戴冠式〜オープニングは華やかに〜・後篇
遅い、と独りごちて、ラズマは詰めていた呼気を吐きだした。
戴冠の最中に飛び込みカイ王子の所業を暴露したあと、アクス王子本人を登場させてその言葉の正しさを証明する。カイ王子が大人しくその事実を認めてお縄につくのであれば合図をこちらに送り、彼が逆上して何か仕掛けてくるのであれば、即座にこちらへと逃げてくるというのがエフィルの算段なのだが、いまだ遠くの会場の喧騒が聞こえてくるだけで、一向に進展がない。
やはり、彼女に任せてしまったのは間違いだったのか。
暇つぶしに開いていたスケッチブックと鉛筆に目を落とし、ラズマはもう一度ため息をつく。デッサンの終わってしまった城の画が、暇なのだということを一層感じさせてうんざりした。
裏門で待機しているイルファの様子を見に行くか、それとも会場の様子をうかがってみるか。これからの行動に思案を巡らせた時だった。
「奴ら、分かれて逃げたぞ!」
「こっちも散開して追え!」
遠くから無数の足音と共に、兵士たちの威勢のいい声が飛び交った。
(…やっと動いたか)
どうやらカイ王子は、素直に罪に服する気がなかったようである。
今いる場所は、フォーラス城と見張り塔とを結ぶ渡り廊下の下。アクス王子を連れたエフィルが逃げてくるはずの場所。ラズマの仕事は、二人が安全に脱出できるよう、ここで兵士たちを迎撃し、撹乱することだ。
ローブの裾を払うと、ラズマはスケッチブックを閉じておもむろに立ちあがった。無造作に積まれている木製の空き箱だの使い物にならない家具や武器だのといった粗大ゴミをそっと押しのけ、外へと這い出てみる。
まだ誰の姿も見えていないが、足音と喧騒は相変わらず聞こえ続けていた。仲間たちがやってくるのも時間の問題だろう。
まずは、威嚇のために派手な魔法でもぶっ放してやろうと、頭の中で呪文を練る。間もなくぱたぱたと足音が近づいて、視界に一人の少女の姿が現れた。
「エフィ………ん?!」
だが。それは、想定していた人物とはまったく違っていた。
あ…れは………
「うそ、待ち伏せっ?!」
赤銅のようなつややかな色をした髪を持つ小柄な少女は、ラズマに気付くと大きく後ずさった。こちらが一瞬呆けている合間に、身を翻して元来た道へと踏み出す。
「まっ…待て!」
「待つわけないでしょバーカ!」
背中を見せたままそう叫ぶと、彼女は走り去ろうとする。が、曲がり角の向こう側から近づいてくるまばらな足音に、再び足を止めて舌打ちをした。
「こっちか?!」
「追いこめ、逃がすな!」
同時に、数人の男たちの声も聞こえてくる。事情はわからないが、この少女も兵士たちに追われている最中らしい。
ラズマは、躊躇している彼女に素早く近づくと、後ろから胴に片腕を回し、抱え込んだ。驚いて大声を上げかけた少女の口をもう片手で塞ぎ、先ほど待機していたがらくたの山に飛び込む。
間一髪。
自分たちの姿は兵士たちの目に映らなかったらしく、彼らは騒がしく怒鳴り散らしながら粗大ゴミ置き場の前を通り過ぎて行った。
安堵のため息をついたのもつかの間、今度は至近距離から、予想外の抵抗が始まる。
「いてっ!うわ、やめろって!」
抱え込んでいた少女が、いきなり拳を振り上げ暴れ始めたのである。咄嗟に口を塞いでいた手を離すと、彼女は大きく肩で息をしながらこちらと距離を取った。
「っはー、はー、はー………」
どうやら、息ができなくて苦しかったようだ。涙を浮かべて睨んでくる金色の瞳から軽く目を反らすと、ラズマは「ごめん」と素直に謝った。
「助けてくれたのは良かったんだけどね?」
「…鼻ごと押さえてた事に、気がつかなかったんだ。本当に悪かったよ」
ひとしきり喘いで呼吸を落ち着かせると、少女は乱れた髪や服を整えはじめた。それから、ラズマの全身を隅々まで眺めて、
「…聖職者?」
ラズマが首から下げているペンダントに目を留め、尋ねる。
ペンダントトップの、太陽を象った紋章を指先で弄りながら、ラズマは答えた。
「ああ」
金色に輝くこのペンダントトップは、太陽に例えられる神の中の神、創造主に身を捧げた証である。身に纏った黒いローブも、戦闘服であると同時に、創造主教の僧侶の制服だ。
「創造主教の僧侶、ラズマ・ガーダー。神聖都市アトリクス出身だ」
「アトリクス出身?なんで魔界のアトリクスから、亜魔界のこんな辺鄙な国に来てるわけ?」
「それは、いろいろと込み入った事情があってね…
あんたこそ、なんで兵士に追われてるんだ?」
外の様子を確かめながら、ラズマは問い返した。エフィルの姿はまだ見えない。
「あ、う…その…
た、戴冠式の見物に来てたら、なんか変なゴタゴタに巻き込まれちゃって…成り行きで」
ラズマは、肩を落として後ろ頭を掻いた。
「変なゴタゴタ」とは、おそらくエフィルたちの乱入の事だろう。そして、何故か無関係のこの少女が巻き込まれ、兵士に追われる羽目になっている。
つまり、自分たちの立てた「カイ王子の所業を暴く計画」は、既に失敗している可能性が高いということだ。
「…大きな剣を背負った、茶髪の娘に会わなかったか?」
念のために問うてみると、少女は目を丸くして頷いた。
「ああ、塀の上から大声出してた人のこと?
