていたが」
どさ、となにか重いものが落ちる音がして、二人は振り向いた。一番後ろでエリスが、地面に座り込んでいる。
「ねえ、もぉ疲れたよー」
「うるっせーな、さっきから!お前それ、今日何回言ったか覚えてるか?」
「知らないよ、そんなのー」
足を投げ出し、まるで駄々っ子のように首を横に振った。
「ちょっとここで休もうよー!もう動けないー!」
「あまり大声を出すな。中にいる犯人たちに感づかれる」
「だって!」
「しっ」
リシェルアが、唇に人差し指を当ててエリスを黙らせた。崩れた教会の入り口を、うかがうようにじっと見ている。
「どうした?」
「泣き声が聞こえたような気がして」
「セイレーンじゃなーい?」
先ほどから面白くないことばかりで完全にむくれてしまったエリスが、ヤケクソ気味に言い捨てた。
「最近のセイレーンは歌じゃ人間を騙せなくなってきたから、人の泣き声を真似するようになってるんだってさ。
あーやだやだ。世も末だよねえ」
「まじかよ」
「何騙されてんだよエドル。海の魔物のセイレーンが、こんな山奥にいるわけねえだろうが。
エリスも、いかにもあり得そうな嘘つくな」
「ちっ」
ディオの冷静なツッコミで、からかわれていたことに気づくエドル。舌打ちをするエリス。
二人が言い争いを始めようとしたところで、構っていられないという表情の氷海が動いた。
「何、もう行くの?」
「それが本当に人の泣き声だとしたら、天空王子の可能性が高い。王子はまだ、八歳だというからな。
なにかあってからでは遅いだろう?」
一応入口の壊れた扉の奥を確認して、人がいないか確かめると、氷海は他の四人が来るのを待たずに入って行ってしまった。
「あっ、おい待てよ!」
その後ろ姿が闇に消えるのを、慌てて追っていくエドルたち。
内部は、ところどころの崩れた天井から月の光が入ってくるだけで、明かりもなく真っ暗だった。
廊下の終わりにあった礼拝堂で、一行は立ち止まる。
「地上部はほとんど壊れてて、使い物になってねえな」
「そうねー。やっぱり、王子がいるのは地下かしらー」
「えーっ?あんな汚いとこいくの?服汚れちゃうじゃん」
「じゃあ帰れ」
「…そんなマジな顔で怒んないでよ。言ってみただけだってば」
「地下への階段は、ここだな」
部屋の隅に向かった氷海が、床に取り付けられていた石造りの扉を持ち上げた。重厚な音を立てて開いたその扉は蝶番が新しく、最近補修された跡があらわになっている。
「こっから先は静かに――」
「ひゃあああああああっ」
注意しようとした傍からエリスの甲高い悲鳴が上がった。同時に、どん、という鈍い音も聞こえてくる。
「!?」
魔獣でも出たかと四人は振り向いたが、そんな影は見当たらない。それどころか、エリスの姿も忽然と消えていた。
「エリス!どこだ!」
「いったあ…ここだよー」
閉鎖された場所から話しているような、くぐもった声が返ってくる。リシェルアが、魔法で明かりをつけて礼拝堂を照らしだした。
すると、並んだ長椅子の間の床に、大きく口を開けた落とし穴が。
「大丈夫ー?」
「怪我はしてないけど…」
穴の内部に明かりを向けて、声をかけるリシェルア。中から、いつもより比較的テンションの低い声が、穴の壁を反射して響いてきた。
「馬鹿だろ、お前」
「うるさいっ早く助けてよ!」
きちんと反論してくるところをみると、どうやら元気そうだ。
「穴の深さはどのくらいなんだ」
「うーん…あたしが落ちても怪我しない程度ってとこ」
「じゃあ、早く登ってこい」
「はあ!?怪我しない程度とは言ったけど、登れるとは言ってないよ!無理だってば!」
「なら、一生そこにいろ」
「あんたって、ほんっとサイアクだよね…ディオ」
「本当に登ってこれないのー?」
エリスは唸って、リシェルアの掲げる明かりの中で、壁に手をかける。しかし、その細い腕と華奢な手つきに、補助もなく登ってくることは無理に思われた。
「こりゃ、ダメそうだな…」
