星しるべの勇者
ラズマの言う通り、牢屋付近の壁はひびが入って脆くなっていた。修繕は始まっていたようだが、もちろんお構い無しに、ラズマとウィミーネの魔法が叩き込まれる。
壊れた壁を抜けて牢屋から正面ホールへ。そこまでは、さしたる抵抗もなかった。だが。
「止まりなさい」
クリティスがこの声を聞くのは、戴冠式以来だ。カイ王子に戴冠の儀を執り行う時だったか。
その柔らかく涼やかな声で語られる教えは、確かに、民衆の心を和ませたことだろう。ただ、今は涼やかというよりも、むしろピリピリと冷たいものも感じる。
「全員と顔を合わせるのははじめてね。こうしていると、まるで教えを説いている気分だわ」
二階へ続く階段上から、赤いローブを身に纏ったその人は語りかけてきた。
フィスカ・イーリス大司祭。いや、亜魔界神信仰教会を裏切った今は、元、と言ったほうが正しいか。
「大司祭っ!」
真っ先にアクスが、階段へ詰め寄ろうとする。しかし、途中で近衛兵たちに阻まれてしまった。
「今更、貴方たちと話す事などありません」
突き放すような声音で、イーリスは言った。
「どちらの未来が正しいか…貴方たちに教えてあげましょう」
「はんっ。そんなの、あんたに教えられるまでもないわよ」
アクス王子の隣に立ち、エフィルが大剣に手を掛けて叫んだ。
「わたしは勇者エフィル!神の託宣を受け邪道を糾す者!
神の下にある国にいながら神の下を離れたあなたが、私に向かって正義を問うこと自体が間違ってるのよ!」
勇者。確かに彼女はそう言った。
兵士たちがにわかにどよめき始める。
「勇者?何を馬鹿な事を」
イーリスが、明らかに小馬鹿にした声を出した。
信じられないのも無理はない。クリティスだって、到底信じられなかった。
しかし、エフィルは激昂することもなく、大真面目な顔で彼女を見つめている。それを見たイーリスの表情が、笑い出しそうなものから、不愉快そうなものに変化した。
「ふん。ならば、証拠は?」
「証拠なら、ここに」
イーリスの問いに答えたのは、エフィルではなかった。その傍らで、いつも見守るように佇んでいた、見習い僧侶。
彼は、エフィルと同じくイーリスを真っ直ぐに見上げている。
「僕は創造主教会の僧侶。託宣を受けて彼女を導いたのは、僕だ。
エフィルは、神に選ばれた人類の希望、正統なる勇者だよ」
「少なくとも、俺はあんな勇者、希望してないわけだが」
ディオが、納得いかない表情で毒を吐いた。独り言のような小さな声だったので当人たちには聞こえなかったようだが、リシェルアが苦い顔で彼の腕をつねっている。
エフィルが一人で勝手に言っているというのなら、ただの若気の至りか思い込みか電波の可能性大だった。しかし、あのラズマが託宣を受けたとなると、話は別だ。ウィミーネとイルファも、茶々や突っ込みを入れる事もなく黙って二人を見つめている。
「おいおい、マジかよ…」
反応に窮して隣を見ると、エドルもばつが悪そうに頭を掻いていた。近衛兵たちも、彼女に剣を向けて良いものか迷っている様子である。それもそのはず、神の託宣を受けた者に刃を向けるということは、神に刃向かうと同義なのだ。
しかし、既に神を離れた彼女は違った。
「ふふ、ははは、あはははは!!」
イーリスは、とうとう笑い声を上げた。
「それならそれでいいのよ。つまりここで貴女を倒せば、神の存在そのものを揺るがすことになる」
何を寝ぼけた事を。と、クリティスは思わず声に出しそうになった。そんなに簡単に神の存在を揺るがす事ができるのなら、自分だって真っ先にやっている。
どうせそんな事を聞いたって、この女は顔色一つ変えていないだろう。そう思って、クリティスはちらりと、黄金の瞳の少女に視線を投げかけた。
(…………おや?)