彼女にカイ王子の手先だとか言いがかりつけられた揚句、逃げるのを邪魔されて、こんな状況になってるわけだけど…」
何やら、自分がここでのんびりデッサンをしている間に、ややこしい事態が発生していたらしい。それも、仲間の勘違いを発端にして。
「そりゃ、あんなとこにいたあたしたちも悪かったんだけどー。だからって、いきなり決めつけるのはどうかと思うんだよね。
もしかして、君の知り合い?」
「…実はそれ、僕の仲間なんだ」
あまりの申し訳なさに少女の顔を見れないまま、ラズマは小さな声で言った。
「まじで?」
「詳しい説明は省くよ。
とにかく、ごめん。うちの連れが迷惑かけたみたいで」
「まあ、どんな事情があったのか知らないけど…君自身が悪いことしたわけじゃないし、気を落とさないで、ね?」
あっけらかんとした声でなだめられるも、罪悪感は増すばかりである。
しかし、このままじっとしているわけにもいかない。現状が把握できた以上、こちらも臨機応変に動かなくては。
気を取り直して、ラズマは深呼吸をし顔を上げた。
まず、この少女を無事に外へと脱出させるのが先だ。その後、裏門で待機しているはずのイルファの様子をうかがい、今後の対策を練らなくてはならない。空を飛ぶ事のできるウィミーネも、城の上空を経由して直接そこへと向かっているはずだ。…会場で兵士たちに捕まっていなければ、だが。
「あんた、名前は?」
「あたし?………エリスだよ」
少女エリスは、その黄金色の目を瞬かせて答える。
「エリス。僕は、今から裏門にいる他の仲間と落ち合うつもりなんだ。おそらくそこに辿りつけさえすれば、あんたも安全に脱出できるだろうから、一緒に行かないか?」
エリスは、ためらうことなく頷いた。
兵士たちの近づいてくる気配がないことを確かめて、木箱の隙間から静かに抜け出る。それから、先ほどエリスがやってきた方向と真逆の、裏門のある方へと二人は走り出した。
エリスのペースに歩調を合わせながら、ラズマは尋ねる。
「エリス、あのさ」
「何?」
「僕、あんたのこと知ってるんだけど」
「………へっ?」
隣りに並んだエリスは、呆けた顔でこちらを見上げた。
おかしいとは思っていたが、やはり気付いていなかったようである。というより、覚えていなかったという方が正しいだろうか。
「知ってるって…なんで?