「…やはり、お前はそこにいろ」
「ちょ、氷海までひどっ」
「お前の為でもある」
氷海は一度、地下へと続く床の扉に目を向けて、エリスを説得し始める。
「地下では犯人たちと衝突する可能性が考えられる。怪我では済まないかもしれないだろう。
だから、そこで待っていろと言っているんだ。後でちゃんと迎えに来る」
途端に、信じてたまるかという目で氷海を睨みつけるエリス。
「ウソつき」
「失礼な。
私には、人を置き去りにして野垂れ死にさせる趣味はない。どこぞの月傷と違って」
それでも信じられないのか、エリスは口を尖らせて俯く。
ディオが、この暗闇の中で光っているのではないかというほど鋭い目つきで氷海を見ていた。それを視界に入れないようにしながら、エドルもエリスに向かって叫ぶ。
「ちゃんと戻ってくるって!」
「………しょーがないなあ。
絶対戻ってきてよね」
両腰に手を当てて、エリスはジト目で四人を見上げた。
「はいはい」
リシェルアが、にっこり笑ってそこに手を振る。すると安心したのか、エリスは穴の底に座り込んで待機の姿勢を取った。
「大人しくしてろよー」
「余計なお世話だよ。早く行きなって」
そっけない態度で見送る彼女を後にして、四人は地下への道へと降りていった。
「騒音女がいなくなって安心したぜ」
暗い通路を手さぐりで歩いていると、ディオが清々したという口調で呟いた。
「あの調子で騒がれたら、いつ連中に気づかれるかわかったもんじゃねえよ」
「足手まといになるからな」
それに、抑揚のない声で応じる氷海。
「適当に説得して、待たせておくことにした」
「お前、そっちが本音かよ」
その冷淡さが彼女の異称の元になったという話を、エドルはたった今思い出していた。
「………待って。何かあるわー」
右側の壁を探って歩いていたリシェルアが、足を止める。
「扉みたい」
「中に人は?」
扉に耳を押し付けて、リシェルアは頷いた。
「………声が聞こえるわ」
「どういう事だ!!」
突然、扉の奥から轟音のような怒鳴り声。驚いたリシェルアが顔をしかめて、扉から離れる。
「失敗だと?!馬鹿な!あれは正統な天空王族の血筋を引いているはずではないのか!」
「もちろんそうだ。ゼルヴァス王の実の息子だからな。
今回の場合は血筋云々の問題じゃないんだよ。あれがまだ、幼いっていうのが原因らしい」
木製の扉は薄く、しかも中にいる者たちは興奮しているのかかなりの声量で話していたため、会話の内容を聞き取るのは容易だった。
「ちっ…!これなら、姉の方にするべきだったか…」
「どちらにせよ、この計画は破棄したほうがいいな…時間をかけすぎた。王子ももう、用済みだな。
王の差し向けた仕事屋の連中が、間もなくここにやってくる」
「もう来てるっつの」
部屋の中にいた声の主が、さっと顔を青ざめさせてこちらを向いた。
話に夢中になっていて、エドルたちが部屋に侵入したことを知らなかったようだ。
「…来たか」
「死にたくなかったら大人しくしろ。ただし、命の保証はどっちにしたってねえけどな」
ディオが、銃口を二人の男に向けて凶悪な笑みを浮かべた。一歩でも二人がその場を動けば、倫理道徳に構わず撃つつもりらしい。
「額の傷に、黒い銃…。なるほど、王もとんでもない輩を味方につけたな…」
「俺の事を知ってるんなら、俺を相手にした人間がどういう末路を辿ったかも知ってるだろ?
遺言か命乞いか、どっちでも好きな方をする猶予くらいはやるぜ」
まるっきり悪役じみたディオの問いかけに応えもせず、犯人のうちの一人、黒い髪の男が、憎々しげに四人を睨む。
「計画は失敗、王の手先には見つかる…まったく、散々だ!」
「話を聞かせてもらったが、かなりお粗末な計画だな。
おまけに、どれほどの規模の連中かと思えば、たった二人だったとは予想外だ。目的はなんだ?身代金か?」
氷海が剣先を突き出して問うと、黒髪の男は鼻でそれを笑い飛ばした。
「たった二人?身代金?
