月の行方
連れがいなくなって大騒ぎ…という展開はもちろんなく。エドルから、ディオの部屋がもぬけの殻だったとの報告を受けても、リシェルアたちは「あら」だの「へえ」だの「そうか」だの、短いいらえを返しただけだった。
「で、心当たりはないのか?お前ら」
エドルもこれといって焦る様子もなく、食べかけの朝食の前に座り直した。
「あ、もしかして」
コールドスープを掬ったスプーンから口を離し、エリスティアが顔を上げる。
「昨日の夜、ディオが雑誌読みながらクッキー摘んでたの。あたし、それ一枚食べちゃったんだよね。
そしたら、あいつすんごい怒ってさー…」
「おっまえ…」
急に深刻な顔になったエリスティアに、エドルが、立ち上がって怒鳴った。
「人の大好物を横取りするなんて、人として最悪の行為だろ!
例えお前が神だとしても、どっちにしろ最低だ!」
「わ、わかってるよ…あたしも、あれは悪かったって思ってるもん」
「………で?」
呆れ返った顔で、紅茶を飲みながら尋ねるのはクリティス。
「奴が菓子を横取りされた挙げ句、ここを出てどこに行ったというんだ、お前たちは」
「うーん…」
クリティスの皮肉を皮肉と知らず、真剣に悩み始める二人。
リシェルアは、その光景を微笑ましく眺めてサラダを口に含んだ。
「実家じゃねーの?」
「え、何で?」
エドルの出した意見を、エリスティアが不思議がる。
すると、エドルはニヤリと勝ち誇った表情で彼女を見た。
「おいおい。愛想が尽きたら実家に帰るのは、セオリーだぜ?「実家に帰らせて頂きますっ!」てな感じで」
「なるほど!あんた意外と頭いいじゃん!」
「だっろー?」
勝手に盛り上がり始めた二人をよそ目に、リシェルアはクリティスの無表情を見上げた。彼女は、涼しい顔をして口元を拭いている。
「クリティス的には、あの意見をどう思うのー?」
「…ディオがクッキー一枚ごときで出ていくかはともかく」
奴の心は蟻の足の裏よりも狭いから無きにしもあらずだが、と付け足し、彼女は答えた。
「私も、奴は実家…故郷に帰ったのだと思う」
「そのココロは?」
「奴の故郷がニールス」
「あらまあ」
リシェルアはもしゃもしゃとレタスを咀嚼しながら、少し頭を捻った。
白蛇教団との関わりを、あれだけ露骨に仄めかしていたディオ。教団の本拠地と彼の故郷が同じ場所。おまけに、フォーラスでの事件の最中に、白蛇教団の関係者から意味深な言葉を投げ掛けられていたという。
「面白いくらいに、お話が繋がるのね」
「そうだな…」
不快そうに眉を寄せるクリティス。しかし結局話に乗って来ることはなく、ポットから紅茶を継ぎ足しながら深刻に何かを考え込んでいた。
「で、あいつの故郷ってどこだっけ?」
「今の私たちの会話を聞いていなかったのか?」
「ニールスだってのは聞いたよ。でも、そこどこ?」
エドルが首を傾げると、クリティスはいきなりエリスティアの卓の上に載っていた林檎を一つ掴み上げた。
「あ、ちょ、何すんのっ」
「亜魔界と魔界が、一つの球体の表面に存在していることは知っているな?」
「は?まあ、んなことガキの頃から知ってるけど」
「この林檎をその球体に例えるならば、」
器に添えられていた銀色のナイフで、林檎を縦半分に切り割るクリティス。白い果肉から芳香が立ち、果汁が滴る。
「右半分を亜魔界、左半分を魔界とする。まあ、逆でもいいのだが」
「それはわかってるよ。で、ニールスは?」
「ここだ」
クリティスの細い人差し指が、茎の辺りを示した。エドルはそれを見て、「ふーん」と、さして感慨もなく頷いた…が。
「………って、思いっ切り反対側じゃねーか!」
彼女の言いたいことに気が付いたのか、突然大声を上げた。
今いるフォーラスは林檎の表面のやや真ん中。目的地である神界への道は左半分の下部だが、それに対してニールスは、右半分の上部。まったく正反対の方角に向かわなければならないのである。
「なるほどー。遠回りになっちゃうのねー」
リシェルアはクリティスの手から林檎の片割れを取ると、さくさくかじりつつ相槌を打った。
「そういうことだ」
クリティスも、もう片方を食べながら頷く。
「食べ物の恨みは怖いわねえ…そんな遠くまで帰っちゃうんだもの。
気をつけないとー」
「今のあんたがそれ言うの?」
横から刺さる、エリスティアの恨みの視線が少し痛い。
それに対し、綺麗に林檎を食べ終えたクリティスが芯を皿に転がして、
「どうせお前は、これから更に食べるのだろう?五千コイル分のスイーツと、アルセ産の紅茶を」
「そーだった!あんまり食べ過ぎないようにしとかないと!」
ケロッと機嫌を直し、スプーンを置くエリスティア。エドルの扱いが上手いとクリティスには言われたが、彼女も創造神の扱いに関してはなかなか上手い。
…本当に上手くあしらわれているのは、果たしてどちらだろうか。
まだ食べ終えていないエドルを急かしている「神」を見つめながら、リシェルアは、紅茶の最後の一口を飲み干した。
何はともあれニールスに向かうのは当分先になりそうだと、呑気に考えながら。
この後、一行はディオを追うわけでもなく、クリティスの言った通り「五千コイル分のスイーツとアルセ産の紅茶」をエリスティアに奢るため、フォーラスの街に繰り出した。彼女の魔法と引き換えに、クリティスがそう約束してしまったのだから仕方がない。
しかし、エリスティアのみならずリシェルアたちも、事件からの開放感に浮かれていたのは否めなかった。そうでなければ、変装もせずに堂々と街道を歩き、あまつさえ食事をしながら大声で会話など、するわけがなかったのだ。
なにせ――自分達が見捨ててきた勇者一行は、まだこの国にいるはずなのだから。