あたし、いつ君と会ったっけ?五百年前?千年前?」
「いや、そんなに前じゃなくて。…例えば、今日の朝、とか」
「うーん、突っ込みがいまいちあっさりしすぎててつまんないなあ………
って、今日の朝っ?」
エリスは思いがけず足を止め、こちらをじっと観察し始めた。
そして。
「あ………あああああああああっ!!」
逃亡中だということなどすっかり忘れて、彼女は大声を上げたのだった。
散々城の敷地を駆けずり回り、ようやっと裏門が見えてほっとしたとき、
「…ちょっと待て」
共に走っていたディオが、こちらのローブのフードを引っ張った。
「どうしたのー?」
「しっ」
その端正な横顔を見上げて問うと、彼は口元に人差し指を当てる。
「誰かいる」
見張りの兵士だろうか。良く見ると、確かに門の陰に、誰かが立っている。
他の連れの安否も気になるところだが、休む間もなく追いまわされて疲れ切っており、早く安全な場所に避難したいというのが今一番の気持ちだ。兵士一人程度ならば、強引に突破しても問題なさそうだが…
リシェルアがそう告げると、ディオは首を横に振った。
「いや、警備兵じゃねえな…」
門扉の鉄格子の隙間から、真っ赤な後ろ髪が見えていた。警備兵は皆頭に兜をつけているはずだ。腰に下げた鞘も、城の兵士に支給されているような量産品などではなく、古めかしくも威厳のある作りをしている。
ディオが、いつでも撃てるように銃を下手で構えて、そろそろと近づく。だが、不意に足元の砂利が思いがけず大きな音を立て、彼はびくりと身体を震わせた。
その音は赤髪の男にも聞こえてしまったらしい。彼は呑気な声色で何か言いながら、ゆっくりと振り返った。
「ウィミーネか?首尾は…」
「ちっ!」
舌打ちをすると、目にもとまらぬ速さで銃を持ち上げるディオ。男の顔が完全にこちらを向くのと、彼がトリガーに指を掛けるのは同時だった。
「待ってディオ!」
発砲寸前、リシェルアはディオの腕を抱えるようにして押さえこむ。
「な…」
「っ誰だあんたら?!」
今度は、こちらの存在に気付いた赤髪が剣の柄に手をかける。が、扉越しにリシェルアの姿を見るなり、驚いた顔で動きを止めた。
「あ、あれっ?君は確か…」
「…何だ?リシェルアの知り合いか?」
男の豹変にいぶかしんだディオが、銃をしまいながら尋ねてくる。
リシェルアは小さく頷いた。
「知り合いっていうほどでもないんだけどー。
今日の朝、あたしたちナンパされてたでしょう?」
「ナンパって…俺らがチケット取りに行ってた時のか?」
「そうよー。
それで、彼がその、あたしたちをナンパしてた人ー」
「ま、まさかこんなところでまた会えるとは…」
背の高い赤髪の男は難なく門を開け放つと、さっとリシェルアの華奢な手を取り唇をつけた。それから、手慣れた仕草でリシェルアの背中に腕を回し、外へと促す。
「なぜここにいるのかはわからないが、君のような可憐な少女が、此度の事件に巻き込まれるのを見るのは忍びない。
さ、今の内に早くここから離れてくれ。そろそろ、兵士たちが押し寄せてくる」
そして今度はディオの方へ向き直ると、社交場の紳士を思わせる動きで丁寧に会釈をした。
「初めまして、レディ。俺は、トレジャーハンターのイルファ。イルファ・アリゼルだ。
今日のこのよき日に、君のような麗しい美女に出会えるなんて、光栄に思いたいイタイ痛い!!」
「初めまして、優男。耳を引きちぎられるのはお好きかしら?」
赤髪の男イルファの片耳をつまんで力の限り引っ張りながら、皮肉のこもった笑みを返すディオ。リシェルアが慌てて止めに入ると、彼はまるで汚物でも見るような目でイルファを睨んだ。
「じょ、冗談だって…。あんたがれっきとした男だってことぐらいわかってるさ、「月傷のディオ」」
「…俺の事を知ってた上で冗談をかますとは、よっぽどのMだな」
旧知の仲、というわけではなさそうだ。おそらくイルファの方が、ディオの姿形とその悪名を知っていただけだろう。
「「烈火のリシェルア」と「月傷のディオ」か。面白い取り合わせだな」
イルファは後ろ手で門を閉めると、そこに寄りかかって言った。
「どうしてこんなところにいるんだ?まさか、カイ王子に雇われて、こっちの始末をしにきたわけじゃないだろうな?」
どこかで聞いたような誤解だった。
「なるほど。お前、あの茶髪の女の仲間か。
そいつにも同じ事言われたけど、こっちは式を見物に来て巻き込まれたただの一般人だ。もっと言うと、あの女に誤解されて足止め喰らったがために逃げ遅れて、さらに誤解した兵士共に追いまわされる羽目になったわけだが」
「…エフィルの奴、また事を面倒な方向に…」
イルファは格子に片手を掛けたまま、がっくりとうなだれた。
「で、何か言う事は?」
「ああもう、疑って悪かった!すいませんでした!