貴様らの推察も、たかが知れているな」
突如、二人のまわりに魔法陣が描かれ光ったかと思うと、数匹の魔獣が現れる。もう片方のローブの男が、召喚の魔法を使って呼び出したようだ。相手にしても、エドルたちの実力であれば時間をかけることなく片づけられそうな数・種類だが、犯人たちを捕える際には邪魔になりそうだった。
「ここにいるのは確かに俺たち二人だけだが、別の計画を進めている仲間は大勢いる。
それにこの計画なんて、潰れたところで大本の計画に支障はない」
「身代金などという安っぽい目的なんて、もとから抱いてないということだ…
「希望の箱」をなめるな!」
言い捨てるなり、魔獣を盾にして後ろにある扉に逃げ込む犯人たち。
「あ、こら待て!」
四人は魔獣を思い思いの方法でさっさと倒してしまうと、その先の部屋へ飛び込んだ。
しかし、二人の姿は見えない。他の扉も見当たらず、いくら部屋の中を探しても二人は見つからなかった。
「くっそー…たぶんどっかに隠し通路でもあるんだろうけど、探してる間に逃げられるだろうな、こりゃ」
「しかし、べらべらと語ってくれたおかげで奴らの正体はわかった」
「希望の箱か…」
頷く氷海。
「私も宗教団体の一つとしか覚えがないが、それを調べるのは私たちの役目ではない。天空王の方に任せておけばいいだろう。
私たちは、天空王子の居場所を見つけなければ」
「だな。用済みだって言ってたし、ここに置き去りにされてるかもしんねー。
…それにしても」
エドルが、部屋を見回して首をひねった。
「ここ、何のための部屋だ?緊急時の避難場所にしては、やたら装飾が凝ってるけど」
天井や壁一面に描かれた壁画は時間の経過を経てはげ落ち、あるいはところどころに穴が空き、そこから地下水が少しずつ漏れ出て床を濡らしていた。放置されてる調度品は湿気にやられてぼろぼろで、既に使い物にはならない。
それでも、そこそこの広さを持ったこの部屋は、何か神聖さを帯びていて美しかった。地上部の礼拝堂と比べても、壁画も調度品も質がまるで違う。
殊に皆の目を引いたのは、入口の正面の壁に彫られている、太陽を象ったレリーフだった。レリーフそのものに金が張られ、無数の宝石が埋め込まれている。
「何のための…って、見てわかんねえのかお前」
「わかんなくて悪かったな!だって、礼拝堂は上にあったからここは違うだろうし…」
助けを求めるようにリシェルアを見ると、彼女はレリーフを眺めて感嘆のため息を漏らした。
「ここも、たぶん礼拝堂よー。
ただし、地上の礼拝堂が天空を崇める場所だとするなら、こっちは太陽を崇める場所ってところかしらねー」
「太陽?太陽を天空教が崇めてたなんて、聞いたことねーなあ。
だって、天空教は空そのものを崇めるから「天空教」って言うんだろ?」
「………お前、やっぱ馬鹿だよな」
再び軽蔑の視線を投げられ、エドルは怒りにまかせてその相手を睨みつける。
「「神聖なる太陽」の伝説、知らねえのか」
「………知らねー」
顔をしかめたまま小さな声で答えると、リシェルアがフォローするように説明し始めた。
「天空王族の直系の人は、代々、額に銀の六紡星の形の紋章を埋め込むのは、エドルも知ってるでしょう?」
「それがどう関係してくるんだよ」
「天空族の頂点に立つ天空王族が、どうして最上級の黄金色を避けて銀色を使っているか…」
錆びた燭台の光に照らされて神々しく輝くレリーフに触れるリシェルア。
「それは、天空王族のさらに上に、黄金色の太陽に例えられるものがいるからなのよー」
「天空王族の上…?神の一族か?」
天空界の上空に存在すると言われる、神々の住まう大地、神界。普通の人間には神の一族に会う事はおろか、神界に近づくことすら叶わないが、唯一天空王族だけが、神族と交流できるという。
神族については謎が多く、天空王族の権威を主張するために創られた架空の存在だとも言われていた。
「ううん」
しかし、リシェルアはかぶりを振る。
「違うわ、もっと上。神は神でも、神の一族の長、創造主よー」
「創造主?…なるほど」
現代にも続く創造主教といえば、元は天空教から派生した宗教だ。
「創造主を、太陽に見立てて信仰してたわけか」
創造主は、神族よりもはるかに曖昧な存在である。世界を創り、自らの血と肉と魔力から神族の祖先を生み出したというが、現在まで生きているのか、もう死んでいるのかもわからない。どんな姿をしているかも知られていない。
ただ漠然と、その存在だけが伝説や口承に謳われている。
「地方や人によって創造主の姿は違って語られるけど、どこでも共通して言われてることがあるのよー。
それが、「創造主は黄金色の瞳を持つ」っていう、神聖なる太陽の伝説。この部分から、創造主は少なくとも人間、あるいは動物の姿をしてるって考えられてるわ」
「金色の目が、太陽に例えられる理由ってわけか」
「………ところで、エドル」