しかし。あの能天気で図太く、ふてぶてしい創造主様が、真っ青とまではいかないが顔色を変え、冷や汗を流しているとは誰が考えただろうか。
クリティスは目をみはって、その色の悪い横顔をまじまじと眺めてしまった。彼女はそれに気付かず、口を半端に開けたまま、エフィルたちを凝視している。
声を掛けてみようか。そんな好奇心が生まれかけた時、エフィルたちの方にも動きがあった。
兵士たちが、揃って武器を構えている。どうやらイーリスに、「あれは勇者を騙る偽物だ」と吹き込まれたらしい。エフィルたちもそれに倣って武器を抜き、続いて、周りの連れもしぶしぶといった感じで戦闘に入る準備を始めた。
はっきり言って、今のクリティスの興味は彼女たちよりエリスティアにあるのだが、状況がそれを許さないので仕方がない。無念のため息をついてレイピアを抜き、クリティスも視線を前に据えた。
「後は任せましたよ」
そう言って、イーリスは上階に姿をくらまそうとした。
「あっ!ま、待ちなさいよっ!」
エフィルが怒鳴る。もちろんクリティスにも、おめおめと逃がすつもりはなかった。
「アクス王子を連れて先に行け!」
近衛兵と剣を交えながら、クリティスはエフィルに叫んだ。くるりと振り返った彼女に、言葉を続ける。
「言っただろう、お前たちが主役だと。
奴はカイ王子の居場所を知っているはずだ。私たちが行くまでに、吐かせておいてくれ」
「わかったわ。…後ろは頼んだわよ!」
イーリスの後を追い、再びエフィルたちはクリティスたちと分かれた。
「さて…」
クリティスは、相手にしていた近衛兵の刃を押し返し、一旦身を退いた。
近衛兵の数は多いが、捌き切れない数ではない。ただ、リシェルアの怪我の様子も気になるから、極力彼女に魔法を使わせずに仕留めていかなければならない。近衛兵というからには、おそらく彼らの実力は警備団のそれを上回っているだろう。少し厳しい戦いになるかもしれない――
「…リティス」
レイピアの柄を握り直しながら、クリティスが思考を高速回転させていたその時。いつの間にか傍に寄って来ていたエリスティアが、こちらの服の袖をちょいちょい、と引っ張った。
先ほど、彼女に興味を惹かれていた事を思い出すが、当然今はそれどころではない。うざったくて乱暴に振り払ったが、次はその腕をがっしりと掴まれてしまった。
「なんだ一体」
「逃げるよ」
逃げ――
「………何を馬鹿な事を言っているんだ貴様は」
数瞬反応が遅れるぐらいに突拍子のないその提案を、クリティスは、さっき彼女の腕を振り払った時のような乱暴さで突っぱねた。他の連れも、何を言っているのかわからないと、間の抜けた顔でこの少女の挙動を眺めている。
しかし造物主は金色の目を爛々と光らせ、一歩も引かない構えだ。おもむろに、閉じた正面扉の方を指差すと、きっぱりとした声でもう一度、
「逃げるよ。ほら、早く」
「逃げるったって!」
横から、エドルがにゅっと顔を差し挟んできた。
「簡単に逃げれるわけねーじゃん!こいつらがいるし!」
「結界張っておいた。あいつら、しばらくはこっち側に来れないよ」
階段側に目をやると、いつそんなものを張ったのやら、薄い硝子のような結界がクリティスたちと近衛兵たちを隔てていた。近衛兵たちは必死に剣や魔法でそれを破ろうとしているが、術者は無限の魔力を持つ神の中の神。おいそれと破れるわけがない。
…クリティスたちにも、破れるわけがない。
「お、おま、おまえなああああああ!これじゃあ本当に逃げるしかねーじゃねーか!!」
あまりのエリスティアの横暴に、エドルの我慢が限界を超えた。相棒の制止を振り切って、敵方に聞かれているのも構わず怒鳴り散らす。
「このタイミングで逃げるなんて、クライマックスとエンディングの直前で退出するのと同じだぞ?!」
「そうだよ。あたしはあくまで観客で、役者じゃないの!このままだと、無理矢理舞台に立たされちゃうでしょ?」
言っている意味がよくわからないが、彼女はこちらに問いつめる暇を与えず、近衛兵たちと、その先でエフィルたちが待っているであろう階段に背を向けた。そして、かんぬきを外し大きな扉を全身を使って開くと、星明かりの広がる夜空の下へと舞い戻っていく。まるで一夜限りの夢の時間から醒めた、どこかの御伽の姫のように。
「あらあら、エフィルたちに怨まれちゃうかもしれないわねえ」
「別に怨まれてもいいよ。めんどくさかったし」
いつもより若干元気のない、読めない笑顔のリシェルアと、既に呆れを通り越して何か悟ったような表情のディオが続いて行く。「あああああくそっ!」と、エドルが不満げに大声を上げて、結局外へと飛び出した。
「な、おおおお前たちっ、どこへ行くつもりだっ」
仕方なしに踵を返したクリティスの背に、近衛兵のうろたえた声が投げかけられた。
クリティスはもう一度、深呼吸にも似た大きなため息を吐き出す。それから、疲れ切った流し目をそちらへ向けて、首を左右に振りながら肩を竦めた。
「知らん。何なら、お前たちの信じる神にでも訊いてみてくれ。
少なくとも私たちよりは、親交が深そうだからな」