それはさておき、城の中を逃げ回ってる間にうちの仲間を見なかったか?」
「お仲間ー?もしかして、今朝も一緒にいた黒い服の人かしら?」
リシェルアが首を傾げて聞き返すと、彼は数回首を横に振り、
「いや、ラズマの奴は他の場所で張ってるから大丈夫だとして、ウィミーネの方だな。翼人の、金髪の女の子だ」
「もしかして、エドルたちと離れる前に、立ち塞がってきたあの子かしらー」
確か、あの茶髪の娘エフィルも、「ウィミーネ」と叫んでいた気がする。
「逃げてくる前には見たが、逃げてる最中には見なかったな。俺らを追いかけて来てたのは、城の兵士だけだったと思うし」
「そうか………
…捕まったのか?いやしかし、あいつは空を飛べるから…」
向こうは向こうで、何やら事情があるようだ。が、わざわざ事件に首を突っ込む気にもならないし、手助けをしてやる義理もない。リシェルアでさえそう思っているのだから、ディオに至っては、手助けをしてやろうなどとは最初から考えていないだろう。
「どんなことに首を突っ込んでんだか知らねえが、まあ、せいぜい上手く立ち回るんだな」
「それじゃあ、あたしたちはこれでー」
「ああっ、ちょっと待ってくれ!」
さりげなく立ち去ろうとすると、イルファは慌ててリシェルアの腕を掴み、引き止めた。こちらが少し困ったように眉尻を下げるも、彼は構わず、最初にしたように柔らかく手を取り、
「今回の非礼のおわびに、ぜひとも君を食事に誘いたい。城下町の郊外に、夜景の美しいレストランがあってね。もちろん、料理の方も一級品なんだ。
良ければ、今日の晩にでもまた二人で会いたいと思うんだが、どうかな」
「せっかくだけれど、お断りするわー」
ためらいもせずにきっぱりと拒否すると、イルファは二の句が継げずに固まってしまった。
そこに、ディオの冷たい言葉が炸裂する。
「おわびとか言ってる割に、同じ目に遭ってる俺を一緒に誘わないあたり、下心が透けて見えるな。
口説くの、下手くそ」
「………」
言い返す言葉もないのか、イルファはリシェルアの手を握ったまま再びうなだれた。
その手をも無情に払いのけ、「さようなら」と笑顔で告げると、先に歩き出していたディオの後ろに小走りでついていく。
「とりあえず城は抜けたし、一応は安全だな」
「そうねえ…。
みんな、無事だといいけれど」
自分を置いて、さっさと先に逃げて行ってしまった相棒に思いを馳せながら、リシェルアは一つ、ため息をつくのだった。
しばらく城の適当なところに身をひそめてから、元居た城壁の破れ目まで戻ってきたクリティス。案の定、王族貴族はもとより庶民の見物客も避難してしまった後で、会場内はもぬけの殻だった。
兵士たちも、一人残らず敷地内に散って、連れや乱入者たちを追いまわしていることだろう。平和な小国の警備体勢など、所詮この程度と言ったところか。
一応周囲を警戒しながら、舞台の横に回り込んで悠々と城下町に出る。直接宿に帰っても良いが、せっかく時間があるのでどこかで一息入れていこうと思い、クリティスは喫茶店を探し始めた。
(そういえば、町中だけではなく郊外にもあったな)
この国に滞在すると決まった時に買った観光ガイドブックに、郊外の丘に建つ優雅なレストランが載っていた事を思い出す。どうせ集合時間は決めていないし、戻るのが少し遅くなったところで、誰も咎めはしないだろう。そもそも、こちらの忠告も聞かずに騒ぎ立てていた彼らが、自業自得で引き起こした事態なのだから。
「…こっちか」
街中の人ごみを抜けて喧騒から少し遠ざかると、住宅街の合間を縫うように伸びている小道と、その先に、林に覆われた小高い丘が見えた。懐から手帳を取り出し、そこに挟んでいた城下町の地図を取り出して確認しながら上っていく。丘の林の上から、ぽつんとレストランの屋根が突き出ていた。
住宅街を抜けて、林に差し掛かった時。
「………?」
クリティスは、立ち止まって耳をひそめた。
聞こえてくるのは、昼から夕方に移り変わる時間帯の、涼しくなった風が吹き抜ける音。それから、木々の間を飛んでいく小鳥の鳴き声。
辺りに、人の姿はない。
少し首を傾げてから、再びクリティスは歩き始めた。が、すぐさま歩みを止めて周りを見回す。もう少し歩いてみて、また止まる。
足音が、聞こえる気がする。それも、こちらが歩けば向こうも歩き、こちらが止まれば向こうも止まるというように、まるで自分に合わせて動いている。エルフ族のクリティスの耳だからこそ聞こえるが、人間の耳では聞き取る事の出来ないような、ほんの微かな足音だ。
知らぬ間に、警備兵につけられていたのだろうか。それとも、他の誰かか――
普段の癖で腰のあたりをまさぐったが、レイピアを置いてきてしまった事を思い出し、眉を寄せる。まず宿に戻って武器を身につけておくべきだったと後悔しても、遅い。
万が一襲われても、素手の自分が対処できるか程度の相手かどうかは、わからない。そしてすぐそばには、目的地のレストランがある。
(…あそこに駆けこむか)
相手の正体が定かでない以上、こちらから動くのは危険だ。そう判断したクリティスは、とりあえず逃げをうつことに決めた。レストランに駆けこんで、相手が諦めればそれでよし、追いかけてくるようであれば、相手を見て対処法を考えればいい。
もう一度辺りを見回し、相手の姿が視認できないのを確かめてから―――クリティスは、軽やかに地面を蹴った。
しかし。
「おい、クリティス!」
「!」
聞き覚えのある声に呼ばれて、クリティスは咄嗟に、踏み出した足を軸にして振り返った。
いつの間にかエドルが、背後の少し離れたところに立っており、こちらに向かって手を振っている。突然のことに目を丸くしていると、クリティスが何のリアクションも取らない事に焦れたのか、むっとした表情で彼は歩み寄ってきた。
「呼んでるんだから、さっさとこっち来いっつーの!