納得して何度も頷くエドルを、呆れどころか軽蔑すら混じった目で見て氷海が尋ねる。
「貴様は話を聞きながら、どさくさにまぎれて何をしている」
いつの間にかリシェルアの隣りに立ち、まばゆい宝石で彩られたレリーフに手を伸ばしていたトレジャーハンター。リシェルアはただ触れるつもりで手をかざしていたのに対し、彼の指の動きは明らかに不審だ。
「………いいじゃねーか、宝石の一つや二つ」
ばれたと気づくや否や、エドルはふんぞり返って開き直った。
「他のトレジャーハンターの奴らがこれに手を出さなかったのが、不思議なぐらいだぜ」
「当たり前だ。手を出したら、天空王族に目をつけられるからだよこのボケ」
「エヴァスタは、魔獣が出るから放置気味になってるけど、朝廷の管理下に置かれてる建物なのよー。そんなことしたら、本当に泥棒になっちゃうわー」
「し、知ってるってのそんなん!悪かったって、取らねーよっ!」
皆に叩かれて、しぶしぶレリーフから離れるエドル。それでもまだ、「あんだけあるんだから、一個ぐらい取ったってバレねーだろ…」と未練がましく呟いていた。
「さて、そろそろ天空王子を捜さねえとな。
…連れていかれた可能性もあるけど」
四人は、本来の目的を思い出し頷き合って、まず部屋中を隈なく捜索した。しばらく調べていると、犯人の二人が逃げるのに使ったと思われる隠し通路を発見したが、もちろん二人の影も形もない。まっすぐ続いた通路と階段が地上に延びているだけで、隠し部屋の類も見つからなかった。
「やはり、王子は置いて行かれた可能性が高いな。少なくともこの部屋には、隠し部屋が見つからない。逃げる途中で連れ去ったわけではないということだろう」
「じゃあ、どこにいるんだよ。上の階にはいなかったぞ」
「地下もあらかた捜したしー…」
行き詰まり、黙りこくってしまう四人。
「…仕方ない。一旦戻るぞ」
「どこに?」
氷海はため息をついて、さも面倒くさそうに答えた。
「エリスが、退屈しすぎて文句を言いだしそうなのでな」
「って、いねええええええ!!」
あの気まぐれ少女が待っているはずの落とし穴の中は、なぜかもぬけの殻だった。一番最初に覗き込んだエドルは、穴の淵に膝をついてうなだれる。
「待ってろって言ったのに!つーか、どうやって出たんだあいつ!」
「まあ、これで引っ張り上げる手間は省けたな。その代わり、どっかで魔獣に殺されてるかもしれねえけど」
不吉なことを言い出す月傷の銃士を、エドルは思わず睨みつけた。
「変なこと言うなよー…」
「でも、あり得るわねー」
「リシェルアまで…」
あの気丈な娘に限ってそんなことはないと思い込む。しかし、ディオやリシェルアの推測を後押しするかのように、突然静寂を割って聞こえてきたのは――咆哮だった。
「これは、魔獣か?」
「マジかよ!」
教会を揺るがすほどの大音量からして、並の大きさの魔獣ではないことがうかがえる。エドルは、さっと顔色を変えた。
氷海が、咄嗟にエルフ特有の長い耳を床に押し当てた。何をしているのかと周囲が問う前に立ち上がると、エドルを見るなり穴を指差す。
言わんとしていることがわからず首を傾げると、彼女は、古代装置の動きよりも機械的な口調で命じた。
「エドル、行け」
「どこに」
「ここの下に」
「は?」
エドルは、確認のためにもう一度、氷海の指が示す先を見た。穴は黒々とした空間を見せるのみで、明かりで照らさなければ底なしのようにも感じられる。
「おれに、ここから落ちろと?」
「落ちろとは言っていない」
いつもの涼やかな表情と口調で首を振り、穴に向けていた指をおもむろにエドルに向ける氷海。
「その、背中の翼は一体何の為にあるんだ」
「えっ」
思わず、ぎくりと身体を竦ませる。
ディオが彼の背後に回り、十七歳の少年にしては比較的小さめの背中を確認した。そこには、たたまれた純白の翼が生えている。左右とも、呼吸に合わせてわずかに膨らんだり、収縮したりしてその存在を主張していた。
魔界のとある島には、翼人族と呼ばれる、人の姿をしていながら翼を持つ種族が住んでいる。エドルは、その島の出身だったのだ。
「そう言えば、そこらで見かける翼人はみんな、足で歩くより飛んでることの方が多いんじゃねえかってぐらい飛び回ってるけど…お前が飛んでるとこは見たことねえな。
何で?」
「そ、それは、あの」
どうあがいても目立つその大きな翼を、必死に隠そうと両手で押さえる翼人の少年。
相方が、笑いながら含みのある言葉を投げかけた。
「いろいろと、理由があるのよー。ね、エドルー?」
「そ、そ、そうそう。いろいろと…はは、は」
ごまかすために乾いた笑い声を立てるエドルとは対照的に、リシェルアは楽しそうだ。
「…まあ、使えないというのなら仕方ないが」
問い詰めるのも良いが、今はそんな事をしている場合ではないことも事実。氷海は腑に落ちないという顔をしながらも諦める。
「しかし、エリスが落ちても怪我をしない程度というのだから、お前が飛び込んでも平気なのではないか、疾風?」
彼が身軽で運動能力が高いことを強調するためか、わざわざ異名で呼ぶところが恨めしい。エドルは観念して、氷海の言葉に従うことにした。
「はいはい、わかったよ。降りればいいんだろ、降りれば」
散々渋った割にはためらいなく飛び込み、難なく着地する。
頭上から、氷海が尋ねてきた。
「何か、入口のようなものはないか?」
「はあ?落とし穴の中に?」
「あったとしたら、そこからエリスが出た可能性がある」
落とし穴なのに出口を作ってしまったら、本末転倒というものだろう。半信半疑で、エドルは壁や底を丹念に探ってみた。
「あ、れ?」
指先に、周囲の土壁とは明らかに違うものが触った。上から明かりを注いでいるリシェルアに声をかけ、手元を照らしてもらうと、
「これ、もしかして、扉か?」
ノブもなければ引き手もない。ただ、壁に板を取り付けてあるだけだった。
しかし、耳を近づけてみると風の通る音がする。
「あったか?」
振り返ると、いつの間に降りてきたのか氷海が立っていた。降りられるのなら自分が降りれば良かったのに、と詰め寄ると、「もし見当違いで何もなかったら上るのが面倒」と平然と返されてしまった。
扉と壁の隙間に指を引っ掛け、扉をこじ開ける。生温い風が吹き付けてくるのと同時に、先ほどと同じ魔獣の咆哮が、確かに奥から響いてきた。
「どうやらこの穴は…落とし穴ではなく、地下へのもう一つの入口だったようだな。使用時には、梯子でも掛けて降りてくるのだろう」
「てことは、エリスはともかく、天空王子がこの先にいるかも」
「ついでに、魔獣もいるだろうな」
「あらまあ」
ディオとリシェルアがも降りてきて、扉の奥の通路を感心したように眺めていた。
「少なくとも、さっきの二人よりも手ごたえのある奴だと、殺り甲斐があっていいんだがな」
銃を片手に低い声で言った時の月傷の表情を、しばらくは忘れられないだろうとエドルは思った。
四人が通路を抜けた時、すでにそこは一刻の猶予もない状態になっていた。
縄で縛られ涙目になって震えている天空王子らしき少年と、その前に巨体を佇ませている一匹のドラゴン。そして、一番手前で仁王立ちになってそれを見据えているエリス。
エドルたちが来た気配を感じるや否や、エリスは身体ごとこちらを振り返って開口一番、怒鳴った。
「おっっっっそっ!!」
その剣幕に思わず、エドルはたじろぎ半歩下がった。
「待ちくたびれてここに来ちゃったじゃん!
で?!犯人は捕まえたのっ?」
「う…えっと、逃げられ…」
「はっ?!あんたらほんっとマヌケだね!」
あまりの言われように反論しようとしたが、ドラゴンの威勢のいい咆哮に打ち消されてしまった。
真っ黒な体躯の向こうで、天空王子が丸い目をこちらへ向けて何か訴えている。
「とりあえず、あのドラゴンを何とかするのが先ねー」
氷海の視線が、床の、少々粗雑に描かれている模様に落とされた。
「魔法陣が描かれているということは、もともとここにいたのではなくて、召喚されたのだろうな。
先の、魔獣を召喚していたあの男の仕業か」
「あたしがここに入ったときにはまだいなかったんだけど、あの子のところに行こうとしたら出てきたの。もしかしたら、彼に近づいた時に召喚されるようになってたのかも。
あたしとしたことが、うかつだったね」
そう言いながらも、申し訳なさそうな態度を一切取らないところが、やはりエリスといったところ。
あらゆる獣の頂点に君臨する、まごう事なき地上最強の生物、ドラゴン。百年に一個の卵しか産まないこの獣は生息数が非常に少ないものの、長寿とその圧倒的な強さで、他の獣に命を脅かされることはほとんどない。その姿に神々しさを見出し、各地に竜信仰の風習が存在するほどである。
「おれら四人でかかれば、ドラゴンと言えどどうってことないだろうけどな」
「天空王子がいる。あまりドラゴンを暴れさせては、彼にも被害が及ぶ」
氷海が、剣を抜いて構えた。
「奴が炎を吐く前に蹴りをつけなければ。こんな狭い部屋で火を吹かれたら、天空王子どころか私たちもひとたまりもないぞ」
「そうだな。とっとと終わらせるか。
エリスは邪魔だから、どっかに隠れてろ」
ディオも銃口をドラゴンの頭に向けながら、エリスを見たが。
「さて、あんたたちも来たことだし、ようやっと反撃に入れるってわけだね」
彼女は呑気にそう呟くなり、やおらドラゴンに向かって、平然と歩み始めたのだ。
「何やってんだお前ーっ!」
「何って、ドラゴンを倒すに決まってんじゃん。
いーい?あんたたちが囮になってドラゴンを引き付けるんだよ。そしたらあたしがあいつの背後から、魔法でカタをつけるから」
「な、お、おま」
ツッコミどころが多すぎて、どこからさばけば良いのかわからず戸惑うエドル。
しかしその間に、氷海が眉をひそめてエリスに問いかけた。
「…魔法…?