どこ行くんだよ、宿はあっちだろ」
「あ――いや………
一息入れよう思って、レストランに…」
「…お前…おれら見捨てて一人で逃げた挙句、呑気にティータイムかよ…」
ジト目で睨まれたがそれはよそに、クリティスははっと我に返って周囲を見回した。
その挙動を見たエドルが、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「…どうした?」
「いや………
エドル。ここに来るまでに、誰か見なかったか?」
「は?」
質問の意味がわからないというような顔で、深緑の目を瞬かせるエドル。
「誰かって?」
「どうも、何かにつけられていたような気がしていたのだが…」
「警備兵か?おれがここに来る時には、それらしい奴は見なかったけど」
「………そうか」
どちらにしろ、ここでエドルと合流した時点で気配が消えたという事は、おそらく追手ではないのだろう。
ふう、と大きく息をつくと、クリティスはエドルの顔を見据えて尋ねた。
「ところで、お前はどうしてここにいるんだ」
すると、エドルは一変して不機嫌に腕を組み、大げさにため息をつく。
「どうしても何もねーよ。城から抜けて人ごみに紛れてたら、お前がすたすた住宅街を上ってるのが見えたから、慌てて追いかけて来たんだよ。
集合場所間違えてんのかと思ったじゃねーか」
「…自分で決めた集合場所を、自分で間違えるわけはないだろう。お前の軽い脳みそならともかく。
それに、リシェルアはどうした?お前と一緒に逃げたものと思っていたのだが」
「お前、今あっさりと失礼な事を…まあいいや。
リシェルアとは、逃げるときにはぐれたよ。ついてきてるかと思ったら、いつの間にかいねーんだもん」
肩を竦めると、「あいつ、基本マイペースだから」とエドルは付け足した。どうも、それほど心配しているわけでもないようだ。その態度が意外だったので唖然としていると、エドルは横目でこちらを見て、怪訝そうに顔をしかめた。
「まあ、たぶん何とかなってるだろ。エリスかディオと一緒に逃げてる可能性もあるし。
とにかく、さっさと戻ろうぜ。あいつらも戻ってるかもだしさあ」
「あ、ああ」
曖昧な返事を返すと、彼は怪訝な表情を元に戻さず、こちらの考えている事を探るようにじろじろと顔を眺めてきた。が、無表情からは何のヒントも得られなかったか、今度は俯いて唸り始める。しばらくしておもむろに顔を上げると、
「わかった。もしかして、さっきのことまだ怒ってる?」
「怒っていないとは言わないが、今は別に、そのことを考えてたわけではない」
「じゃあ、誰かにつけられてた事がまだ気になってんのか?
そんなに怖いなら、おれが後ろについて護衛してやってもいいけど」
「別に。
それに、お前も丸腰のままなのだろう?護衛になるとは到底思えないが」
「なんだ、どっちもはずれかよ…。お前って、何考えてるかほんっと読めねーなあ…」
なぜか残念そうにうなだれると、エドルはとぼとぼと先に歩きだした。護衛してやってもいいと言ったくせに結局前を歩くのかと、失笑を禁じ得なかったが、先の心遣いに免じて突っ込むのは止めておくことにする。
気付けば太陽は大きく傾き、日差しの色も赤みが増して、下に見える住宅街の家々の壁を染め上げている。背にしたレストランが少し名残惜しかったが、夕食時に連れを誘ってもう一度来るのもいいかと思い直し、そこを後にするのだった。