貴様まさか、魔法が使えるのか?」
それを聞いて、エドルははっと我に返った。
エリスを見やると、きょとんとした瞳とかち合う。
「使えるけど」
「うっそだろ?お前、ただの旅行者だって自分で言ってたじゃねーか」
「ただの旅行者だけど、魔法が使えるの。なんか文句、ある?」
むっとした表情を見せて、エリスは不機嫌に顔を逸らした。
「な、なんで今まで隠してたんだよ?」
「は?隠してなんかないけど」
あっけにとられる四人。
確かに、隠してはいない。彼女は今まで魔法を使えるとは一言も言っていないが、使えないとも言っていない。まったく戦いに関する知識のないものだと思い込んでいたのは、エドルたちの方なのだ。
「とにかく、わけわかんないこと言ってないでドラゴンを引きつけてよ。あんなに尻尾をぶんぶん振りまわされてると、背後に回れないじゃん。
真正面から魔法使ったって、不意打ちになんないし」
「………」
四人は釈然としない思いを抱えながらも、彼女の言う通りにドラゴンの注意を引きにかかった。
リシェルアが炎の玉でドラゴンをかく乱し、ディオが銃口から魔力の弾丸を撃ち出してドラゴンの硬い鱗に傷を与えていく。氷海も剣をふるってドラゴンにエリスの存在を気付かせないようにし、エドルはエリスの移動を補助していた。
「本当に、使えるのか?」
「まだ疑うわけ?それは、今からあんたの目で確かめなよ」
ドラゴンの後ろを取った二人は、短く会話を交わした。
「ただ、」
エリスが、隣りのエドルに聞こえるか聞こえないかの声量で呟く。
「こんなに近くにいたら、あんただとちょっと耐えられないかもね」
え。
疑問の声を出そうとしたとき、エドルは、急に自分の身体が床へと引っ張られるような感覚を覚えた。
その力に負けて、膝から崩れ落ちてしまう。まるで肺になにか詰まってしまったかのように呼吸が浅くなって、酸素を取り入れるのに精いっぱいだ。
体中に走る戦慄。震えながら、遠くにいるリシェルアに助けを求めようと顔を上げると、彼女は驚いた表情でこちらを見ていた。
その時、気を散らしたリシェルアにドラゴンの爪が迫るのが見えた。叫ぼうとしても、声が出ない。めまいがして、視界が真っ暗になった。
もう、駄目かもしれない。
消える意識の片隅でそう思った直後、誰かが頭の中で、囁くように言った。
「フィーレ」
その言葉が、エドルの認識できた最後の物事だった。
この間と同じ、そびえ立つ塔の夢だった。
どうやらこの塔は、小さな島に建っているようだ。周囲に海しかない、その孤島の雰囲気は不気味だが、そこに降り立とうとしている自分の心には、悲しみにも似た憎しみ以外、何の感情もなかった。
エドルが目を覚ました時、一番最初に目に入ってきたのは、心配そうに顔を覗き込んでくるリシェルアの顔だった。
「あ、エドルー。大丈夫ー?」
記憶の一番最後に残っている彼女は、確かドラゴンに襲われているところだったが…怪我一つなくぴんぴんしているところを見ると、無事だったのだろう。
ゆっくりと上半身を起こすと、今度はディオと氷海の二人を見つけた。ディオは椅子に姿勢を崩して座り、氷海は窓際に寄りかかっている。
「ここ、どこ?」
「山の麓の村。谷に行く前に寄ったところよー」
閑散とした、見覚えのある素朴な部屋。エヴァスタ旧天空教会に向かう途中で泊まったのと、同じ宿だろう。
窓の外を見ると、夕陽の強い光が寝起きの目に眩しかった。どうやら、気を失ってからかなり時間が経っているようだ。
「あなた、丸一日気を失ってたのよー」
「そんなに?」
氷海が頷いた。
「ドラゴンとの戦いの最中、いきなり倒れて以来、ずっと」
「倒れたお前を、いったい誰がここまで運んだと思う?」
怒りのこもった低音が聞こえて、エドルはびくっと背筋を伸ばした。
「………すいませんでした」
「帰りの荷物持ち、決定」
うげ、と言葉にならない声をあげて、顔をしかめる。
荷物持ち役を任された者は、旅の途中でエリスが買い込んだ大量の服飾品や菓子を、代わりに運んでいかなければならないのだ。
「そういえば、エリスは?」
「村に着くなり、買い物するとか言いだして飛び出したまんまだ」
「あっそう…」
人が気を失っているというのに、薄情なものである。
「それと、」とディオが、思い出したように付け足した。
「天空王子は無事だ。隣りの部屋で寝てる」
「衰弱してたから、まだお休みしてもらってるのー。でも、怪我ひとつなかったわー」
安心してため息をつき、エドルは肩や首を回して身体の調子を確かめた。倒れる直前はあれほど気分が悪かったというのに、今はそれが嘘のようだ。
「結局、おれが倒れた原因は?」
「魔力にあてられたのだろう」
氷海が窓の外を見ながら答える。しかし、「魔力にあてられた」という言葉の意味が、エドルには理解できなかった。
「当てられ…?なんだ、それ」
「自分の持ってる魔力よりも強い魔力を傍で感じると、身体が拒絶反応を起こして、気分が悪くなっちゃうのよー。
強いって言っても、相当強大じゃなきゃ滅多に起こらないみたいだけど…」
「そう。それに、被害者本人が持っている魔力によっても左右される。
つまり、リシェルアのように普段から魔力を使って鍛えているような者は、多少強い魔力にあてられたところで何ともない。しかし、ディオのようにもともと魔力の弱い亜魔界人な上、まったく魔法を使わないというのであれば起こりやすい。
あの場にいたのがお前ではなくディオだったら、丸一日眠り続けるだけでは済まなかっただろうな」
「強い魔力…」
不意に、倒れる直前に聞こえた、知らない響きの言葉を思い出すエドル。あの時、あの言葉を発していたのは。
「…エリスか?!」
「んー?呼んだ?」
その名を口にした途端、前触れもなく開く部屋の扉。噂をすればなんとやら。
今度は一体何を買ってきたのか、紙袋がいくつも彼女の手元で揺れている。
「おれを失神させたのはてめえかーっ!」
「はあっ?何それ意味わかんない!
あたしは魔法使っただけだし。魔力が弱くて勝手に倒れたのはそっちじゃん!」
エリスは怒号を突き放すと、床に紙袋を無造作に置いた。自分も座り込み、がさがさと中身をあさり始める。
土産品らしき、よくわからない絵や宣伝文句が書かれたパッケージたちの間から、明らかに毛色の違う美しい石が転がり出てきた。
「あ、あった。ハイ、これ」
「んあ?」
その透き通った石をエドルに手渡すエリス。
恐る恐るエドルが受け取ると、それは魔法石だった。淡い緑色の光を放つ、リョクギョクという名前の。装飾は施されていないが、研磨された傷一つない多面体が夕陽を反射している。
「お、お前、これどこで…」
驚いて、見開いた目をエリスに向けた。
「村の宝石店で買ったの」
「まさか、見舞い品のつもりで?」
「まあ、そんなとこ。
もちろん、ただの見舞い品ならそんな高いものじゃなくて他の物にするけど」
そう言って、エリスはエドルの持っていた緑色の宝石を手に取った。
「これには、あたしの魔力が込めてあるの。もしあたしがあんたの傍で魔法を使っても、当てられなくなる。
持ってるだけで効果があるから、落としたりしないでよ」
「お、おう」
改めてリョクギョクを受け取って、エドルはまだ戸惑いながら、床の荷物を片付け始める彼女の後ろ姿を見つめていた。
「本当は、ただのガラス玉に魔力を込めるだけでも良かったんだけど…気分が悪くなるならまだしも、倒れちゃうなんてよっぽど」
「…弱いって言いてーのか?」
「その通り」
見下したような笑みで、顔だけで振り返るエリス。
「だから、ガラス玉よりたくさん魔力を込められる、正真正銘の宝石をあげることにしたの。
感謝してよね」
土産品を一通り片付け終えると、彼女はディオに近づき人差し指を突き付ける。
「特に、ディオ。あんたは、あたしが魔法を使うときは傍にいない方がいいかもね。魔法を使わない亜魔界人が当てられたら…」
「安心しろ」
忠告を受けたディオは、椅子の上で足を組み替えながら鼻で笑い飛ばした。
「天空王子を城に送れば、この仕事は終わりだ。そこの冷血が言ってた容疑も晴れたし、お前らと一緒にいる理由もない。
お前が次に魔法を使う頃には、俺はいねえよ」
「…なるほど。じゃあ心配ないね」
エリスは何故か柔らかく微笑むと、「天空王子の様子を見てくる」と言って部屋を出て行った。
しばらくして、閉まった扉を睨むように見つめていた氷海が、顎に手を当てて呟く。
「…怪しいな」
その言葉が意外で、エドルは「は?」と首を傾げた。
「エリスが?」
「ああ」
窓枠に手をついて、寄りかからせていた腰を上げエドルの方へ向き直る氷海。夕陽が沈んで深い藍色の立ち込める部屋の中で、彼女の表情はよく見えない。
エリスのどの辺が怪しいのかしばらく考え込み、エドルは思い立った事柄を確かめるように述べていく。
「…魔法の件は、あいつが意図的に隠してたわけじゃない。おれたちが、使えないもんだと思い込んでただけじゃねーか」
「それはわかっている」
「じゃあ、旅行者だって言い張ってるのが信じられないとか?ありゃ確かに嘘っぽいな」
「…元々そんな話、私は信じていないが」
リシェルアが、サイドテーブルの上にあったマッチで、壁に掛かっている燭台に火を灯していく。徐々に明るくなっていく部屋の中で、氷海は形の良い眉をひそめていた。
「特に、今回のことではっきりした。あの女、間違いなく旅行者などではない。
そもそも、」
表情はおろか口調にすら感情を乗せることのなかった冷静な賞金稼ぎが、珍しく少し興奮気味にまくしたてた。
「あれほどの魔法力を持つというのに、なぜお前たちに護衛などさせているんだ。あの強大な力があれば、旅の途中で出くわす魔獣やならず者など相手ではない。
ドラゴンを、一撃で倒すような力だぞ」
「い、一撃?!」
エドルは身を乗り出して目を見開いた。
確認のためにリシェルアを見ると、彼女も頷いている。
「しかも、呪文はたった一言」
魔法の呪文には、長ければ長いほど威力も持続時間も比例して増すという法則がある。炎の魔法を強力にしたいのであれば、多くの魔力を注ぐだけではなく、火に関する語句を連ねた呪文をできるだけ長く唱えれば良い。
逆に言えば、呪文が短ければ短いほど魔法は弱くなる。それでいて大きな威力を出すには、大量の魔力を注がなくてはならない。
「あれだけの魔力を放出して倒れもしないなど、異常としか思えない。普通は力尽きていてもおかしくないというのに」
「お前が倒れてる横で、仁王立ちしてたぜ、あの女。超いい笑顔で」
エドルへのからかいと、エリスへの皮肉のこもった言葉を投げかけるのはディオ。
「あいつが何者だろうが興味はねえし、知りたいとも思わない。
でも、警戒するなっつーのはムリな話だな。万が一にでも敵対するようなことになったら、面倒だ」
「ちょ…敵対って」
今まで散々怒らせたりすねさせたりしたが、エリスがエドルたちを攻撃したことは一度もない。
それは言いすぎだろ、とたしなめても、ディオは反省の色もなしに無視して立ち上がり、ドアノブに手をかけた。
「俺は王都で離れるから、どうでもいいさ。奴が化け物だろうと何だろうとな。
気をつけんのはお前らの方だ。忠告してやったんだから有り難く思え」
「………」
ディオが部屋を出るのと同時にエリスが入れ替わりで入ってきた。
あまりにも完璧なタイミングですれ違ったので、エドルは思わず、今の話をエリス本人に聞かれていたのではと冷や汗を流していたが、二人はそれを露知らず、何事もなかったかのように行動している。
「…?何かあった?」
「いや、な、何も」
硬直しているのをいぶかしんだエリスが首を傾げるも、エドルはそれを不器用に流して顔を逸らす。
「ふうん。
あ、天空王子はまだ寝てたよ。寝顔が超可愛かった!」
「そ、そうか」
「…エリス――」
今まで顔を伏せていた氷海が、口を開いた。
「お前は、」
しかし、途中で声を詰まらせ、思い直したのか黙りこくってしまう。
焦れたエリスはいきなり「あーもう!」と大声を上げた。
「何なのみんなしてっ!隠し事するならもーちょっと上手くやってよね!
逆に気になっちゃうじゃん!」
「うっ…」
「言うか隠すか、きっちり決めてから態度に示しなよっ!」
清々しいまでにそう言い放つと、エリスは再び部屋を出て行った。今のうちに決めてしまえ、ということなのだろうか。
エドルは大きなため息を吐くと、何か言いかけてやめてしまったエルフを見やる。
「何を聞こうとしたんだよ」
「決まっているだろう。あの女の正体だ」
「まさか、直接「お前化け物なのか?」って聞くつもりだったのか?思い切った奴だな」
「結局、聞けなかったが」
氷海は窓の向こうの街明かりを眺め、聞き洩らしてしまいそうな薄い声で呟いた。
「………私は、期待しているのかもしれない」
「期待?」
エドルが尋ね返しても、彼女は黙って横に首を振るだけ。
「…いや。
とにかく、ディオの言う通り面倒なことに首を突っ込むことにならないとも限らない。
今までの話はなかったことにして、いつも通り振る舞うのが一番良いな」
「あ、ああ」
それきり、氷海は何も語らなくなってしまった。ずっと、どこか遠くを伏し目がちに見つめている。
エドルとリシェルアはそれに、ただ顔を見合せて、肩を竦めるしかなかった。